No.71 悪魔の実
二階にまで漂って来る、味噌の焦げる香ばしい匂い。
だが俺は知っている。昨日、あのしわくちゃ魔女に近所のばあさんが悪魔の実を届けに来ていたことを。
戦闘服を身にまとい、俺は緊張で身をこわばらせながら、鈍い足取りで階段を下りて食堂を目指した。
「おはよう。って時間じゃないわよ。今日中に課題のゲームを実際にプレイできるところまで仕上げなくちゃいけないんでしょ? もうそろそろ学校へ行かないと遅刻になるんじゃないの?」
しわくちゃ魔女もとい、おふくろがフライパンを片手に振り返り、食堂へ足を踏み入れた俺に挨拶代りの一発をかましてきた。うるせーよ。
「早過ぎても開いてないんだよ。特に今日は本来休校日だから、どうせ先生たちもギリにしか来ない」
弁解っぽい説明をしながらも自分の席へ向かうが、おふくろは俺の話なんかまともに聞いちゃいない。
「あらそう。あ、ところでコレ」
と生返事でやり過ごし、おふくろは嬉々とした表情で突然フライパンを手にしたまま俺の方へ向かって来た。
「昨日吉田さんのおばあちゃんが分けてくださったのよ。な~んだッ」
ってフライパンごと突き付けて来るんじゃねえよアブネーだろ!
と心の中で呪詛を唱えながらも、おふくろはすぐに泣くから致し方なくフライパンの中を覗いてやる。いやまあ中身は判ってるんだけど。
「……不味そ」
一言コメント、アンド、シット・ダウン。
「……待て。おい、おふくろ、この食卓は一体どういうことだ……?」
改めて食卓に並んだ朝食の品々を一つ一つつぶさに確認した直後、俺は尖った声でしわ魔女へ呻きに近いクレームを述べた。
白米、これはまあいい。味噌汁、なんだ、このぷかぷか浮いている、どこか腐敗臭を感じさせる濁った白い物体は。
そして自己主張激しい浅漬けらしきもの。これもあの悪魔の実で一夜漬けにしたものらしい。
つうか、これ絶対嫌がらせだろう! サラダじゃねえよコレ! 皮剥きした悪魔の実を皿に載っけてるだけじゃねえか!
「翔ちゃんも今年で成人だし、いつまでも好き嫌いなんて子供っぽいこと言ってるのも恥ずかしいかなぁ~、なんて。オール翔ちゃんの苦手食材で揃えてみました~。ヤダ、母心ステキっ」
ステキっ、じゃねえよ! 朝のクソ忙しい時間に何嫌がらせかましてんだババア!
「俺やっぱ、朝飯要らね」
言うが早いか席を立つ。泣かせるかな、と少し不安だったけど、意外にもおふくろは泣かなかった。寧ろ勝算ありと言いたげな勝ち誇った笑み、怖い。
「お残ししたら学校に行かせないからね。っていうか、お父さんが三年目の学費入れないから、って」
「色仕掛けで親父を改めて落とすなエロ中年!!」
「ヒドイ……中年……心は永遠の二十代なのに……」
「突っ込むとこソッチかよ……」
あ~……泣き出した……疲れるからヤなんだよメンドクセーんだよウチのおふくろは!
親父もまたなんでこんな永遠の幼女みたいな乳臭いオヴァさんを嫁にしたんだか。
「あ~、もう、泣くなって。食うから。ちゃんと食うから、早くそっちの味噌炒めも寄越せ」
「うんっ」
はい、嘘泣きー、今回も嘘泣きー。チクショウ。
とは思うものの、さすがにいつまでもおふくろの相手をしている暇はない。
俺は渋々座り直し、重い腕をゆるりと上げて箸を取る。
「……いただき、ます」
震える右手、かすれた声。マジで俺、コレ苦手なんだよな。名前すら呼びたくない。
まずは味噌汁から。これなら味噌の味で誤魔化されて、どうにか食えるんじゃなかろうかと。
左手が嫌々朱塗りの椀を掴む。くそ、それも想定済みか、六分目までしか入ってないからウッカリ椀から零れ落ちて食い損ね、というハッピーラッキーな展開もない。
箸でぐるぐると汁を掻き混ぜ、何げに投下された悪魔の実の個数を調べる――二個。
「ちゃんとね、一品に付き二個までにしてあげたのよ? 何事も一歩ずつ、だもんね」
と可愛いアピールで笑ってんなし! なんで始めの一歩が二個からなんだよワケわかんねえし!
ババアを無視してふよふよと浮いている白濁色の軟体動物めいた物体を箸で摘まむ――この感触が既にキメェ。
恐る恐る口許へそれを運べば、滴り落ちる汁が俺のテーブル前を無様に濡らす。
「やだ~、翔ちゃん、二歳のころと一緒。汚しちゃったねえ。前掛けする?」
マジ黙れクソばばあ! いいからてめえのダンナ起こしに行けよ! その間に全部便所に流してガッコへ行ってやる!
というのもお見通しのようで、おふくろは真隣に立って俺が食う様子を観察している。気分はまるで動物園のペンギンだ。餌やりタイムに群がる来園者千人分の強い好奇のまなざしが俺の食欲を更に減退させた。
あと一センチ……五ミリ……三ミリ……口を開けて、舌の奥に乗っけてすぐ味噌汁をインだ。そうすれば味わう前に胃へ直行。それならきっと、食える。
「じれったいなあ、もう」
「――ッッッ!?」
予測不可! 俺の右手が勝手に口の方へ急加速した。当然、握る箸先が口の中へイン。ついでに悪魔の実もイン。舌の中央に鎮座したそれが、ぶにょんと気持ち悪い感触をダイレクトに舌経由で伝えて来る。
「はい、おつゆ」
「ごふっ!」
鼻! 汁が鼻に入った! なんかよくわかんないけどグラスになみなみと注がれてるそれ寄越せ!
