恋する少女は結末に何を見るか
前アカウントからの移行作品です。
『今日は眠いからもう寝る。おやすみ。』
相変わらずの短いメールには何の感情も見出だせない。ただ事実が伝えられているだけだ。果たしてこれは誰からのメールか、というクイズを出したら誰もが十中八九友達と答えるだろう。もしかしたらそこまで仲が良い訳ではない、という補則も付くかもしれない。そう考えると友達というより知り合いの方がしっくりくる。少なくともこのメールが付き合ってそろそろ三年にもなる彼氏のものだとは誰も思わないだろう。
小さくため息をついて高梨優花はベッドに身を投げ出す。
「もうちょっと何か書いてくれたって良いのに…」
累計十七文字。句読点を抜いてしまえば十五文字だ。どんなにじっと見つめても文字数はこれ以上増えることはない。下の方に何か書いてあるのでは無いかという淡い希望は、本文のすぐ下の文章の終わりを示すENDの文字に虚しく消える。
駄目だ。また悪い方向に考えちゃってる。
優花は自分の頭の中のごちゃ混ぜになっている考えを振り払うように携帯を閉じた。
「しょうがない、んだよね…」
何となく呟いた言葉は少し反響を残して虚空の中に消えた。
――――――――――――
目覚まし時計のアラームで目が覚める。
「んっ…」
寝不足でまだだるさが残っている体を無理矢理起こすと、優花は目覚まし時計を止めた。時間を確認すると六時半。今日は月曜日で学校があるがまだ余裕がある時間だ。
とりあえず制服に着替えようと思った優花は自分の服を見て気付く。
「あ、お風呂…」
どうやら昨日はあのまま寝てしまったらしく、風呂に入るのを忘れていた。着替えるのも忘れていたので、服には汗がしみこんで優花の体にはりついていている。
「まだ間に合うよね」
優花は手早く着替えを用意すると風呂へと向かう。汗を流すにはやっぱりシャワーを浴びるのが一番だ。 シャワーを浴びながら優花は昨日のことを思い出す。昨日振りほどいたはずの黒い感情はまだ心の奥底でとぐろを巻いている。
「私達って付き合ってるんだよね…」
優花が付き合っている…はずなのは竹原悠斗。同じ学校に通っている同級生だ。ただし違うクラスなのであまり学校では会えないが。
優花がそんな事を考えてしまうのはやはり最近のメールの少なさが大きい。付き合った最初の方は一日二百件ぐらいはやっていたのが今ではたまに一日メールしないこともある。しかもそのメールも元からではあるがそっけないので優花は淋しさがたまるばかりなのだ。
「あーあ…」
優花はため息をつく。最近ため息をついてばっかりだ。ため息をつくと幸せが逃げるというからもう相当な幸せが逃げてしまったのではないだろうか。そう考えると憂鬱になって、優花はまたため息をついてしまう。無限ループだ。いっそのことこの悩みが全部流れてくれたらいいのに。優花は体の石鹸を流しながら思う。でも、そんな事が出来ない事も優花は分かっている。だから、とてつもなくもどかしい。
石鹸の匂いのする体と朝の憂鬱な心を連れて優花は浴室を出る。時計を見るとそろそろ学校へ行く時間だった。優花は制服に着替えると簡単に朝食を済ませて家を出る。電車に乗って空いていた席に座ると用意しておいた本を読み始めた。優花が好きな作家――恋愛小説を主に書いている――が最近出した本で、文庫になるのが待ちきれずに買ってしまったのだ。
優花はゆっくりと本を読み進める。これは恋人同士が色々な事を経て成長していくというベタな話なのだが、そこまでの場面展開や主人公達の心情描写が細かい上に綺麗で、思わず感情移入してしまうのだ。この作家の他の本も同じような感じで、優花は他の本で一度号泣してしまい親に心配されたこともある。
今読んでいるのはちょうど女性視点のところで、いきなり減った恋人からのメールに恋人を信用していながらも疑心暗鬼になってしまう矛盾した心が描かれていた。
(まるで…)
私みたい。そう思ってしまうのは傲慢だろうか。自分をただ小説の主人公に例えて今も心にある黒い気持ちを納得させたいだけだろうか。
「この先…どうなるんだろう」
小声で呟く。この作家はハッピーエンドもバッドエンドも書く作家だ。恋人達の未来は読み進めなければわからない。でも…
(バッドエンドじゃなければいいな…)
そう思いながら少し早くページをめくる。早く、少しでも早くこの先が読みたい。
