C1-2 杉本加奈
「宮城野様のお宅ですか?」
ドアフォンから聴こえてきた声は取り澄ました若い女性の物だった。スタイルの良さを強調する身体にぴったりとしたスーツ姿がモニターに映る。鼻筋の通った顔がクールな印象を与え、声と同じく澄ました表情に苦手意識が掻き立てられる。
「あ…」
「わたくし、やすらぎ葬祭の杉本と申します。お祖母様のご葬儀の件でお伺いしたのですが」
「えと…」
「…お孫様の友梨彦さまですね?」個人情報が筒抜けだった。出処は病院だろうか?其れにしては搬送した連中は興味が無いようだったが、別の会社なのだろうか?
「…」
「…もしもし?私共は北連雀総合病院からご紹介を受けたところで決して怪しい者では有りません。是非、私共からもご葬儀の見積もりをと思いお忙しい中ご迷惑かと思ったのですが…」
「はあ、確かにちょっと余裕無いんで名刺入れて貰って改めてで良いですか?」言葉尻を捕えて追い出しに掛かる。
いずれ葬儀は出さないとならない。さっきの搬送業者の態度を考えるとこうして積極的に対応してくれる所は有難い筈なのだが迎え入れる気に成らなかった。なんと言うか家に押し掛けられドアフォンを鳴らされるという状況自体耐えられないのだ。
おれはドアフォンの音が嫌いだ。押し付けがましく鳴り続け、此方の平穏で過ごしたいという意志を蒸発させる。居留守を使えば謂れの無い罪悪感を滲み付け、対応をすれば否応無く社会と対峙させる状況に俺を追い込む。
しかも、ニートにとって売り込みや宅配便を除けば家族とはいえ他人の社会関係なのだ。自分にとっては何の関係も責任もない相手から値踏みされ、蔑まれるのは何か割り切れない。
そうした経験が積み重なった結果、状況に固着した対応が生まれてしまっている。つまり、ばあちゃんが在宅して取り次ぐ時以外はなるべく対面する状況まで進むのを避けるというものだ。社会性の欠如したニートそのものの対応だが、実際にそうなのだから仕方が無い。しかし、相手は引き下がらなかった。
「あの!私共にさくら様の生前の積み立てが御座いまして、プランによりましては追加のご負担無くご利用できるかと思います。どちらの会社をご利用されるにしてもそちらの取り扱いもご相談せねば成らないので是非ちょっとお話しを」本当だろうか?だったら真っ先にいう筈じゃないか?一瞬カマを掛けようかと言う考えが浮かぶが止めておく。と言うか出来ない。そんな会話スキルはニートの俺に無かった。
「あ、いや…」
「あのお、本当にちょっとだけで良いんです。ダメでしょうか?」声色が急に可愛くなった。モニターから見える顔の位置まで微妙に下がり印象ががらりと変わった。困った様に眉を寄せ上目遣いで哀願してくる。随分幼く見える。可愛いじゃん…って見えない様に膝とか曲てるのか?凄過ぎだろ?しかし、其れ迄は劣等感を刺激されるタイプの女性への忌避感ばかりだったのが和らぐ。これがスキルだった。
「…分かりました。ちょっとだけなら」ニートはスキル抵抗値も低い。
「ありがとうございます!」
ドアを開ける段になって、なんだか自分の格好が気になり出した。全ての社会性を切り捨てて来た最終段階でどう取り繕うと手遅れなのだが、やっぱり帰ってもらおうかと言う考えがよぎる。
「どうかされましたか?」ドア越しの存在感が伝わったのか、相手は声を掛けてくる。俺は仕方なくドアを開けた。
その女は扉が半開きのタイミングで滑り込む様に玄関に入ってくる。近い。そして実物はモニター越しで見るよりかなり美人だった。そんな相手と体温が感じられる距離で相対する緊張感で俺は固まってしまった。
「失礼いたしました。改めてやすらぎ葬祭の杉本加奈と申します。この度はおばあさまのご不幸、誠にお悔やみ申し上げます。」再び改まった口調になるがパーソナルスペースが狭過ぎるだろ。
絶対ににこの女はおかしい。と言うか凄腕の営業マンだ。しかもかなりギリギリの手を使う。ちょっと上目使いで名刺を差し出す姿も狙ったかの様な可愛さだ。
そこで昨日から風呂にも入っていない俺の体臭にも短パンTシャツ姿にも臆せず距離を更に詰める相手に対する警戒感が膨らみ慌てて二三歩下がる。一瞬相手の顔に失敗したかと言う表情が浮かんだように思える。今までの女性との接触経験との余りの落差が俺を救った。救われたのか?
