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鏡の中のチュウ

作者: りき

「よし、今日も大丈夫」

 いつものように、洗面台の前で私は一人つぶやく。

 鏡に映る自分を見て、笑ってる、笑えている、と確認をする。そのままの顔で出かける為に必要な、毎日の日課。大切なおまじない。

「今日も頑張ろう、チュウ」

 そう、自分を奮い立たせて、一日が始まる。

 

 教室の後ろのドアから、私は出来るだけ目立たない様に自分の席へと向かう。

「あ、チュウ来た。おはよう、チュウ」

「ああ、チュウ、今日遅かったじゃん」

「チュウ、おはー」

 朝、学校に着くとすぐに、色んな人が声を掛けてくる。男子も女子も、クラスの殆どに迎えられての登校。

 私は、その全てに笑顔で返す。うつむき気味で控えめにではあるが、みんなに顔を見せる必要はない。私がいつも笑顔である事は、誰もが分かっている事なのだ。

 見方によっては、私はクラスの人気者に映るかもしれない。誰もが私を気にかけていて、みんなが私を待っている様に見えるから。私だって、そうでありたいと思う。そうであったなら、と考えるだけでも、胸がちくりと痛む。それ程、現実はかけ離れている。

「先生が誰かにプリント取りに来させろって言ってたから、チュウよろしく」

「チュウ、おはよう。英語の教科書貸して、忘れちゃった」

「授業始まるまでに、学食でウーロン茶買って来てー」

 私は、その全てに笑って答える。

 絶対に嫌と言わない、いつでもなんでも、笑顔で引き受ける便利屋。

 みんなが私に良くしてくれる理由。人気者なんかではない現実。

 チュウというあだ名は、夏井ユウコという私の名前にはなんの所縁もない。高校一年生にしては低すぎる背と、やせ細って小柄な体格、そして何より、ちょこちょこと動き回ってみんなの雑用をこなす姿が、ネズミを連想させるのだと言う。しかも、そのあだ名をみんながこぞって使うのには、理由がある。本名の私よりもチュウの方が、物を頼むとき、さして罪悪感を持たないから、らしい。この前わざわざある女子が教えてくれた。

 

 昨今、新聞やテレビ等で取沙汰されているように、高校生の間でもいじめは日常的に行われている。実際、自分のクラスの女子にも、クラス中から常に無視を続けられ、最近とうとう不登校になった生徒がいる。いじめを苦にした結果だという事は明白であるにも関わらず、学校側は彼女の長期欠席の理由は体調不良である、といじめの隠蔽を促すような行為を自ら堂々とやってのけている。その上、当の加害者達は反省するどころか、今度はそのターゲットを他の男子生徒に変え、今も同じ事を繰り返している。

 その男子生徒も、それまでは他の生徒同様、私に雑用を頼んで来ていた一人だった。しかし、ある日を境に突然誰からも相手にされなくなり、一切のコミュニケーションを断たれたのだ。急な周りの変化に戸惑い、苦しむ彼の様子を見て、いじめる側はまた喜ぶ。また、いつ自分に降り掛かるかわからない他の生徒達は、すすんでいじめる側に立ち、己の防衛を計る。

 こんな事を言えば、どんなに教室内はすさんだ雰囲気なのか、と思われるかもしれない。しかし、普段の彼らは決して不良や品行の悪い生徒達ではない。勉強もスポーツもそれなりにこなし、成績も悪くない。彼らにとって、クラスメイトをいじめる事は、遊びの一環のようなもの、ちょっとしたおふざけでしかないのだ。昔のように、校内暴力や授業妨害をする生徒など皆無だ。表向きだけで言えば、その頃よりも学習環境はすこぶる改善されていると言えるかもしれない。それなのに、なぜいじめ問題は一向になくならないのか。それは、いじめを起こす犯人が、ごく普通の明るく真面目な生徒達が見せる一面でしかなくなったから、と言う事だ。

 いじめるか、いじめられるか、この差で天地も学校生活が変わる。誰もがされる側になるくらいなら、する側の方がいいとみんなが思う。

 でも、私には違う道が用意されていたのだ。


 たくさん友達を作りたい、という目標を持って始まった高校生活。たまたま同じクラスになった、同じ中学出身の女子生徒は、以前から私に何かと用事を押し付けてくる子だった。そして、それが全てのきっかけになった。私が何を頼まれても断れない性格だと知っていての事だったのだが、彼女の言った一言は、次第にクラス中に広まってしまった。

「夏井さんに頼めば、なんでもやってくれるよ?」

 はじめは冗談半分で、肩揉んでくれ、だとか、窓開けて、とかだったのが、どんどんエスカレートしていき、見るからに貧弱なイメージの容姿も手伝ってか、望まなくとも、私はクラスの使い走りとなってしまったのだ。その次の週に、チュウというあだ名も付いた、と覚えている。