――しかし、それを遮るように目的の駅に着いたというアナウンスが流れた。
――――――――――――
「学年の進路として……私たちとしては……」
体がだるい。まるで重い岩でも持っているみたいだ。さっきから瞼もだんだん重くなっている。昨日寝たのが遅かったのがたたったらしい。
(どうにかして切り抜けないと…)
今は学年集会ということで、高校三年生の生徒が全員体育館に集められてに進路についての話を聞いている。なんとか大学がどうたらこうたらとずっと言っているが全く耳に入ってこない。眠らないようにするだけで精一杯だ。
(…悠斗、いるかな)
今日はまだ見かけることさえもできていない彼の姿を探す。こういう学年で集まっている時は違うクラスでも会うことの出来るチャンスなのだ。…本当は教室に行けばいいのだが、それは悠斗がばれるからと言って嫌がるのでやめている。
そうして探していると、彼の後ろ姿を見る事ができた。どうやら真面目に聞いているようで椅子に座っているのに背筋がピンと張っている。こんなにつまらない話をどうしてあんなに熱心に聞いているのだろうか。そんなに真面目な人では無かったと思うのだが…。少し不思議に思う。後でメールで聞いてみても良いかもしれない。
そう思った瞬間、胸のあたりに少し痛みが走る。彼とのメール、それは私にとって今は禁句だった。朝の黒い感情がぶり返しそうになるのを慌てて抑えつける
(何か違うこと考えないと…)
このままではもう戻ってこれない、何故かはわからないがそんな感じがした優花は慌てて他のことを考え始めた。
――竹原悠斗、彼との出会いは本当にただの偶然だった。
高校一年生の初めの頃、受験をした優花は中学の頃の友達とも離れてしまい色々なことに無気力になっていた。授業を聞いても何も面白くない。友達を作ることは出来たが、深い関係になるのも面倒臭い。唯一の楽しみは中学の友達とのメールだけ。しかしその楽しみも頻度は少なかった。
そんなつまらない学校生活を送っていた時、化学の授業で実験の授業があった。化学は普段は教室で行う授業なのだが実験の時だけは理科室に行き、班を作って授業を行う。席は自由だったが、必ず四人班で男女二人ずつという制限――ちゃんと実験が行われるようにという理由らしい――がついていた。この時偶然にも班が一緒になったのが彼だった。
優花はその時、正直彼のことをクラスメイトとさえも認識していなかった。「へー、こんな人いたんだ」くらいの認識だったのだ。言い訳になるかもしれないが彼は別に目立つような点がある訳でもないごく普通の男子だったのだからしょうがない…と思う。
そうして班が決まった後、実験が始まった。実験は中学の頃にやった炎色反応の復習で、正直レクリエーションのような物だった。そんな実験に今更面白みを感じるはずもない優花は、すぐにやる気を無くしぼーっとしていた。
しかし、ぼーっとするのも疲れる物で、授業が終わるまでの時間がやけに長く感じられる。誰かと喋ろうにも、一緒の班になった由佳里――その時一番仲の良かった友達――は色の変わる炎を真剣に見ていたから喋りようが無かったし、名前は忘れたが、片方の男子はどこか達観した目をしながら実験結果をただ淡々と記録していて近寄りがたかった。
つまり、その時残る話し相手は彼しかいなかった。
彼はその時ずっとつまらなそうな顔をしていた。まるで優花のように。だからと言ってはおかしいかもしれないけれど、何となく話しかけやすい雰囲気だった。共通点がありそうな相手には初対面でも話しかけられるから楽なのだ。
「えーっと…竹原悠斗君?」
名前を覚えていなかったのでプリントに書いてあった名前を見て確認する。
「え、そうだけど…」
彼はいきなり話し掛けられた事に驚いたのかこちらを見たまま少し固まった。まるで昨日テレビで見た小動物みたいだ。何となく可愛いと思ってしまう。
「驚かせてごめんね。ちょっと話し相手がいなかったから話し掛けてみたの」
彼はそれを聞いて由佳里の方を少し見た後、納得したような顔になる。どうやら空気は読めるようだ。…って何で評価なんてしてるんだろう。
「で、何?」
彼はつまらなそうに優花の方を見る。どうやら話してはくれるようだ。さて、何を話そう…と考えて優花ははっと気付く。よく考えたら何も話すことを考えていなかった。これはまずい。優花は慌てて話題を探す。
