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霧島百万両始末記  作者: 水前寺鯉太郎


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8/9

知覧の買い占め、葉っぱが一枚もねえ!

 【霧島藩チャバコ工房——朝】

 工房に、秋の朝靄あさもやが立ち込めていた。

 かまどの炎が赤々と揺れ、職人たちの手が忙しなく動き、乾燥棚に吊り下げられた葉の列が風にそよぐ——そんな朝のはずだった。

「……孝四郎さん」

 問屋廻りを終えた仕入れ番の半助が、蒼白な顔で工房の戸を叩いた。額に脂汗を浮かべ、手に持つそろばんをかちかちと震わせながら。

「どうした。葉の手配は済んだか」

 奥の作業台に腰かけ、煙管きせるの吸い口を磨いていた孝四郎が振り向く。

「それが……その……」

「言えよ」

「どこの問屋にも、タバコの葉が、一枚も……ございません」

 工房内に、しんと静寂が落ちた。

 職人の一人が持っていたかんなの手が止まる。乾燥棚の前で葉をひっくり返していた女衆が、ぽかんと口を開ける。誰も声を発せない。ただ、かまどの炎だけが、事態を知らぬげにぱちぱちと爆ぜていた。

「……どういうことだ」

 孝四郎の声は静かだった。怒鳴りもせず、叫びもせず、ただ低く、静かに。

「知覧藩の宮地様が……先手を打ちまして。相場の一割五分増しで、市場に出回っておりますタバコ葉を、残らず買い占めてしまわれたそうで……」

「一割五分増し」

 孝四郎は、磨いていた煙管の吸い口を、そっと卓の上に置いた。

「大した金を使いおった」

「し、しかも!」半助の声が裏返る。「次の収穫期まで、新しい葉が入ってくるのは三ヶ月先です! 江戸への出荷約定まで、もう六十日しかない!」

 その数字が工房の空気に染み込んだ瞬間、奥の帳場から、どすん、という音が響いた。

「打首だぁあああ!!!」

 惣兵衛だった。

 霧島藩チャバコ奉行・大里惣兵衛は、算盤を放り投げて畳の上に転がり、両手で胃の腑を押さえながら、金魚のように口をぱくぱくさせていた。

「江戸の得意先との約定が果たせなんだら、それは藩の信用に関わる! 藩の信用に関わるということは、拙者の首に関わる! 拙者の首は、拙者の身体の中で最も大切な部位であるからして……うわーん! 六十日! 六十日しかないのに葉が一枚もないとはどういうことじゃあ!!」

「惣兵衛さん、床でごろごろするな。みっともない」

 孝四郎は立ち上がり、煙管に火を入れながら、工房の庭へと歩み出た。職人たちの視線が、その背中に集まる。

 細く、白い煙が、秋の空へと立ち上っていく。

 【工房の庭——同刻】

「…………孝四郎さん」

 工房の縁側に、お鶴が立っていた。

 知覧藩から遣わされた「監視役」として工房に居候するようになって、はや一月。職人たちとも打ち解け、朝は一緒に葉の仕分けをし、昼は惣兵衛の愚痴を聞き流しながら飯を食う——そんな日々を過ごしてきたお鶴の目に、今、涙が光っていた。

「……わかっとる、お鶴ちゃん。お前のせいじゃない」

「でも……! 私の藩が……!」

 お鶴は唇を噛んだ。

 知覧藩の家老・宮地紋太夫。彼が仕掛けたこの買い占めの策は、霧島藩のチャバコ事業をじわじわと兵糧攻めで潰す、狡猾な算段だった。

「ごめんなさい、孝四郎さん。私の藩が、こんな卑怯な真似を……! あなたたちが一生懸命作ってきたものを、こんなやり方で……!」

「お鶴ちゃん」

 孝四郎は、くるりと振り返った。そこにあったのは——笑顔だった。

 怒りでも、諦めでも、絶望でもなく。からりと、晴れた秋空のような、笑顔。

「気にするな」

「え……」

「相手が金をかけて買い占めに走るってことはだ」孝四郎は煙管をすっと掲げ、細い煙の筋を目で追いながら言った。「それだけうちのチャバコにビビってるって証拠じゃねえか。まともに勝負しても勝てないから、市場ごと押さえにかかった。そういうことだろ」

「…………」

「職人冥利に尽きるじゃねえか。ありがてえ話だぜ、まったく」

 お鶴は、泣くべきか笑うべきかわからない顔で、孝四郎を見つめた。

「孝四郎さんは……怖くないんですか」

「怖いよ。葉がなければ、職人の飯の種がなくなる。そりゃ怖い。でも、怖がってる暇があるなら、次の手を考えた方が早い」

 煙管の煙が、秋風に溶けていく。

「……次の手?」

 お鶴が首を傾げた瞬間、背後から、鋭い声が飛んできた。

「綺麗事はいい!!」

 鷹之介だった。

「笑って済む話ではないぞ、孝四郎! 葉がなければ商売にならん! 六十日で江戸への出荷を揃える、その当てがあるのか!? あるのならば、今すぐ申せ!」

「あるよ」

「……は?」

「当て、あるよ」

 孝四郎は煙管をぷかりと吹かし、縁側の端から庭の隅を指さした。

 そこには、工房の裏手に積み上げられた、茶色い山があった。農家が運び込み、「肥料にでもしてくれ」と置いていった残滓ざんしの山。タバコの葉を収穫した後に残る、固いくきの束と、虫食いだらけで形も色も崩れた外葉——俗に「泥葉どろは」と呼ばれる、市場にすら出せない屑の山だった。