 でも、私はそれをあえて受け入れた。受け入れる以外は出来なかった。クラスの中でその立場を捨ててまで、うまくやっていける自信がなかったのだ。みんなの雑用をやって上げれば、代わりに、私はいじめの対象からは完全に除外される。便利な存在である限り、仲間はずれにするメリットはないはずだ。私にとって、その保険は、惨めな役割を受け入れるにも余りある魅力に見えたのだ。

 嫌な事も、面倒な事ももちろんある。それでも、私は一日中笑顔でいる。誰に、どんな頼まれ事をされても、笑って受け答える。それは、自分はやらされているのではない、やってあげてるのだ、と思い込ませる方法。自分を保っていられるおまじないなのだ。

 私は常に鏡を持っている。手のひらほどの大きさで、見開きにするタイプ。鏡は、そのおまじないをかける為に、必要なアイテムなのだ。

 今、頼まれた時嫌な顔をしなかったか? いつものチュウの笑顔はできているか? 

 とてつもなく心配になる時がある。そんな時は、誰もいないトイレや人影のない階段の隅に逃げ込み、鏡をひらく。そしていつも、小さく声に出して言い聞かせる。

「大丈夫。あんな事くらい平気。私は笑ってる。笑ってるから大丈夫」

 泣き出しそうになる気持ちを、引きつりながらも笑うことで、すこしずつ落ち着かせることができるのだ。

 そうしているうち、私にとって鏡は一つの精神安定剤のような役割を果たす物になった。傷つく事があったり、悲しい事があると、鏡を見て自分に話かける。大丈夫、大丈夫、と言いながら無理にでも笑顔を作れば、すこしずつその痛みが消えていく様な気がするからだ。まやかしであったとしても、安心できる何かが欲しかったのかも知れない。

 

 ある日、私は一時間目を終え、頼まれていたパンを買いに学食まで行こうと、席を立ったとこだった。

「ねえ、チュウ。ちょっとお願いがあるんだけどお」

 私は、急いでいる事などおくびにも出さず、いつものように笑顔を作ってから振り返る。

「あ、うん。なあに?」

 クラスの中でも、常にいじめの中心となっている、外面だけはいいが性格の悪い女子、桐野マリだった。校舎の一番端にある学食まで行くには、結構な距離がある。今すぐだとか、面倒な用件はできればやめて欲しいと思った。

「隣のクラスの友達がさ、次の授業、体育なのにジャージわすれちゃったんだって。悪いけど貸してあげてくれない? たぶんチュウと同じサイズでぴったりだと思うの。チュウ、今日ジャージ持ってるよね?」

 私たちのクラスはその次の三時間目が体育だ。もちろん持っている。大した用件じゃなくてよかった、と少し安堵して頷いた。

「うん、あるよ」

「本当? ありがとう。下だけでいいって。いま貸して?」

 私は机の横に下げていたトートバッグから、ジャージのズボンだけを取り出す。

「これ、でいい?」

 桐野にそれを渡した時、教室の後ろで三人程の彼女の仲間達がこちらを見ているのに気がついた。

「あっりがとー」

 後ですぐ返してね、と言う間もなく行ってしまった。そんな事、私が言えるわけないのだけれど。

 隣のクラスの友達とやらにそれを渡しに行くのかと思ったら、そのままこちらを見ていた三人の所に混ざり、コソコソ笑ったりしている。嫌な予感はした。しかし、その時の私は、貸した物の事をいつまでも気にしている暇はなかった。

 そうだ。パン買って来ないと。

 十分の休み時間も、もう大分過ぎてしまった。急いで私は教室を飛び出した。

 

 二時間目も終わり、次は体育の時間だ。私はジャージを貸していた事を思い出した。

 ふと見ると、桐野は仲間と連れ立って、楽しそうに話しながら着替えを手に更衣室に向かおうとしていた。私は焦ってその後を追いかける。

「あ、あの、桐野さん。私のジャージは……」

 いきなり脅かさないで、と言わんばかりに眉を寄せて振り向いた。

「ああ、多分返しにくるから、待ってたら? アタシに聞かれてもわかんないー」

 桐野はそのまま、さっさと立ち去ってしまった。

 わかんないって、そんな。体育はもうすぐに始まるのに。貸した相手は誰かも教えてもらっていないから、自分で探す事もできない。

 とりあえず、手元にあるジャージの上着と、中に着る体操着を持ったまま、教室の前で暫く待っていた。続々と着替えを終えた隣のクラスの女子生徒達が戻ってくる。しかし、誰一人として私を探す素振りも、こちらの教室に目を向ける事もない。じわじわと焦りが平静さを奪っていく。

 もう時間がない。もしかしたら、体育館の脇にある、更衣室で私が来るのを待っていてくれてるのかも知れない。

 はやる気持ちで、私は更衣室へ走った。

 しかし、その期待も裏切られた。私を待っているどころか、更衣室にはもう、私以外残っていなかったのだ。そして時間切れ。始業のベルが鳴る。私は諦めるしかなかった。

 真夏の太陽の下でさえ、ジャージのズボンを履かずに体育をやる女子はいない。誰だって足を出すのは恥ずかしいからだ。以前は規則で、体育の授業中ジャージを履くことを禁止していた事もあったようだが、今の時代、そんな規則はかえってセクハラだパワハラだと生徒や保護者の反感をかうだけ。今の高校生には、それが当然の光景なのだ。それなのに、私はたった一人、ショートパンツ姿で体育に向かう他なかった。