「昨日のテレビ見た?」
「いや。俺あんまりテレビ見ないから」
「じゃあ…好きな人いる?」
「初対面の奴にそれ聞くのか?」
「そうだよね、ごめん。えーっと…じゃあ…」
(駄目だ、思い付かない。何か無いかな…)
優花は自分で言うのもなんだが話題を作るのが苦手だ。だからいつも人の話している中に入っていってどうにかしていた。…自分から話し掛けたのにいざとなると私って駄目だ。
彼の方を盗み見ると少し笑っていた。どうやら必死になって考えている私が面白いようだ。人のことを笑うなんて…少し苛ついて彼を睨む。すると彼は驚いた顔をしてこう言った。
「別にお前の事を笑ってる訳じゃないからな?」
さすがに分かりやすく睨んでしまったらしい。彼は心外だというように手を小さく広げてポーズをとった。
「じゃあなんで笑ったのよ?後、私の名前は高梨優花。お前じゃないからね」
優花は少し語気を強くして言う。初対面のはずなのに何故かやけに苛つく。元々相性が悪いのかもしれない。
すると彼はまた固まったかと思えば、いきなり机に突っ伏した。そのまま肩を震わせている。……どうやら爆笑しているらしい。
「何?今の何処が面白かったっていうのよ?」
優花は彼の行動の意味が分からずに戸惑う。何か面白いことを言っただろうか…?
すると彼は肩を震わせたまま顔を上げた。笑い過ぎたようで顔が赤い。涙まで吹いている。これで顔が笑っていなかったらまるで泣いているように見えるだろう。紛らわしいものだ。
「ねぇ、本当に何で笑ってるのよ?」
いまだに笑いが止まっていない彼に優花はもう一度聞く。早く説明してほしい。
そうしてようやく彼が口を開いて言った事は…
「いや、だってねー。高梨さんがあまりに単純だったから」
…説明どころかただの悪口だった。優花は思わず彼を小突く。
「いたっ…高梨さん結構力強いんだねー、だから叩かないでほしいな」
「自分のせいのくせに何言ってるのよ!いきなり悪口言われたら私だって叩くよ!」
「いやいや、貶してないって。褒めたんだよ?」
「単純のどこが褒めてるのよ…」
優花は呆れてしまう。言い訳にしてももう少しましなものにして欲しい。
「――俺、なんか人間関係とか面倒臭くてさ。何て言うの、オブラートに包むとか疲れるんだ」
唐突に彼が言う。予想外の事に優花が固まると、彼はそのままこう言った。
「だからそういう奴とも仲良く出来なくてさ。友達なんだけどそれ以上は仲良く出来なさそうな奴ばっかりで…俺が我慢すれば良いんだろうけどそれも面倒なんだ。まあ自業自得だよな」
彼は小さく笑う。自分を嘲るように。優花は何も言えない。いつの間にか口の中がカラカラだ。水が、欲しい。
「だから俺の嫌な態度にちゃんと怒る単純な高梨さんが新鮮でさ、久しぶりに話してて楽しかったんだ。な、単純は誉め言葉だろ?」
彼はまた笑う。今度は本当に面白そうに。でも、それはまるで弱った猫の鳴き声のように虚しく思える笑顔だった。
「どうせ言い訳のための嘘なんでしょ?」優花はそう言いたかった。そうすればきっと彼は笑顔のまま、「ばれた?」と言ってこの話を嘘にする。根拠は無いけど何となく分かるのだ。 でも優花には彼にかける言葉が見つからない。黙っていることしかできない。
…いつの間にか進んでいた時間をチャイムの鳴る音で報される。先生がプリントの提出期限を言って授業の終わりを告げると、一気に理科室が騒がしくなり、全員帰る準備を始めた。彼も帰ろうとしている。
「あのさっ!」
優花は彼に呼び掛けた。彼に言いたいことは沢山ある。…でも、口に出せない。何故だろう、まるでストッパーがかかってるみたいだ。
――また話さない?というのがこんなに大変だなんて。
優花がそのまま黙ってうつむいてしまうと、彼は近づいてきて小声で優花にこう言った。
「また今度な」
優花ははっと顔を上げたが、もう彼の後ろ姿しか見えなかった。でも、何故か嬉しかった。
「何喋ってたの?」
いつの間にか隣にいた由佳里に聞かれる。由佳里に説明しようかと思ったが、面倒なので適当に誤魔化す事にした。どう言おうか考えていると、いきなり由佳里がそれを制した。
「いいや、一回聞いたから。そんなことよりそろそろ起きた方がいいからね」
起きる?どういうこと?