「申し訳ありません。私時々こう言う失敗するんです。ご不快でしたね。別に下心ある訳じゃないんです。距離感おかしいよ、って友達にも良く言われるんですけど…」本心から謝っているように見える。美人は得だ。逆に相手が罪悪感を覚えてしまう。
扉が閉まり完全に入り込まれた。
「あの、宜しければお話の前におばあ様にお線香を上げさせて頂きたいのですが、大丈夫でしょうか?」完全に相手のペースだ。断れる訳もない。
「ええ・・・まあ、有難うございます。」
「どちらでしょうか?」さっきよりも遠いが懐に入り込む様な立ち位置に自然に来る。俺が自然に動けば肩に手を掛けたり、腰を押したりせざるを得ない様な位置関係だ。肩を抱いた俺に彼女がニッコリと笑いかける妄想まで付いてきた。俺は不自然に大回りして先に立って居間に案内する。
「すみません、ヒールが脱げ辛くて…」振り向けばスーツに対してかなり派手で脱ぎ辛そうなヒールに手を掛けたまま助けを求める視線があった。胸元が危険な感じだ。イベントをクリアするまで次のステージまで進ませない鉄の意志を感じる。そこまでやるか?
「ああ…」声が若干上擦ってしまった。何も考えずに「ヒールを脱がせば良いんですか?」と問い掛けて失敗に気付く。彼女は大きく目を開いて屈託なく笑うと
「そうして貰おうかな・・・」そこで、俺の慌てた顔に気付く。
「冗談です。申し訳ありません、お客様に・・・どんくさくて。手をちょっとだけ・・・」と恥ずかしそうに言った。油の差してないギアの様な音を立てて俺は手を差し出した。
彼女は意外としっかりと俺の手を握りヒールを外すと姿勢を正してありがとう御座いました、と挨拶をして来た。妙な雰囲気は無く、俺は何故かほっとして、いえいえどうしましてと彼女に笑いかけてしまった。
女性にこんな事をしたのは人生初めてだったが、そう言う自意識は全く発動しなかった。もしかして天然の良い子なのかも?
居間に入るとばあちゃんの姿を見て彼女は眼を顰めた。
「これはいい加減すぎます。昨日だと沖本葬儀社ですか?」領収書も貰えなかった俺には何も言えなかった。それから彼女はこちらを向いた。
「お仏壇のある部屋は有りますか?」
「奥の和室にあるけど・・・」
「そちらにお運びしたいんですが、お手伝いお願いできますでしょうか?」
「え?そう言う事大丈夫なんですか?」
「う~ん、お恥ずかしい事に実は初めてですけど、このままにしておけません。あ、勿論サービスですよ。ご安心ください!」クールな雰囲気は何処にも無くなっていた。むしろドジな熱血タイプだ。整った顔立ちとスーツで偽装していただけらしい。
「えと…」
結局、俺が二階から布団を下して、二人で和室までばあちゃんを運んで安置した。彼女は華奢だったが危なげなく遺体を支えてくれた。それは驚くほど軽く、そして死体っぽく無かった。眠っている人形の様と言うのが一番合っている気がした。
「その・・・亡くなった方ってこう言うの普通なんですか?」
「お綺麗なお顔ですね。ご健康な方ほど早く傷むとは言いますが、状態にも依りますのでなんとも・・・」
彼女は三具足をテキパキと遺体の前に配置した。そして俺に手向けるよう促した。
俺が祈りを済ますと彼女も線香を香炉に供え手を合わせた。
それが終わると彼女と顔を見合わせて同時に息を継いだ。そのタイミングの合い方がぴったりだったので俺が思わずニヤリとすると彼女も可笑しかったのか小声で笑った。
「申し訳ありません、初めてお伺いしたお宅で・・・」
「とんでもない、ずっと気が張ってたので楽になりました。ありがとうございます。」俺は素直に礼を言った。何処と無く良い香りがした。彼女香水をしてたっけ?