 遅れて体育館に入って来た私を見て、みんなが笑う。

「チュウ、どうしたの? やる気満々じゃーん」

「よく足だせるねー。恥ずかしくないの?」

 好きで出している訳じゃない。恥ずかしくない訳ない。

 自分でも顔が赤くなっていくのが分かる。それを意識すればする程、耳まで熱くなってくる。それでも、私は笑ってみせる。チュウはいつでもどんな時でも笑っていなければいけないのだ。

 桐野もみんなと一緒になって、一際大きな声で笑っているのが見えた。女子だけではない。ネットで仕切られた、体育館の反対側にいる男子にも見られて指をさされている。

 もう消えてなくなりたい、とそう思った。そのとき、離れた場所で話す声が体育館に響いた。

「なんで? 俺、女の子は足出してくれた方が嬉しいけど? その方が健康的でかわいくね?」

 クラスの小野君だった。

 お前やらしいな、と他の男子からはやし立てられ、どっとその場が沸き立つ。一斉にみんなの視線も注目も私から小野君に移っていく。

 堅く縮めた体が徐々にほぐれ、やっとまともに息が出来るようになる。でも、立っている事も、座る事もままならない。私は、そのまま、早く体育が終わってくれる事だけを、ただただ待つしかなかった。

 

 教室に戻ると、どこからともなく返されて来ていた私のジャージが、ポンと置いてあった。

 それを見て、私はついに堪らなくなり、トイレに駆け込んだ。今誰かに話しかけられても、とても笑顔ではいられない。いつものチュウにはなれない。

 無人のトイレに入るなり、個室のドアを閉め、ポケットの中の鏡を出す。

「大丈夫、笑って。笑えるはず。気にする事ない、大した事ないって!」

 一生懸命、自分を暗示に掛けようとした。それでも、我慢するのが精一杯な程、悲しいいたずらだった。

 ジャージを借りに来たときの桐野の様子を見ていれば、なんとなくこうなることは、予想できていたことだった。この程度のいたずらも初めてではない。彼女達に限らず、軽い悪ふざけの様な事はたびたびされてきていた。その都度、自分を見て笑う周囲と一緒になって笑うことで、自分を堪えることも出来ていた。チビだの、パシリだのとバカにされるのはもう慣れた。だが、身体的に辱めを受けるのは、とても耐えられなかった。

 思い出すと、押さえていた感情が、お腹から喉に上ってくる。胸に手を当てて大きく息をしても、なかなか落ち着くことが出来ない。

 そこに、他の生徒がトイレに入ってくる音がした。

「超ウケたんだけどー」

「チュウ、真っ赤なんだもん、おもしろすぎー」

 もちろん顔は見えないが、声を聞けば誰だかわかる。桐野達だ。

「あははは、誰にも見られないようにジャージ返しに行くの、ちょっと焦ったけどね」

「久々に走ったんだけどー」

「ぎゃはははは」

 絶対にここに私がいることがばれてはいけないと、息を潜めて気配を消した。

 ひとしきり盛り上がってから彼女達は、ついぞ当の本人がここで聞いている事など気づかずに、そこから出て行った。

 やはり、彼女らの仕業だった。

 今知った事ではないが、あんな風に笑われているところを、聞きたくはなかった。堪えていた気持ちが、一気に噴出す。

 久しぶりに泣いた。一度泣いたら、なかなか笑顔には戻れない。作り笑顔とはいえ、気持ちがまったくついて来てない時には、どうしても笑えなくなるのを知っているから、どこまでも我慢していたはずなのに。情けなさと、虚しさと、憤りが、混ざって、分離して、どろどろになって、心にへばりついて剥がれない。どうしようもない気持ちになる。

 鏡を顔に向けたまま、声を出さない様に、嗚咽した。


 どのくらい泣いていたのだろう。授業の始まるベルを少し前に聞いた時だった。持っていたハンカチがもう乾いている所のない程涙を吸った時、どこからか声が聞こえる。

「いつまで泣いてんのよ! あなたらしくもない」

 私はびくっとした。

 誰がいつの間に? 

 すごく近くで声が聞こえたようだった。すぐに上を見上げた。誰かが、仕切りの上から覗いているのでは、と思ったからだ。それくらい近くで声が聞こえた。しかし、そこに姿はない。

「何よ、誰が話してるか分からないの? ばかねー」

 今度は確実に声がした。ゆっくり音のしない様に個室のドアの鍵を開け、そっと辺りを見渡す。既に授業中なのだ、誰もいるはずはない。

 訝しがりながらも体を引っ込め、またドアを閉めた。

 一体どこから? 

 その疑問は、すぐ答えが返ってきた。

「あなたの手! 手に持ってるもの、見てみて!」

 手に持ってるもの? 