「ほら、起きなよ。ねっ起きて?起きて?起き………
「優花起きてよー…あ、起きた。もう、寝すぎだよ?説明会終わっちゃったんだから…って聞いてる?」
由佳里が呆れた顔で言っている。どうやら優花は寝ていたらしい。口に垂れていた涎を慌てて拭きながら優花はとりあえず頷いておく。
「そんな気の無い頷き…もう、しょうがないな。とりあえず早く出ないと、寝てたことばれちゃうよ?もしかしたらもうばれてるかもしれないけど…」
見ると優花のクラスはもう移動が始まっていて、まだ動いていないのは優花達二人と数人しかいなかった。優花は慌てて帰る準備をする。
「ありがとね、由佳里」
「ん、別に?まあ今度何かお菓子くれたらそれで良いよ。それより私係だからまだ片付けしないといけないし。ま、また後で」
そう言うと由佳里は先生の所へ走って行った。多分係担当の先生だろう。優花はそれを見送るとそのまま教室へ向かった。
教室で担任を待ちながら、優花はさっきの夢の続きを思い出す。
あれが優花と悠斗の出会いだった。あの後メールをしたりして仲良くなり、三ヶ月くらい 経った時に優花から告白した。何となく自信というか、彼とならやっていけると思ったのだ。その結果が今だ。
――彼はまだ私の事を好きでいるだろうか
どうしてもこの事を考えてしまう。考えても意味がない事は分かっているのに。…涙が出そうなのを優花は堪える。
担任が入って来た。やる気のない号令がかかり、適当にそれに合わせて礼をする。いくつかの連絡事項が伝えられ、それを適当に聞きながら優花は窓の外をぼーっと眺めていた。
(よし、もうそろそろ終わるな)
優花は帰る準備をそそくさと始める。今日は予定も無いし早く帰って休みたい。今日は嫌なことばかり考えてしまったし。
「じゃあこれで連絡は終わりだ。係から連絡は無いか?」
教室は静かなままだ。まあ高三は委員会も無いし、ほとんど連絡する事も無いだろう。
「よし、号令」
それを聞くと、日直が待ち構えていたかのように号令をする。やけに早いのは予定でもあるのだろうか。…まあいいや。後はやる気のない号令に合わせていれば帰れる。そう思って優花が立ち上がった…のに
「そうだ、高梨は後で進路指導室に来るように」
…え、高梨って…私?