これが彼女の営業だったとしたら随分と無駄な事だと思う。俺は小銭すらない一文無しで、扶養家族の居る年金生活者が大して金を貯めてるとも思えなかった。しかも俺は金額の把握すら出来てない。
おそらく彼女の言う積立金の範囲でしか式は出来ないのだが、ソレだったら彼女がどんな態度を取ろうと最初から決まって居る。どうしたってばあちゃんが信頼してお金を預けた所以外を俺が選べる訳もない。だったら、彼女にこれ以上意味の無い事をさせては可哀想だ。
「あの、色々とご親切にして頂いたんですが、実は今、お金が無くて積立の分でしか葬式を出せません。そちらはお願いしますのでもうこれ以上は大丈夫ですよ。」彼女が今にも俺が見慣れたあの表情を浮かべるのでは無いかと恐々話した。
「ありがとうございます!お積立の範囲の見積もりは今日持って参りました。まずはそちらをご覧に成ってからご判断頂けばと思います。」普通に流された。当たり前か?非モテの自意識過剰のリアクションを一般人に理解して貰うのは不可能だ。
彼女は書類を取り出すと俺の隣に座り直す。やっぱり近過ぎる!ほぼ肩から膝まで俺の身体との間に隙間が無い。と言うか俺が固まってるのを不思議そうに見上げるな!胸を肘に擦り付けてる様に見えるから。
「えと、近い」
「そうでしょうか?でも、こうしないと書類を一緒に見れません」反論してきた。それにこっちを向かないで?話す為に俺もそちらを向いたから顔と顔の距離が30センチも無い。心無し頬が上気して眼に妖しい光が見える様な気がする。なんで?
「そ、祖母の前で何だから居間に戻りませんか?」たぶん、何だからの意味が自分でもよく分からなくなってる。平気でそのまま俺の無精髭だらけの顔を興味深そうに眺めてた彼女はチラっとばあちゃんの方を見ると
「あ、そうですね。御仏前でお金の話なんて…弁えませんでした。」そんな話してたか?
居間に戻ると先ほど感じた香りが強く感じられた。なんだろう?薔薇の香り?何か華やかな花の様な・・・
さっき彼女が胸をこすりつけて来た腕の匂いを嗅ぐ。別にこの香りが強くする訳じゃなかった。
「え?何か匂いますか?」何かを擦り付けた認識はあるのね。
「いや・・・香水とか付けてます?」
「こういう仕事ですから仕事中は付けないようにしています。・・・多分、大丈夫です」確かめたらしい。
「ですよね」
「どうかしましたか?」彼女はこの香りに気付いて無い?
「うーん…」まあ、いいか。
そのままL字型に配置されてる居間のコーナーソファーの長辺、ばあちゃんが寝かされてた部分をどう扱おうかと考えて居ると、彼女はサッサとその一番外側に座ってセットの机に書類を広げ始める。隣はデフォなのね。でもそこ、ばあちゃんの頭があったところなんだけど・・・
俺は短辺に腰を掛ける。彼女が遥か遠くに見えるが仕方ない。親父の自慢だった舶来の革張りのソファーセットはかなり大きいのだ。
俺の位置に気付いた彼女が無言で擦りながら長辺を移動してきた。首筋が真っ赤になっている。俺は何も言わず彼女が話し始めるのを待った。
「あんまり近くするつもりはありませんでした・・・」
「お、おう・・・」
「こ、こちらがやすらぎあんしん積立の詳細で・・・」しばらく彼女の説明を聞く。見積もりや手続きについて聞いている内に彼女の言葉が途切れがちになる。やがて、彼女が頭をゆらし始めたのに気付く。熱っぽい表情になっている。それと共に例の香りが辺りに強く漂ってくる。
「大丈夫ですか?」
「え?大丈夫れすよ。なんれそんなこそきふんれすかあ?」
「大丈夫じゃないですよね?」
「ああ・・・そんなこと・・・」彼女は熱の籠った視線、というより獣の様な目で俺を見つめる。「ヤバい・・・」
「大丈夫じゃない!」
「これ?あれ?あ!」彼女は突然俺の右手を握ると自分の胸に押し当てる。流石に愕然として振りほどこうとするが予想外に彼女の力は強く全く手を動かせない。ところがそこで彼女は一瞬びっくりしたように俺の手の触れた胸のふくらみを見た。その時力が弱まり俺は右手を抱き抱えるように回収する。俺は女の子か??