 左手にいつもの鏡を持っている。いわれるがままに、ゆっくり顔に近づけ、そのまま首を傾げる。そこに写るのは、もちろん私の顔だった。

 泣きじゃくった顔はきっとぐちゃぐちゃだろう。そんな顔を見たくない、と意識した時だった。

 あれ? 

 一瞬分からなかった。その鏡に映っているのは、間違いなく私の顔。

 私が笑っていた。

 普段なら何もおかしくない事だが、今、私は泣いていた。どこからか聞こえた声に驚いて荒い息は収まってきてはいるが、まだ涙は乾いてさえいない。

 でも、鏡の中の私は、にっこりと笑っていたのだ。

「やっと、わかった?」

「ひいっ!」

 要領を掴めずに覗き込んでいた私は、飛び上がって退いた。

 今、しゃべった? 私がしゃべったの? 

「そんなに驚かないでよ。私は、あなたよ?」

 急いで自分の顔をつねった。

 痛い。頬は指でつまんだ時の痛みを私の脳に伝えた。しかし。

 手に持つ鏡に映る自分の顔は、そのままにこやかにこちらを見ているだけ。

「そんな……。どうして……?」

「ま、ここじゃ狭いから。ドア開けてそこから出てみて」

 私は、何が起きているのかを知りたい一心で、素直に言うことを聞く。

 三つある洗面台には、それぞれ鏡が備わっている。その一つに、ドアの隙間から顔をだして、外を覗き込んだ自分の顔が映っている。

 やっぱり誰もいない。

 フラフラと歩み出て、吸い込まれるように正面の鏡に向かいあう。

「私、ずっとあなたを見てた。あなた、今まで頑張ってたよね、偉いわ」

 やはり私が喋っている。いや、喋りかけてきている。

 まったく自らの意志とは、無関係に動いている自分の姿は、まるで録画された映像を見ているような感覚だった。

「でも、今日は見てられなかった。声を掛けずにはいられなくなっちゃったの。驚かせちゃったみたいだけどね」

 自分が自分に話しかける。自分が自分に答える。

「あなた、一体誰なの?」

 随分的の外れた質問だと自分でも思う。しかし、それ以外になんと聞いて良いかもわからない。

 その自分は、一瞬きょとんとしてから答えた。

「私? 私は、あなたよ。見ての通り、鏡の中のあなた」

「どういう……こと? 私なのに、私じゃない」

「うーん、私は鏡の中にしかいないわ。あなたの写る鏡の中だけだし。でも、あなた本人ではない。もう一人のあなた。でも別人」

 余計チンプンカンプンだ。わからない、と首を小さく横に振りながらも、目を離す事が出来ない。なおも、その自分は続ける。

「あなた、いつも鏡に向かう時は無理してたわよね、全部見てたわ。大丈夫、大丈夫って念仏みたいに繰り返し言って。今にも泣き出しそうな顔を、強引に作り笑いに変えようとするから、いびつな表情になってた。それでも、人前では笑わなきゃって、必死に」

 誰にも見せたことのないはずの私の秘密を、鏡の中の自分は、あっさり言いのける。

「でも、そんな我慢ばっかりする事ない。ね、これからは、私に何でも話しなさいよ。なんでも聞いてあげるから」

 その声は、間違いなく私のそれと同じものだった。しかし、話し方はとても優しく、やけにほっとさせてくれる。そして何より、私が今一番望んでいることを、分かっていた。私は、誰かに話したかったのだ。誰かに、この辛い気持ちを聞いて、慰めて欲しかった。

「悩み……聞いてくれるの? あなた……が?」

 もう一人の私は、笑んでいたその表情のまま、暖かく言った。

「言ってみなさいよ。辛かったんでしょ?」

 私は、また喉の奥の方からわき上がってくる涙と共に、我慢していたものを全部吐き出した。


 それからというもの、鏡の中の私は自在に現れる様になった。鏡があればどこであろうと、出てこれるらしい。学校のトイレの様な他の人の目にも触れる所では、雰囲気を読んであえて鳴りを潜めていることもできる。

 はじめは、どうしても鏡に映る自分が私と違う動きをしたり、自由に話しかけてくることに、その都度どきっとしていた。しかし、慣れてくると、やはり自分であるから故、何を話しても気が合う。言って欲しいことを言ってくれるし、聞きたくないことは、決して言わない。その気楽さのせいもあって、次第に、誰よりも身近な話し相手が出来たのかもしれないと思い始めた。

 そして、それは私にとっては大きな変化にもなっていった。今まで、どんな事があっても、一人でぐっと我慢する事しかしてこなかった。鏡を見る行為は、ただのおまじないでしかなかった。それが、あの日を境に、愚痴を聞いてくれる相手が、慰めてくれる相手ができたのだ。私の気持ちを、どこまでも理解してくれ、どうしたら乗り越えられるかのアドバイスまでくれる。腹の立つ事を言われたら、トイレに駆け込み鏡を開け、怒りをぶちまける事も出来るようになった。面倒な用事をさせられている時も、鏡相手にあいつはやな奴だ、と一緒に笑い飛ばせる。今までは無理に作っていた笑顔も、話を聞いてもらって、励ましてもらった後には、自然に笑える様になっているのだ。