――――――――――――
(何の話だろ…)
優花は進路指導室の前で考える。最近別に悪いことをした覚えは無かったし、単位が足りていない訳でもないはずだ。成績は登り坂ではないが下り坂な訳でもない。優花の志望校にはまだ少し足りていないが、前にやった三者面談でこれなら大丈夫と言われたばかりだし、これでは無いだろう。
…駄目だ、やっぱり何度思案しても心当たりが見つからない。もう考えても仕方ないだろう。優花は思い切って進路指導室の扉をノックすると、中に入った。
中には当たり前だが担任がいた。担任はどうやらさっきまで何か見ていたようで、一つだけ置いてある机の上には書類が散らばっていた。担任はそれを手で集めながら私に座らせるように促した。
優花は促されるまま椅子に座る。もう古い椅子のようで座ると軋む音がした。
「あー、高梨。いきなり呼び出して悪かったな」
「いえ…別に」
「で、何の話かというとだな…」
担任は髭を弄りながら何か思案している。この担任は何か面倒な話をする前に髭を弄るくせがある。だから優花は密かに髭とこの担任を呼んでいたりするのだが…そんなことはいい。とりあえず面倒な話のようだ。優花は少し身構える。
しかし、担任の口から出た言葉は拍子抜けなものだった。
「お前、最近授業ちゃんと聞いてるか?」
「…えっ?それはどういう…」
「そのままの意味だよ。授業中によくぼーっとしているらしいじゃないか」
「え、ああ、まあ…」
確かに最近ぼーっとしているとクラスメイトに言われたりしているからそうなのかもしれない。
でも…
「どうして呼び出したりするんですか?」
「それもまあそうなんだが…今日進路の話の時も寝ていたりしたから、少し心配になってな」
「はあ…お気遣いありがとうございます」
「後、お前は普段成績もなかなか優秀だし、授業態度だって悪くないからここまでの変化は珍しいって校長先生もおっしゃられてな…」
担任はため息をつく。どうやら本当はやりたくなかったが仕方なくやっているようだ。それならやらなければ良いのに。逆にどうして校長先生に私の事が伝わってるんだろうか?
「で、何か悩みでもあるのか?」
「え、いや別に…最近少し寝不足で」
彼のことを担任に話しても良いことは無いだろう。優花は適当に誤魔化しておくことにする。
「だろうな…」
担任はまたため息をつくとやる気の無さそうな目で書類に目を通しながら追い出すように手を振った。
「もういい。これからは睡眠ちゃんと取れよ」
(自分から呼び出したくせに…)
優花は担任の物言いに少し苛つきながら、ありがとうございましたと適当にお礼をして進路指導室を出ようとした。
――その時だった。
「良いよな、生徒は悩みが少なくて…」
担任がぼそっと言った。
優花は思わず立ち止まる。普段ならただの皮肉で済んだはずなのに今の優花にはタイミングが悪すぎた。優花の中の黒い感情が爆発する。
「…どうせ……」
優花は担任の方に振り向きながら言う。担任は突然の優花の行動に驚いているのか、戸惑った表情を浮かべている。優花はそんな担任にも構わずに叫んだ。
「どうせ、私に悩みなんて無いですよ!」
私はただ彼氏からのメールが少なくて不安になっているだけのバカな彼女だ。でも、不安になって何が悪い?私にとって悠斗はもう大事なものなんだ。私にとっては大きな悩みなんだ!悩みが無いわけじゃないんだ!
優花は既に自分の感情が八つ当たりである事を分かっていながらも、そう思わずにはいられなかった。叫びそうになるのを堪えながら優花は進路指導室から駆け出る。そのまま教室まで走ると、鞄を持って逃げるように帰った。
――――――――――――
――やっぱり私なんて嫌いなんだろうな
何度考えても優花の行き着く先はそこだった。一度爆発してしまった感情は未だに収拾がつかず、優花がポジティブに考えようとするのに邪魔をする。
彼に携帯でメールを送って私への気持ちを聞こうと思ったが、文面が思いつかない。そもそも優花が勝手に考えているだけなのだ。ただの自意識過剰かもしれない。
そうやって布団の上で悶々としていると、携帯がいきなり振動する。すぐに止まったからメールが来たのだろう。この時間に来たということは多分広告だ。優花はため息をつきながら携帯を開ける。しかしそのメールは広告では無かった。
「悠斗っ!?」
差出人の名前を見て優花は驚く。悠斗からメールが来るのは本当に珍しいからだ。付き合ってきた中でも悠斗からのメールは数回しかない。しかもただでさえメールが少ない今に来るなんて…嫌な予感しかしない。さっきまでの悪い考えが段々と頭を埋め尽くしていく。優花はおそるおそるメールを開いた。
メールにはこう書かれていた。
〈突然メールしてごめん。優花からのメールもろくに返せてないのに図々しいかもしれないけど、許して欲しい。〉
(何がよ、私はずっとメールを待ってたっていうのに…)
〈こういう堅いのは苦手だから本題に入らせてもらう。……これから少しの間優花とメールとか電話が出来ない。学校にも行けないから会うのも無理だ〉
「えっ!?」
優花は思わず小さく叫ぶ。どうしていきなり?
