プロローグ
俺――浅井恭司は、昔から人間が嫌いだ。
他人と深く関われば、必ずどこかが軋む。嫉妬、見栄、依存、裏切り。人間関係というやつは、
近づけば近づくほど濁っていく。だから俺は、そういう面倒から身を守るように創作の世界へ潜り込み、映像や文章を切り売りして生きてきた。
作り物の世界は楽だ。現実よりも整っていて、現実よりも残酷で、そして現実よりも嘘が美しい。
だが、そんな俺が唯一、「こいつだけは同じ場所に立っている」と感じた男がいる。
光だ。
あいつが再び俺の人生に踏み込んできたのは、テレビ番組の制作現場に擦り切れ、
心身ともに疲弊していた夏のことだった。
蒸気みたいな熱気が夜の新宿にこもり、歌舞伎町のネオンが濡れたアスファルトに滲んでいた。
「よう、恭ちゃん。久しぶりだな」
背後から飛んできた声は、湿った東京の夜によく響く、妙に図太い声だった。
「……え?」
俺は反射的に身構えた。歌舞伎町で気安く声をかけてくる人間に、まともな奴なんてほとんどいない。
振り返ると、そこには人懐っこい笑みを浮かべた男が立っていた。顎を少し上げ、
自分の人生に一切怯えていない顔をしている。
「恭ちゃん、俺だよ。光だよ」
光――。
名前を聞いた瞬間、記憶の底に沈んでいたガキの顔が浮かび上がる。
俺の従兄弟だ。十歳近く年下で、親戚中の厄介者として有名だった男。
光という名前とは裏腹に、あいつは昔から荒れていた。
喧嘩、窃盗、家出…。
何をやっても長続きせず、中学を出たあと、更生目的で割烹料理屋に放り込まれたものの、
それすら投げ出して姿を消した。
その後の噂は酷いものだった。
「もうクタばってる」
「ヤクザになった」
「塀の中にいるらしい」
親戚たちは好き勝手に言っていたが、誰も本気で探そうとはしなかった。
だが今、目の前に立つ光は、そんな“転落した問題児”の雰囲気を微塵も纏っていなかった。
「なんだよ、その顔。幽霊でも見た面してんぞ。
でも、ホントこんなとこで恭ちゃんに会うなんてビックリだ!」
そう言って、光は昔と変わらない調子で俺の肩を叩いた。
乱暴だったはずのエネルギーは、いつの間にか「場数を踏んだ男の余裕」に変わっている。
「……お前、今なにしてんだよ」
「今は広島。内装やってる。まあ、大成功ってやつだな」
光はニヤつきながら、パンパンに膨れたブランド物の財布を無造作に開いた。
中には、帯のついていない札束が雑に押し込まれていた。
あの問題児が、広島で内装業を営む成功者となっていた…。
けれど、俺が本当に目を奪われたのは金じゃない。あいつの顔だった。
満たされた人間の顔をしていた。
光の人生は、最初からまともじゃなかった。
幼い頃、実母が焼身自殺をした。
その記憶は、光の中でずっと黒く燻り続けていたのだろう。父親は再婚したが、
継母とも馴染めず、家の中で光だけが異物みたいに浮いていた。
真面目な父親。
堅実な兄。
そして、どこにも馴染めない光。
あいつは居場所を持てないまま、日本中を転々とした。主に肉体労働で日銭を稼いでいたという。
いくつもの工事現場を渡り歩き、居酒屋、ラーメン屋…。
そして一時期は、東京でテレビドラマの大道具をやっていたという。
表舞台ではなく、“舞台裏”を作る仕事ばかりを渡り歩いてきた男だった。
「いいか恭ちゃん。人生なんてのは、壁紙と同じなんよ」
光は昔から吸っているハイライトに火をつけながら言った。
「汚れたら剥がしゃええ。そんで、新しいの貼りゃいい」
紫煙が、ネオン混じりの夜気に溶けていく。その隣には、年上の女がいた。夜の街で知り合ったらしい、バツイチ子持ちの女。派手さはないが、不思議と体温を感じさせる女だった。
春先の日だまりみたいな笑みで、光の大袈裟な冗談を静かに受け止めている。
孤独だった光が、ようやく辿り着いた居場所。
それを見ているうちに、ひねくれ者の俺ですら少しだけ安心してしまった。
たぶん俺は、光に自分を重ねていたのだと思う。
俺たちはどちらも、“まともな世界”の外側にいる人間だった。
現実だけでは息ができず、かといって完全に虚構にも逃げ切れない。
舞台裏ばかりを歩き続けてきた人間特有の、あの薄暗い共犯意識。
だから俺は、人間嫌いのくせに、光とは妙に馬が合った。
だが――当時の俺はまだ知らなかった。
東京の蒸し暑い夜。
光が誇らしげに見せていた「張り替えたばかりの人生」が、この先に待ち受ける残酷な炎によって、
再び焼き剥がされることを。
光の吐いた煙が、夜空へゆっくり消えていく。
その煙の向こうにある“本当の顔”を、俺はまだ何ひとつ知らなかった。
(続く)