 いつのまにか、無二の親友のように、なんでも話せる大切な存在になっていった。


 心の負担が減ったことに間違いはなかった。それでも、チュウとしての毎日が変わるわけではない。それまでと変わらず使い走りをこなしていく私に、もう一人の私は言う。

「本当は、こんな事続けたくないって思ってるのにね。それでも断れない。変化を求めるより、現状維持のほうが安全だと思ってしまうのよね」

 的確に私の心底を読んでいた。私自身なのだから当たり前なのだが、改めて言われるとズキリと胸にきた。何一つ言い返すことができず、私は力なく微笑みで返す。

 満足しているのではない。諦めているのだ。誰にも相手にされないでいるより、蔑ろにされていようが、みんなから声をかけられるほうがまだいい、と。

 そんな考えを全部見透かした上で、鏡の中から優しくささやかれる。

「ちゃんと、思ったことを言えるときがくるといいね」

 うん、と小さく返事する。

 でも、今の私には、簡単そうですごく大変なことだろうと思った。いままで、誰に対しても、自分の気持ちを隠して、我慢して人接してきた。そんな私には、思ったことをそのまま表に出すのは、とても勇気のいること。しちゃいけないと思っていたこと。

 ガラスを隔てた世界から、物憂げにしている私の様子を見ていたもう一人の私は、こんな事を言った。

「ね、ちょっとくらい、憂さ晴らししたくない?」

 私は突拍子もない話に、少し面食らう。

「憂さ晴らし? ……なにそれ、どうやって?」

 何を考えているのか、さっぱり分からなかった。それでも、鏡に映る私の顔は、困惑している私の表情を映していはいない、したり顔だった。

「ああいう人のことばっかりいじめてる子に限って、自分の悪口を誰かに言われたりするのは、すごく気にするもんでしょ?」

「う、うん。まあ、それはそうだろうけど……」

「だから、わざとあいつに聞こえるように、文句言ってやるのよ。しかも大人数で」

 そんなの願ってもないことだ。言いたい文句は山ほどあるし、人の心を傷つけて楽しんでいるような奴には、少し痛い思いをさせてやりたい。でも、私には友達なんて呼べる仲間はいない。この鏡以外。

「言うのは簡単だけど、出来るわけないじゃない……」

 気持ちは嬉しいが、変に目を付けられるような事はしたくないというのもある。

「任せといて! ちゃんと作戦があるんだから!」

 そう言って、もう一人の私は不安そうな顔に向かってウィンクをして見せた。


 次の日、私は言われた通り、桐野の行くところ行くところ、ばれない様について回った。一人でトイレに入ったら、すぐに後を追って鏡を開くように言われている。

 憂さ晴らしって、これじゃただのストーカじゃない。

 どうするのかと聞いても、明日のお楽しみだと教えてもらえなかった。

 あちらの世界にいる私には、私自身が考えていることは分かってしまうようだが、逆は全くだ。何を言い出すのか、と驚かされる事が多々ある。今回のことも、その一つだった。

 なかなか言われた状況にならないまま、一日の殆どが過ぎ、このまま作戦は実行できずに終わりそうだと、半分ほっとしていたその日最後の休み時間。この後が今日最後の授業というところで、とうとう桐野は一人で教室から出て行った。私は急いでその後を追いかけるように席を立つ。誰にも用事を言いつけられないかとドキドキしながら、廊下にでて桐野の姿を探すと、まさに女子トイレに入っていくところだ。ちょうど、そこから出てきた他のクラスの女子とすれ違う。

 私は、そのドアへと早足で進みながら、左手でポケットの鏡をまさぐる。そしてゆっくり、目的のドアを開けてみた。

 そこには人影はなかった。その代わり、三つある個室の一つが埋まっている。桐野は、そこにいるはずだ。

 急いで鏡を出す。その時を待ちわびていた様子のもう一人の私は、この鏡を持って洗面台の前に立て、とジェスチャーで示している。

 私は、どういうことなのかわからず、眉を寄せて首を傾げて聞き返したが、そんなことより急げ、と言われ、そのとおりにする。

 そうしている間も、個室の中にいる桐野がいつ出てくるかもしれないと思うと、気が気ではない。私は、心臓の音が聞こえやしないかと心配するくらい、緊張しながら、自分の上半身と、その手に持つ鏡が写つるように、洗面台の前に立つ。