〈理由を知りたいだろうと思うけど、ごめん、言えない。俺の勝手な理由だ〉
優花の頭に嫌な想像がよぎる。やっぱり彼は私のことが嫌いに…しかし、それは次の文で否定される。
〈でも勘違いしないで欲しいけど、俺は優花が好きだ。嫌いな訳がない。…俺が言える立場じゃないけど優花にも好きでいてもらいたい。…って何書いてんだろうな俺。とりあえず俺がいなくても勉強は頑張ってほしい。今はこれしか言えないんだ。本当にごめん。じゃあ、また。〉
彼のメールはそれで終わっていた。優花はただぼーっとしてしまう。これから彼とメールも電話も会うことも出来ないのだ。しかも短い間と書いてあるが、果たしていつまでかも書いていない。…本当に待てるだろうか、優花は不安になる。
もう一度読み返そうとして、優花はあることに気付く。よく見るとENDという、メールの終わりを示す文字が無いのだ。どうやらまだ下の方にメッセージがあるようだ。改行で区切って気付きにくいようにしてあるらしい。
優花はそのまま下に画面をスクロールしていく。何行もの改行の後、やっとENDと共に文字が見える。
〈追伸:やっぱり待ってて。優花がいないと駄目だ。そばにいてほしい。〉
優花はそれを見た瞬間、ベッドに頭から突っ込む。そして、
――優花は泣いた。
悲しいからじゃない、嬉しすぎて泣いたのだ。もう嫌われたと思っていた大好きな彼から求められたのだ。自分を必要としてくれているのだ。そう考えたらいつまで待てばいいか分からなくても、優花は待てる気がした。
嗚呼、私にとってもう彼は大事すぎる人なんだ。
優花はそう思ってまた泣く。そのまま三十分も泣いた後、優花は泣き疲れて寝てしまった。心の中の黒い感情はすべて涙と共に流れていった。
その後優花は勉強に集中し始めた。学校に行って、由佳里や他の友達と勉強をし合う。よく考えてみれば、いやよく考えなくても受験が近いのだ。志望校に受かるためにももう少し勉強しなくてはならない。
悠斗に会えないかとも思ったが悠斗は学校に来ていなかった。どうやら卒業に必要な単位をもうとったから来ないらしい。本当に会う方法は無い訳だ。電話もしてみたが、既に番号が変わっているらしく、繋がらなかった。
優花は少し不安になったが、逆に迷いが消えたと考えることにして乗り切った。こんなところでつまずいている訳にはいかない。だって、私は待つと決めたんだから。悠斗の最後のメールは優花にとって大きな支えになっていた。
そうして時は進み、受験が始まった。寒い空気の中、ホットココアを飲みながら優花は最後の詰めとして勉強を重ねる。きっと悠斗もどこかで勉強をしているのだろう。確か受験するはずだし…彼が一生懸命勉強している姿を想像すると自然に顔が綻ぶ。早く会いたいな…そう思いながら勉強を続けた。
――そして、合格発表の日
優花は緊張して眠れず、寝不足の体を引きずって発表を見に行った。発表場所に着くと、すでに大量の人がいた。どうやらもう合格発表がされているらしい。優花はさらに緊張しながらも、どうにか受験番号の見える位置まで行く。
私の受験番号はあるだろうか。一つずつ番号を見ていく。
……あった!
優花はそのままへなへなと崩れ落ちる。体に力が入らない。
私、受かったんだ
優花の中にその事実が段々と染み込んで行く。これで私は志望校に行けるんだ!