目で訴えた俺の要望を察したおふくろが、俺の手から椀と箸を取り上げてそのグラスを握らせる。間髪入れずにそのドリンクをイン!
「ブホォォォ!!」
悪魔の実フレーバー! ジューサーに掛けやがったか! コイツもあの悪魔の実が原料か!
「汚い」
「誰のせいだ誰の! なんで飲み物までコイツ使ってんだよ!」
がなる俺も大概アレだけど、おふくろもおふくろだと思うんだ……なんかもう怒鳴り散らす体力すら一気に消え失せた。
「ヒドイ……せっかく作ったのに、フルーティーな生状態を味わってもらおうと頑張って剥いた水な」
「その名を口にするな呪いに掛かる」
グラスを脇に置き、味噌汁で口を清めつつ、涙目で銀シャリに手を伸ばす。
「……いつもより千倍美味ェ……」
「腹立つ」
おふくろ、そいつァ自業自得だ。俺がどんだけ悪魔の実を毛嫌いしているか知っているだろうに。
そんなこんなで、フライパンで炒めていたらしき悪魔の実はどうやら鉄火な……悪魔の実味噌仕立ても泣けるほど不味かった。が、涙目のおふくろに免じてどうにか完食。そして残るは。
「……浅漬け……ガチで浅そう。ほとんど実の味しかしなさそう……」
恐る恐る箸で摘まむ。お情け程度に和えられているきゅうりの千切りが愛おしい。せめてコイツと飾りなんだか一応和え食材なんだか知らんが大葉の千切りが悪魔の匂いを打ち消してくれると信じて悪魔の実と一緒に摘まんでみる。
「焦れったいなあ。一番のオススメはそれなのに」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて俺を観察するこのしわ魔女を誰かオーバーキルで仕留めてくれ。
「……え……?」
ビックリした。あの悪魔な味が、まるでしない。それに食感も少しシャリシャリとしてて……美味い。それから、仄かに甘い。何かフルーツを食ってるみたい。控えめな塩分が実の甘みを引き立たせてくれている、っていうか。きゅうりのシャキシャキした感触と合わさって、なんだろうコレ、惣菜というかデザートというか、とにかく、食える。美味い。
「美味しいでしょう?」
おふくろは勝ち誇ったように確信を持った口調で俺に同意を求めた。渋々こくりと頷くと、おふくろが意外な内訳話をしてくれた。
「吉田さんトコのハルちゃんがね、いつも翔ちゃんが食べてくれないって私が愚痴るものだから、これを今朝届けてくれたの。オリジナルレシピなんですって。翔ちゃんの喜ぶ顔を想像しながら作ったそうよ。作っている間、ハルちゃん自身が楽しかった、って。うふふ」
ハルちゃんが……中学高校と男子生徒のアイドルだった、あのハルちゃんが……俺のために、とか……。
中学のころ「ゲーオタ」「キモい」と女子から冷笑されて以来、俺と幼馴染であることが申し訳なく感じてしまい、ハルちゃんとはしゃべらなくなった。ていうか、しゃべれなくなった。ときおりウチへ届け物をしに来ても、挨拶くらいしかしなくなっているから、もうハルちゃんの中から俺の存在なんてすっかり消えているとばかり思っていたのに。
なんか、すっげぇ顔が熱いんですけど。だから、余計に悪魔の実の浅漬けがほどよい冷たさでオイシイんスけど……泣ける。
「さすが幼馴染ちゃんねえ。私より翔ちゃんのこと、よく知ってるわ。っていうか、幼馴染ちゃんだから、というだけかしら。ねえ?」
うるせーなあ、恋愛至上主義ババア! 一人で感慨味わわせろ!
半べそで浅漬け食ってる俺を見たおふくろは、小さなころと同じように、くしゃりと頭を撫でて言った。
「帰りでもいいから、吉田さんちへお礼を届けに行ってくれる? ハルちゃんにちゃんと感想を伝えて来るのよ? これのレシピが、専門学校の課題として提出できるほどの物かどうか不安だから教えて欲しい、って言ってたわ」
料理に欠かせない最重要な調味料は、食べてくれる人に美味しく食べて欲しいという真心ね。
おふくろのその弁に、俺は同意せざるを得なかった。そしてちょっとだけ、ごめん、とも思った。
「……おふくろのも、美味いから」
すべてを呑み込むのではなく味わって、先入観を取っ払って完食したあと、すげえクソ恥ずかしかったけれど、そう言ったらおふくろの奴、とうとう泣きやがった。
うん、まあ、いろいろに、感謝。
食えるありがたみとか作ってくれる人の真心にも、とか。
それから、それに気付かせてくれる機会になった、悪魔の実にも、ちょっとだけ感謝。
「んじゃ、行って来る。帰りはちょっと遅くなるかも」
食事を終えて合掌。御馳走様の挨拶のあとに、そう付け加えた。
「はい、御粗末様でした。課題終わるのが大変そうなの?」
「いや、ハルちゃんの都合がもし合うようなら、俺の作ったゲームの試作品をプレイしてもらってみようと思って」
今まで素っ気なくしてゴメンと謝る度胸は今更ないから、そんな形でまた昔みたいに話せたらいいな、とか、思った。
おふくろにボソっとそんな本音を漏らすと、まるで自分のことみたいに嬉しそうな顔をして「きっと喜ぶよ。楽しんでらっしゃい」と送り出してくれた。