 何が起こるのかと、正面の鏡を見ていた。すると、合わせ鏡になったその中に、それこそ無数に続く私の姿が見えた。

 そうか、合わせ鏡なら、何人でも私の友達は作れるのか。

 やっと意味がわかった、と思ったときだった。その中の誰かが言い始める。

「もう、みんなむかつくって言ってるよね、桐野マリのこと」

 思わず私は声を上げそうになった。すぐ後ろにいるのに、なんてことを言うのだ、と。

 しかし、そんな事は知っているとばかりに、次々と桐野の悪口が、その空間中に響いていた。

「あんなに、性格悪くてよく友達は我慢してるよね、信じられない」

「私だったら無理―。一緒にいたくないもん」

「私も無理―、っていうか友達でいたくない、とか言ってー。あははは」

 桐野がいつ出てくるか、とビクビクしていたがその心配は要らなかった。さすがの彼女もここまでボロクソに悪口を言われている前に、堂々と出てくることは出来ないらしい。しかも、今はいつも一緒の取り巻きもいない。出たくても出れないといったところだろう。

 その内容も、日頃私が、心の中で愚痴っていたこと、そのままだった。黙って聞いていただけの私も、つい噴出しそうになる。面ときって言うことなど、一生できないだろう。でも、ささやかな抵抗が出来ただけでも、すっとする。

 それだけじゃない。この状況は、私がこの前桐野たちにされたのと、殆ど同じ。私が味わった辛さを、そのまま仕返しをしてやれたのだ。ざまあみろ、の気分だ。

 それにしても、そんなに堪ってたのか、と自分でも驚くほど、桐野への悪口は尽きる事無く喋り続ける。

 少しずつほどけていく、私の心に気づいたように、何人も映し出された中の一人と目が合う。そして、ウィンクしてみてみせる。

 私は、聞いているだろうと思いながら、わざと心の中で言う。

 ありがとう。あなたがいて、良かった。


 ある昼休み。飲み物の買い出しや、食堂の席取り等をいくつかやり遂げ、時間も半分過ぎたあたりでやっと自分のお昼ご飯にたどり着く。

「ふう、お腹すいた……」

 周りに誰もいない部屋で、独りで呟いた。ここは図書準備室。図書委員である私は自由に出入りできるが、普通の生徒達は入る事もできない場所だ。図書委員は全学年で他にも数名いるが、誰も昼休みにこんな所には来ない。わたしにとっては唯一、誰にも邪魔されず、自分の為に使う休み時間を過ごせる場所。図書委員である事を利用してはいるが、大体それも好きでなった訳ではない。もちろんこれも押し付けられたのを断れずに引き受けただけだ。他にも保健委員、体育委員と掛け持ちもしている。このくらいの利点があっても許されるのではないか、と誰にも言えないが思っている。

 とはいえ、決してくつろげる場所ではない。左右の壁にどっしり構える大きな書棚には、この学校の歴代の卒業アルバムや、古い記録書など、鍵のかかったガラス戸の中にしまわれている。その棚に挟まれる様に、茶色い会議用の長テーブルが一つと、その周りに四脚のパイプ椅子が無規則に置かれていた。椅子に座れば、その後ろには人が通れる幅もない程のその部屋は、正面に窓があるお陰でなんとか狭苦しさを凌いでいる感じだ。

 私はその一番奥の椅子に座り、手に持っていたお弁当箱を机に置く。校庭一面を二階から見下ろせる場所だ。お弁当のふたを開け、ウィンナーを一つお箸に指してから、首を伸ばしてぼんやりある人を探していた。

「あれ、いない?」

 誰もいないと分かっていながら、つい一人ごちる。

 その人は昼休みになると、いつご飯を食べたのか、という早さで校庭に飛び出して来て、数人の友人達をサッカーを始める。それを眺めながらお弁当を食べるのが、私の昼休みの定番となっていた。しかし、今日はよく見る友人達はいるものの、その彼だけが見当たらない。

 ウィンナーを口に放り投げ、窓を開けてそこから乗り出す。腰を浮かせて見てみたが、隠れて見えない訳でもなさそうだ。

 いない。どこにもいない。

 天気の悪い日や、テスト期間中は、こんな事も続くが、今日はお天気もいいと言うのにどうしたのだろう。残念でもある。

 仕方がないか、と椅子に座り直し、残りのお昼ご飯を食べ始めた。話し相手が欲しいな、と鏡をポケットから取り出そうとしていた時、開けたままの窓から、校庭の話し声が風に乗ってこの部屋にも聞こえて来た。

「……で、昨日から熱っぽいんだって、小野のやつ」

「来週大会なのに、大丈夫なのか……」

 お箸を動かす私の手が止まる。

 熱? 熱があるのに、学校に来ていて大丈夫なのだろうか? 