優花はすぐに悠斗にメールをしようとして…手が止まった。彼からのメールはまだ無い。まだ ゛少しの間゛は終わってないのだ。優花はまだ待たなくてはいけない。
「…まだ、ダメなの?」
目頭が熱くなる。涙がどんどん零れてくる。
…彼に会いたい。
待てると思っていた。でももう無理かもしれない。優花の中に空いた彼という隙間はあまりに大きすぎたのだ。
「いいじゃない…」
彼はそばにいてほしいとメールに書いていた。でも私には彼を見つけられない。だから、
「悠斗がそばにいてくれたっていいじゃない!」
優花は叫ぶ。突然泣き叫び始めた優花に周囲が驚いた目で見ているが、そんな事は構わない。
「悠斗、そばにいてよっ!」
「…それ、本当は俺が先に言いたかった」
「…えっ?」
優花は突然の声に驚く。おそるおそる声のした方を向くと…
「ごめんな、待たせて」
そう言ってはにかんでいる悠斗がいた。
…どうして悠斗がいるの?もう会って大丈夫なの?優花の中で疑問が出る。
しかし、優花はいつのまにか悠斗に抱きついてこう言っていた。
「待たせすぎだよ、バカっ!」
優花は悠斗の胸の中で泣き叫ぶ。悠斗はそんな優花の頭を撫でて宥めてくれた。そしてこう言った。
「優花に色々説明したいことがあるんだ。どこで話そうか?俺の家はキツいんだけど…」
「……じゃあ私の家」
「えっ、良いのか?」
「今はお母さんしかいないし大丈夫。私も悠斗に聞きたいこと沢山あるんだから…良いでしょ?」
「ああ…ありがとう」
悠斗はそう言うと、周りを見渡して顔をしかめた。
「とりあえず、ここから早く離れよう。周りの視線が痛いし」
言われて周りを見渡すと、確かに誰もがこっちを見ている。優花は慌てて悠斗から離れると、悠斗と手だけをつないで、早足でその場所を離れた。
――――――――――――
家に着くと母が祝うために迎えてくれたが、悠斗を見ると、「お祝いはまた後にしよっか」と言ってそのまま離れてくれた。
「…お前のお母さんって察しが良いんだな」
悠斗が驚く。優花は、まあねと少し誇らしげに返すと、そのまま自分の部屋に悠斗を案内した。
――悠斗からその後色んな話を聞いた。
どうやら悠斗は元々受験する予定じゃなかったらしい。どうやら悠斗の父親と高校の校長先生が仲が良く、ほとんど勉強せずにそこそこの私立大学に行けるはずだったらしい。もちろん不正な入学だがとりあえず学歴が貰えるのだ。誰だって飛び付くだろう。
でも、悠斗は私と会ってしまった。
「優花が必死になって勉強してるの見てたら、こんなことで満足してる自分が馬鹿らしくなってさ。何か勉強したいなーって思ったんだよ。おかしいだろ?」
悠斗は笑いながら言う。
「まあ勉強がしたい!なんて言う人なかなかいないよねー。私だってできれば受験したくなかったし」
「だよな…。それでさ、優花。連絡出来なかった理由なんだけど、それと関係しててさ」
「えっ、どういうこと?」
優花は訳が分からなくなる。受験する事と連絡できないことに何の関係があるんだろうか。
「それは、まあこれを見せた方が早いかな」
そう言うと悠斗は鞄の中を探りはじめる。何が出てくるんだろうか…優花は少し期待しながら待つ。そして悠斗が取り出した物は
「えっ、私の受験票?でも番号違うし…」
それは優花の志望校の受験票だった。どうして悠斗がそれを持っているんだろうか…ん、もしかして…
「悠斗もあそこ受けたの!?」
「そういう事。いやー難しかった。全然勉強してなかった事を恨んだよ」
「え、それで…?」
「受かったよ。自分でもまだ信じられないけど。だから…」
悠斗はいきなり真面目な顔をしてこう言うと優花に言った。
「これで優花ともっと長くいられる」
優花の目頭がまた熱くなる。どうしてこの人はこんなに…
「バカっ!もっと他にも方法があったでしょ?」
「ごめん。バカだからこれ以外に方法が思いつかなくて」
悠斗は少しおどけて言う。
「バカバカっ!悠斗の大バカっ!それで私がどれだけ心配したと思ってるの!」「ごめん、心配かけたく無かったんだけど…」
「心配するに決まってるでしょ!」
「…本当にごめん」
「私のためにこんな事して…本当に…大好きだ、バカっ!」
そう言って優花は悠斗に思いっきり抱きつく。悠斗は驚いた顔をしながらも優花の頭を撫でてくれる。そしてこう言った。