「なななななな?え?うわら?」混乱して意味のない間投詞を吐くだけの俺のひざに手を掛けた彼女の表情が目まぐるしく変わる。はっきりと分かる欲望の表情から戸惑い、そして俺に何かを哀願するような・・・
「どうせ初めからこうするつもりだったし!」最後に何かを堪えるような、しかし決然とした顔に変わると徐々に俺に顔を近づけて来る。膝が全く動かない。なんて力なんだ?
「こここ、こうする??」葬儀の営業じゃないのだろうか?いくら最近そっち方面の価値が下がったとは言え手軽すぎないか?この日本国全体を覆う倫理の低下には断固として反対せねば!いや、完全に調教済みの草食系男子としては純粋に怖いし!
震え上がる俺の・・・はあっさり奪われた。何故か血の味がする。精神的ショックなのかぼうっとしてしまう。直後に燃え上がるような痛みが俺の全身を覆った。逃げるように身を捩らせると彼女の手を払い除けソファーの背側に倒れこむ。彼女が驚いたようにこちらを見る姿が背もたれの向こうに消える。
「いや、別に大した価値は無いんだけどね!これは無いよね!!」訳の分からない高揚感に包まれて俺は叫んでいた。
ソファーを乗り越えようとした彼女の動きが一瞬止まった。俺はそこから見えた階段に向かって逃げ出す。我ながらすごい速度だった。それにしてもこれ程情けない大立ち回りは無いな。間違いなく記憶封印候補NO.1且つ記憶リフレインNO.1確定の黒歴史だ。
階段の上り口にはばあちゃんがどこぞで買ってきた暖簾が掛かっている。いつも邪魔だったので取り外して置くと彼女はすぐに掛け直す。結局根負けしてそのままにしていたが、それが仇になった。
通り抜けるために払い除けた俺の手に勢いよく巻き上がった暖簾が絡まってしまったのだ。そこでたたらを踏んだ俺に追って来た杉本加奈が停りきれずに頭からぶつかってしまう。衝撃で掛けを外れた暖簾の残りが落ちてくる。藍染の籠目紋が振り返った俺の目の前に広がった。
彼女の姿が暖簾の布に覆われれると、ビクンと彼女の背が揺れるのが見えた。・・・そして、この捕物は終わった。
「大丈夫ですか?」俺は今日何度目かのこの単語を発した。彼女が目を覚まさない為、先程から更に繰り返していた。気使いの一年分以上を消費している気がする。
実際、ばあちゃんに大丈夫?と言う機会はほとんど無かった。ばあちゃんは強いのだ。ただ昨日は大盤振る舞いをしてしまった。人生は変わるものだ。
しばらくして彼女が目を覚ました。
「申し訳ありません・・・」憑き物が落ちた、と言う表現があるがその見本みたいな表情だった。頭を打って冷静になったらしい。
「えと・・・」
「・・・理由は申し上げられないんですが、本当にごめんなさい。」キレても良いくらいの表現だったが、落ち込んだ彼女の表情を見ると追求する気を無くしてしまった。やっぱり美人は得だ。
「うーん、一つだけ。お葬式の契約取る事が目的だったの?」
彼女は何故か怯えたようにこちらを見る。なんだろう?そして一度顔を伏せると真剣な表情を浮かべた。もしかして噂に聞くブラック企業!?
「あ!やっぱり良いです!どうぞお帰りになって下さい。」
「・・・イエスノーで答えるだけなら・・・」彼女はさらに張り詰めた顔で言う。
「・・・あ、はい」俺は彼女の表情に気圧される様に応えてしまう。そして…
「ノーです。」
呆気にとられ碌な反応の出来なかった俺を尻目に彼女は帰って行った。
葬式どうするんだよ。