 私なんかが気にしなくても、他にももっと身近に彼の事を心配してくれる人はたくさんいるのだろうとはわかっている。なにせ、彼はたいそうな人気者なのだ。

 サッカーが好きで上手、綺麗に日焼けした肌と、たれ目気味の明るい笑顔に、とにかく優しい言動。誰からも好かれるタイプでありながら、本人は意識をしていないという、まるで王子様。そんな王子様が体調が悪いだなんて話が広まれば、薬箱片手に飛んでいく女子が何人もいるだろう。

 そうは思っても、穏やかではいられない。何も出来る事などないとわかっていながら、そわそわしてしまう。

「小野君でしょ」

 すっかり鏡を開けていた事を忘れて、思考にふけってしまった。

「ああ、ごめんね、ちょっと違う事考えてて……え?」

「好きなんでしょ? 小野君のこと」 

 突然の話に、私は見るからに動揺して見返す。鏡の中の私は、からかう風ではなく、いたって真面目に聞いて来た。

「そんな。ばかね、好きな訳ないじゃ……、って、あなたに嘘ついても仕方ないよね……」 

 いつからだろう。この前の体育の時、助けてもらってからだろうか。

 いつかあの時のお礼を言いたい、と彼が一人になるのを待って目で追っていた時。次第に、お礼を言う事などどうでも良くなっていった。ただ、彼の姿を追うのが楽しみになっていったのだ。

「心配だね、小野君」

 まるで、私の心の中が見えるかの様に、いや実際見えているのかもしれないが、まんま気持ちを言い当てられる。

「うん……」

 小野君には、あのとき以外にも、何度も助けてもらった。友達に返すはずのCDを家に忘れたから取ってこい、とクラスの男子に言われたときも、テスト勉強をしたくないから先生の机から解答を盗んでこいと言われたときも、彼は吹き出しながら、

「そんなの、無理に決まってるだろう? 本気にすんなよ、夏井」

 と笑い話にして私を逃がしてくれた。

 それは、私だけに向けられた優しさなんかではない。みんなにそうだ。分け隔てなく、誰にでも同じ心配りが出来る人。きっとその時も、小野君にしてみてば思った事を言っただけ、くらいの事だったろう。それでも、私には何より望んだ助け舟だった。どれほど感謝したか、分からない程。何かの形でお返しをしたいのに、私は何一つ彼にしてあげられた事がない。これだけ毎日人の世話ばかりしているのに、決して頼み事などしてこない彼にだけは、たったの一つも。

 午後の授業が始まってからも、早退をせず我慢しているような彼の姿を、ただ離れて見ている以外何もできなかった。そのまま結局、何も良いアイディアを見つけられずに放課後を迎えてしまい、私はうなだれるしかなかった。

 

 小野君は、結局今日は部活も休む事になり、友達の勧めで保健室から薬だけもらって先に帰る、と教室を出て行った。

 せめて後を追いかけて、無事に帰れるかどうかだけでも見送りたかったが、帰りがけに掃除当番を代われと頼まれ、仕方なく一人ダラダラとほうきをかけていた。

 ため息を小さく吐いたところで、耳に静かに迫ってくる音を聞く。

 雨。さっきまで降ってなかったのに。

 ちょうど今降り出したのだろう。教室の窓から見える外のコンクリートは、次第に濃いグレーに色を変えて行く。


 そろそろ掃除も十分だろうと、自分の机の中に常備してあった置き傘を持って、教室を後にした。

 下駄箱について改めて外を見ると、雨はついさっきよりも強くなっていた。 

 小野君、濡れずに帰れていたらいいけれど。

 私に出来るのは、そう願う事だけだ、気持ちを抑えようとしていた。そのとき、ふともう一人下誰かが駄箱にいる事に気づいた。

「雨かあ。ついてねーな」

 小野君!? なんでまだここに? 

 後ろ姿だが、間違いなかった。まだ辛いのか肩で息をしている。普段は身軽そうな彼が、下駄箱に手をかけてだるそうに寄りかかっている。

 私は急いで、且つ気がつかれない様に、下駄箱から見えない所に移動した。おもむろに鏡を取り出し、ごく小さな声で唯一の友人に助言を求める。

「どうしよう、小野君がいるんだけど! 何か声かけた方が良いかな、なんか辛そうなの!」

 お、という顔で私は私を見返した。そして、一瞬間を置いて落ち着いた話し振りで言う。

「彼は一人なの?」

「うん、そうみたい。雨が降ってて困っているみたいなんだけど……」

「あなた、傘はあるんでしょ?」

 私は何度も素早く縦に首を振る。

「だったらもう決まってるじゃない! 傘一緒に入って行かない? って言ってあげなさいよ!」

「ええ! そんな事、恥ずかしいよ……」

 怒鳴りだしそうな顔の私は、ただおろおろしている私に言う。

「ばか! 彼に何か恩返ししたいんでしょ? 今が絶好のチャンスじゃないの。あなたにもわかってるはずよ! ほら、早く! 雨に打たれて帰っちゃったら、どうするの!」

 実際には、話しているだけだが、まるで本当に背中を手で押された様に、私の体は気がつかないうちに小野君のいる方に進んで足を運んでいた。

 そうだ、これ以上のチャンスなんかない。今までいっぱい助けてもらったお礼を、一つでもしたかった。今なら、今ならそれができる! 私にだって、人並みに、思った事を人にぶつける事くらいできる!