「待っててくれて本当にありがとう。俺、お前が待っててくれるか心配で、嫌われたらどうしようかと思って…恥ずかしいけど校長先生にお前の様子とか聞いたりしたんだ」
校長先生が私のことを知っていたのもそれが理由らしい。
「俺、お前がいないと本当に駄目で、お前に嫌われるとか絶対無理なんだ。勉強してる間も何度も連絡したくなったんだ」
「じゃあどうして連絡しなかったの?」
「それが、俺が受験するって言ったら携帯解約されちゃってさ…一人で勉強しないと人に甘えるからって。だから物理的に無理だったんだ」
「そうだったんだ…」
「本当にごめん」
「いいよ、今頭撫でてくれてるから許してあげる」
「そんな事でいいのか?」「もちろん、これからもずっと一緒に居てくれるならっていう条件付きでね」
「それ、俺に嬉しい条件だな」
「私の方がもっと嬉しいからいいの!」
――いつのまにか私達は今まで会っていなかった事なんて嘘かのように喋っていた。多分周りから見たら殴りたくなるくらい幸せそうだっただろう。
そして時間は過ぎて、いつの間にかもう夕方になっていた。悠斗はもう帰らなくてはいけない時間だ。幸せな時間は本当に早く過ぎることを思い知る。
悠斗のことを駅まで見送る。改札の前で悠斗はまた申し訳なさそうな顔になった。
「多分またしばらく連絡が取れなくなる。ごめんな」
「ごめんって言い過ぎ。ごめん禁止ね」
「え、ああ」
「私は待つから。半年くらい待たされたんだよ?しばらくなんて全然大丈夫なんだから」
「…わかった、じゃあまたな」
そう言って彼は改札に向かって行った。優花はそのまま見送ろうとして、うつむいてしまう。また待たなくてはならない。そう思うとやはり不安になってしまう。
(待つって約束したのに…)
自分が情けない。こんな事でくよくよしていたら悠斗に今度こそ嫌われてしまう。…そう思っても優花は辛かった。
「優花」
呼ばれた気がした。彼はもうホームに行ったしまったはずなのに。優花は思わず顔を上げる。
すると、何故か目の前にはまだ彼がいて、
―――気付いたら唇が重なっていた。
悠斗はそっと唇を離すとこう言った。
「優花が不安にならないように預けておく。だから、ちょっとだけ待ってて」
「……ずるい」
「えっ?」
「これじゃダメっていえないじゃん」
「…じゃあ返す?」
悠斗が少し悲しそうな顔になる。もう…これだから…。
優花は深呼吸をして心の準備をすると思い切って自分から悠斗に口付けをする。そして同じようにそっと離すと、こう言った。
「これで私も悠斗に預けたから。…すぐ連絡してね?」
「……確かにずるいなこれ。断れないし断る必要の無い頼みだし」
悠斗はそう言って笑う。優花もつられて笑うと、こう言った。
「じゃあ、またすぐ会おうね」
「ああ、すぐ行く」
そう言うと悠斗は今度こそ改札を抜けて行った。そして人混みの中に消えていく。それを見送ると優花も帰路に着いた。
家に着くと、両親が既にお祝いの準備を整えていた。優花は着替えるために少し待ってと言って、自分の部屋に入る。着替えながら、優花は何となくこれからの事を想像する。
私達はこれからどうなるだろうか。このまま平和にこの関係を続けることが出来るのだろうか。それとも…考えたくはないが関係が終わってしまうのだろうか。
ふと、優花はある本を思い出す。主人公達に自分と悠斗を照らし合わせたあの本だ。色々あって結局読めずじまいでいたが…あの本の結末はどうなっているのだろう。
優花は本棚からその本を捜し出すと、ベッドに座って栞を挟んだ場所から読み始める。前までに半分以上を読んであったので、十分ほどで読めそうな量だった。これくらいなら両親もきっと待っていてくれるだろう。優花は早まる気持ちを抑えながら読み始める。
七分程経って、優花はそれを読み終えた。その本は結局ハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、読者の想像に任せた終わり方だった。優花はその終わり方に少しがっかりしながらも考える。
じゃあ私がハッピーエンドにすればいいんじゃないか。
私達の未来はきっとまだ決まっていない。だから、私達が好きなように変えればいいんだ。
両親の呼ぶ声が聞こえる。優花は急いで本を閉じると、両親の待つリビングへ向かった。
……この恋の主人公は私で、読者も私。なら私の思うままに変えていけるはずだ。
―――そう、大好きなハッピーエンドに。