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店がいざ、オープンしてからは何ら変わらない日常だった。
楓はずっと座っていた席でどんどん賑わいだす店内を
眺めながら、いつものドリンクをチビチビと飲んでいる。
いつもと違う事があるとすれば
それは、見つめる相手に思う事が増えた事だろうか?
ただ、綺麗だと思っていたんだ。
楓は幼い頃から絵を描くのが好きだったから、
綺麗だと思える物には自然と惹かれてしまうんだと思う。
水彩画の滲みながら形になって行く奇跡が楓の全て...
絵でどうこうしたい何て思ってはいないけれど
絵を描く事で、多くの事を学ぶ事も出来ただろう。
楓でさえ気づいていないほど研ぎ澄まされた、何か。
(この人は水彩画に似ている。)
幼い子供の顔だった。
挫けそうな顔は滲む絵具とよく似ているのだ
水の量を変えてやるだけで、それは不思議な美しさを表す。
人生をキャンパスに例え、いつかは
重ねた絵具が真っ黒に汚れてしまうと
言う人が少なくないが...楓も、何となくだが
その表現は理解出来る。
なのに、この人のキャンパスは
きっと重ねても重ねても、その度に水が足されて
儚くて美しい色を浮き上がらせているのかもしれない。
その水が涙で作られた物だったとしても...
どんな物を与えられても、きっと笑うだろう
貼り付けられた笑顔だったとしても...
花のように愛らしく逞しい笑顔が多くを包んでゆく。
そうして出来たキャンパスは、さぞ、美しいに違いない。
見つめる先で、悪戯顔で笑うオーナーが中年男性を
ターゲットにからかっていた所で、中年男性はどうやら一人で
この店を訪れていたんだろうが、オーナーの言葉1つ1つで
輪が出来上がり気づけば2,3人のグループになってしまっている。
「 私ね、この店に居る時が、一番自分らしく居られるの
ここに来る人にも、そうあってほしいって...思うのよねぇ」
自分が何より、安らぎを求めるからこそ
必死で空間を造る事が出来るのか、と...静かに思った。
そして、ふと、職場での自分を思い出し
(なんだ、同じなのか...)
と思わず微笑みが漏れた。
この人は特別だと思っていたのに
私は何も見えて無かった訳で、しかしそれは
楓が、職場に与えてるイメージと何ら変わらない。
見透かされず、見透かそうとさせないほどの立ち位置を
ただキープし続けていたんだ。
(なのに...なぁんで崩しちゃうかな?)
楓はなおも微笑んでいて、ぼんやりとオーナーを眺めていた。
オーナーが楓に気づいて、一瞬驚いた顔を見せたが
同じくらい、柔らかい笑顔を向けられた。
グチャグチャになってしまわないキャンパスがここにある。
私なんかでは、表せないくらい
多くの想いが詰まった、たった一つの存在が...ここにある。
「 本当に、情けないわ...私、今でも母が何の病気だったのか全然知らなくってさ! 」
過去形だった。
どれだけの物を背負えば、この儚い美しさが滲み出るのだろう
そしていつまで、背負い続けて行くのだろう?
楓の斜め前には、小さな花瓶が置かれていた。
ガラスをノックし続ける雨に答えるように窓を向いている花は
ポピーだった。
「いたわり、思いやり、陽気で優しい。
赤は、慰めや感謝
黄は、富や成功
そして...白はね...眠り。」
小さな花瓶には、白のポピーだけ無かった。
花束の中には確かにあった色は、無く
キョロキョロと見回して、入り口近くに置かれた
花瓶に、その姿を発見し、唾を飲んだ。
入ってきた時には気づかないだろう位置に置かれたそれは
帰って行く客足に無言で「お休みなさい」を告げているようで
楓は胸が詰まりそうになるほど締め付けられた。
優しさなのか、オーナーにしか答えは分からない。
なのに、隠れながら密かに店を見守る
白いポピーが...
この上なく愛おしくなり...思わず、目尻が熱くなる。
頭を軽く振り、誤魔化すよう
御手洗へと席を立つ。
その姿を、閃光の如く鋭い瞳が逃すはずは無かった。
鏡に映る自分が、あんまりにも情けない顔をしていたので
ため息と笑顔が同時に漏れた。
蛇口をひねれば勢いよく水が飛び出し
乾燥肌の楓の両手を冷やして潤わせる。
ただ、水に触れるだけで心が不思議と落ち着いた。
本当に花になってしまったんだろうか?
また笑えてきた。
鏡を見れば、さっきよりマシな顔がいた。
ホッとした。
なのに胸がまだ締め付けられたままだった。
静かに
そう
静かに
思った。
今まで、どうにか目を背けようとしていた
だから私には、お呪いが必要だった。
嘘をつけない物に嘘を作る、お呪いが...
(どうかしている)
でも、もう無理なんだと
確信した。
静かに
狭い空間には店内の笑い声が微かに聞こえる。
目を閉じて
静かに
言葉に
『私は...あなたが好きだ。』
口から出た音は
流れる水の透き通った音色に負ける小ささで
なのに、不思議と
胸の痛みが消えていた。
『好きなんだ。』
鏡に映る自分が、忙しく表情を変える。
蛇口をひねって水が止まり
手を拭いて乾かして
出口に手を掛ける前に鏡を見る。
清々しい表情の自分らしき人が送り出してくれた。
御手洗から出てきた楓は、澄まして席へと戻る。
その楓を盗み見るオーナーの姿をすぐ見つけ
楓は静かに、高って温かくなる胸の緩やかさに任せて
微笑んだ。
いつもなら、すぐ帰ってくる笑顔は無く
そっぽを向かれてしまったけれど...
そんな事でさえ楓は嬉しく思えた。
どんなに細くても
どんなに短くても
どんなに脆くても
そう、どんなに
どんな物で出来ていたって
確かにある。
ここにはある。
繋がりが、ここにある。
それで、十分。
もう大丈夫。
ふわりと香った、その正体に目を向ければ
赤と黄色のポピーが窓を見たまま少し揺れた気がした。
(感謝、富...かぁ)
そうだなぁ
ありがとう