「がんばれ!」

 小さく、私にしか聞こえない程の大きさで、鏡の中からの応援も聞こえる。わたしは、意を決して立ち呆ける彼に歩み寄って行った。

「あ、あの、小野く……」

「真人ー。もう! 大丈夫? 保健室で待っててって言ったのにー」

「大丈夫だって。大したことないから。マリは大げさなんだよ」

「嘘ばっかり。三八度も熱あったくせに……。そうそう、それでね、さっきの続きなんだけど」

 駆け寄ってきたのは、桐野マリだった。私は、慌てて彼らの死角に入るように、身を引いた。

 いつもとは全然違う、甘ったれた声の桐野は、私に気づく事なく話し続けていた。

「ひどいの。私の悪口ずっと言っててね。マリ泣きそうになっちゃった」

「……影でこそこそって言うのは、よくないけどな。でも、夏井が本当にそんな事言ってたのか? 顔を見たわけじゃないんだろ?」

 私は、はっとした。今、夏井って言った? 

「私もそんなはずないって言ったんだけど、みんながチュウだって言うんだもん。マリもびっくりしちゃったー。そんな事言う子に見えないのにね」

 なにそれ。絶対私だってわかるはずないのに。声だって、わざと低くしたり高くしたりして、分からなくしていたはず。大体にして、私に、一緒に悪口を言ってくれる友達なんていないことは知ってるくせに。

 わざと、だ。

 桐野は、誰かわからない相手に悪口を言われたことを、逆に被害者ぶって小野君に話したいだけなんだ。かわいそうって言ってもらいたいがために。しかも、私だったらばれる事もないだろうと思ったにちがいない。かばう振りして、自分のことをいい子ぶらせて、証拠もないのに、私の名前を利用しただけだ。

 なんて、どこまで嫌なやつなんだろう……。

 全ての力が抜け、その場に崩れそうになっていた私は、そのとき、桐野の肩越しに見えた背の高い小野君と目が合ってしまった。

 私は、目をそらすことも、背を向けることも出来ず、ただ呆然と見つめ返した。

 桐野はそのことに気づかなかった。

 そのまま二人は歩きだしたが、その時私には、小野君が「すまん」と言ったように見えた。 でも、その顔は、雨のせいで、よく観ることが出来なかった。この目に流れる雨のせいで。

 誰もいなくなった下駄箱の前で、取り残されたままの私は、暫く動くこともできなかった。

「……ねえ?」

 手に持ったままの、開きっぱなしにしていた鏡から、声が聞こえる。

「何も言わなくても、私にはわかるよ。あんな女と付き合うなんて、バカな男ね……。あなたががっかりする事なんかない。きっとあの男が後悔するんだから……ね、そうでしょ?」

 人気のなくなった校舎に打ち付ける雨の音がうるさくて、よく聞こえなかったけれど、私の思いを優しく代弁してくれるその声は、その場が真っ暗になるまで、ずっとささやいていた。

 

 私は、学校に行っても笑わなくなった。それだけでなく、誰とも話をしなくなった。用事を頼まれても、一切返事もせず引き受けなくなった便利屋のチュウは、大いに文句を言われた。もちろん、チュウではなくなった、ただの夏井ユウコはすぐにいじめの対象になり、覚悟はしていたので数日は我慢出来ていたが、教室の机が校庭に出されていた日を境に、私は不登校になった。

 

 別に小野君が、大嫌いな桐野と付き合っていた事がショックで、学校が嫌になったという事ではない。もちろん、きっかけの一つである事は間違いないが、それは違う事に気づかされるきっかけにもなった。唯一、学校生活の中に見出した小さな陽だまり。それが、ついぞ消えて、やっと気が付いたのだ。

 本当に欲しいものは、ここにあったのだ、と。

 今、私は家から全く出ない引きこもりになった。それでも、何も悲観的になってはいない。 かえって、余計な物を全て捨てて、本当に必要な物だけを手に入れた充実感さえある。

 私は、一人じゃない。

 

「夏井さーん。お届け物です、ハンコお願いします」

「はーい。あ、すいません、ここまで運んでもらえますか?」

 やっと届いた。私が欲しかったもの。

 私は、今届いたばかりの、自分の背ほどもあるそれに向かって立ち、ひと呼吸おく。そして、チュウのものではない、心からわき出す笑みを浮かべながら言う。

「これで、私には友達が一杯、そうでしょ? あはは。もう一人じゃないわ! 寂しくなんかない、ねえ、みんな?」

 扉を開いた三面鏡は、私の大切な友達を、無数に無限に作り出してくれる、魔法の鏡だった。

 

 



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[一言] また読みなおしてみました。名前を変えていただき感謝いたします。かなりの批判調お許しください。同様の辛い過去をお持ちとのコメント・・・胸が締めつけられる想いがします。このような小説に目を通す経…
[一言] まったくの同姓同名の人が職場にいます。たしかにねずみのように動きまわってます。でもその人は私にとって好きになれる女性です。その女性と同じ名前を使うのは止めてください。こんな題材はよくない、社…
[一言] 夏井さん、自殺しなかっただけでも未だマシでしたね。てっきり、後半で自殺しちゃうのかと思ったが・・・。 それにしても桐野の奴、ムカつくな。正直、一瞬ですが桐野に殺意が芽生えましたわ。 俺が夏井…
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