「……あれは」鷹之介の目が細くなる。「ゴミではないか」

「そう。ゴミだ。問屋も武士も、こいつを見向きもしない。だから宮地の旦那も、買い占めの対象に入れていない。市場にゃあ手つかずで山ほど転がってる。仕入れ値は……まあ、タダみたいなもんだ」

「タダ同然のゴミで、チャバコが作れるというのか?」

「作れる」孝四郎は、茎を鼻先に近づけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。「……嗅いでみろ、鷹之介さん」

「嗅ぐ?」

「葉の匂いと、どっちが強い」

 渋い顔をしながらも、鷹之介は茎を受け取り、鼻を近づけた。

 その瞬間、微かに——しかし確かに——土の香りの奥から、青く、鋭く、凝縮されたタバコの匂いが、鼻腔をついた。

「…………」

「茎には、葉のエキスが全部残ってる。いや、むしろ葉っぱは乾燥させる間に香りが逃げる。こいつは固い繊維に閉じ込められたまま、逃げ場がない。正しく処理さえすりゃあ——普通の葉より、香りが凝縮された『極上のチャバコ』になる」

 工房に、また静寂が落ちた。

 しかし今度の静寂は、絶望ではなかった。

 【深夜の工房】

 夜が明けるより早く、工房に火が入った。

「まず茎を乾かす。次に木槌で叩いて繊維をほぐす。葉と同じ刻み方じゃ詰まるから、いつもより細かく——そうだ、そのくらい」

 孝四郎の声が工房に響く。

 職人たちが木槌を手に取り、茎の束を叩き始める。こんこん、こんこん。規則的な音が、夜明けの静寂に広がっていく。

「次の工程だ」

 孝四郎は、刻んだ茎を蒸籠せいろに入れ、お茶の煮出し汁をたっぷりと含ませて、弱火でじっくりと蒸し上げた。霧島の山が生んだ、上質な緑茶の成分が、茎の繊維に染み込んでいく。

 やがて、蒸し上がった茎の刻みを、乾燥棚で丁寧に仕上げる。惣兵衛が、おそるおそる一摘み手に取り、雁首がんくびの小さな煙管に詰めて火を入れた。

 ひと吸い。ふた吸い。

「…………な……なんじゃこれは」

「どうした」

「香ばしい! いや、香ばしいというより……芳醇ほうじゅんじゃ! 葉のチャバコより、ずっとコクがある! まるで、よく焙じたお茶のような……いや、それ以上の……!」

「霧島の茶が入ってるんだから、当たり前だ」孝四郎は静かに笑った。「茎は香りを閉じ込める。お茶は甘みを加える。あとは職人の腕次第だ」

 鷹之介が、難しい顔で腕を組んだ。

「……仕入れ値は」

「ほぼゼロだ。農家が捨てるゴミを引き取るんだから、むしろ感謝される。知覧の旦那が金をかけて葉を買い占めている間に、うちはゴミから原価タダ同然の超高級チャバコを作り始める。どっちが笑うかは——言わなくてもわかるだろ」

 鷹之介の口元が、わずかに歪んだ。武士らしくない、薄い笑みだった。

 【知覧藩・蔵の中】

 一方、その頃。

 宮地紋太夫は、天井まで積み上がったタバコ葉の山を前に、深々と溜め息をついていた。

「…………」

 買い占めは成功した。霧島藩の仕入れ経路を完全に断った。そのはずだった。

「宮地様」と、部下が恐々と近づいてくる。「この葉の保管費用の件でございますが……蔵の賃料と、防虫・防湿の手間賃を合わせますと、月に銀何匁もんめかと……」

「わかっておる」

「さらに、葉は時間が経つほど品質が落ちますゆえ、三ヶ月後には……」

「わかっておると言っておる!!」

 宮地の叫びが、タバコ葉の山にぶつかって、むなしく跳ね返ってきた。売れなければただの荷物だ。保管すれば金がかかる。

「……まさか、な」

 宮地は、タバコ葉の山を見上げながら、ふと嫌な予感を覚えた。

 あの男——孝四郎は、なぜか、飄々(ひょうひょう)としていた。まるで、策があるとでも言うように。

 【工房の縁側】

 夜。

 工房の縁側に並んで腰かけ、孝四郎とお鶴は茎のチャバコを分け合っていた。

「……本当に、美味しいですね。ゴミだったのに」

「ゴミかどうかは、見る目次第だ」孝四郎は言った。「材料に上も下もない。扱う職人の腕が、全部決める——ってな」

「……知覧のお侍様たちは、どうなりますか」

「さあな。でも、大事なことは一つだ。うちのチャバコは、まだ消えていない」

 煙が、秋の夜空に消えていく。星が、霧島の山の上で、静かに瞬いていた。

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