知覧の刺客は、お茶の香り
【霧島城・広間——朝】
文が届いたのは、朝餉の最中だった。
惣兵衛が封を開け、中を読んだ瞬間、その白髪頭がぶるぶると震え始めた。
「と、殿……!」
「なんです、泣いてる場合じゃないですよ、飯が冷める」
「泣いてなど——泣いております! 嬉しくて!」
惣兵衛が文を両手で掲げた。丸屋徳右衛門からの報告だ。
『霧島タバコ、江戸にて飛ぶように売れ申し候。吉原はもとより、日本橋の茶屋、神田の職人街、上野の香具師まで、こぞって求める始末——』
文の末尾に、小さな木箱が添えられていた。中身は金だ。利息の三千両に、少し色をつけた額が、きっちり収まっている。
広間が、どっと沸いた。職人たちが拳を突き上げ、下級武士たちが顔を見合わせて笑い、おりんが珍しく口元を緩めた。鷹之介は腕を組んだまま窓の外を向いていたが、その耳が、かすかに赤かった。
孝四郎は金箱を一瞥し、めざしを一口食べた。
「よし。次の仕込みを増やすぞ」
「殿、もう少し喜んでいただけませんか!」
「喜んでるよ。飯がうまい」
惣兵衛が泣き崩れた。
喜びが城内に満ちていた、その午後のことだった。
門番が駆け込んでくる。
「隣の知覧藩より、使者がお越しです!」
広間の空気が、少しだけ変わった。
【霧島城・対面の間】
現れた使者は、四十がらみの温厚そうな男だった。丸い顔に柔らかい笑み。いかにも人畜無害といった風体だが、その目だけが、部屋の隅々まで静かに動いていた。
「これはこれは、新しいお殿様。知覧藩の家老、宮地紋太夫にございます。ご就任のお祝いにと、参上した次第で」
「わざわざどうも」
孝四郎は煙管を膝に置いたまま、にこりともせず答えた。
宮地はにこやかに続ける。
「霧島のタバコが江戸で評判と聞きましてな。いやあ、めでたい。隣藩の繁栄は、我らにとっても喜ばしいことです」
「そりゃどうも」
「タバコを吸えば喉が渇く。渇いた喉には、お茶が一服。知覧のお茶と霧島のタバコ、江戸で並んで売れれば、ウィンウィンというものですな!」
宮地が朗らかに笑った。
孝四郎はじっと宮地を見た。笑顔のまま、黙って見た。
宮地の笑みが、わずかに揺れた。
「……左様でございましょう?」
「まあ」
孝四郎は煙管を手に取り、火をつけた。
「お互い、うまくやりましょうや」
【霧島城・裏門——同刻】
使者の一行が城に入るとき、最後尾に一人の娘がいた。
歳は十七、八か。水色の着物に、茶箱を背負っている。顔は愛らしいが、その目は、周囲をよく観察する静かな目だ。
「お鶴」
宮地が小声で言った。
「今夜、タバコの配合を記したものを探せ。どこかに必ずある」
娘——お鶴は、深く頷いた。
「承知しました」
その表情に、一切の迷いがなかった。
【霧島城・廊下——夕刻】
案内された客間へ向かう途中、お鶴は城の造りを頭に叩き込んでいた。台所の位置、番人の交代時刻、灯りの消える場所。
廊下を曲がったところで、ぶつかった。
「おっと」
背の高い男が、タバコの葉を山ほど抱えて立っていた。麻の着物に前掛け。どこからどう見ても職人だ。
「すまねえ、前が見えてなかった。怪我はないか」
男が屈んで、お鶴の足元に落ちた葉を拾い始めた。お鶴も反射的に手伝う。
「……お前さん、知覧から来た娘か。お茶の」
「はい。お鶴と申します」
「いい名だ。俺は孝四郎。ここの殿様をやってる」
お鶴の手が、一瞬止まった。
目の前の男を、改めて見る。殿様。この、煤汚れた前掛けの。
「……ご冗談を」
「本当のことだよ」
孝四郎は葉を抱え直し、にっと笑った。
「夕飯、うまいといいな」
それだけ言って、歩いて行った。
お鶴はその背中を見送り、小さく息をついた。
——警戒心が、薄い。いや、薄いのではなく、そもそも持っていないのかもしれない。
かえって、やりにくい。
【霧島城・孝四郎の部屋——深夜】
城が寝静まった。
お鶴は音もなく廊下を進んだ。足袋の裏で板の継ぎ目を避け、影の中を選んで動く。番人の目が切れる一瞬に、孝四郎の部屋の前に立った。
戸の隙間から、灯りが漏れている。
——まだ起きている?
息を潜めて、耳を澄ませた。紙をめくる音。何かを擦る音。そして、香ばしい煙の匂い。
お鶴はそっと戸を開けた。
部屋の中で孝四郎が、三本の煙管と、大量のメモと、十種類以上の葉の束に囲まれて、眉間に皺を寄せていた。机の上は、実験の残骸で埋め尽くされている。
「おう、お鶴ちゃん」
孝四郎が顔を上げた。驚いた様子が、まるでない。
「いいところに来た。ちょっと聞いてくれ」
お鶴は固まった。
「知覧茶って、焙煎するとどんな香りになる。生のときと変わるか?」
「……は?」
「このタバコの葉と一緒に焙煎したら、どうなると思う。茶の渋みがタバコの甘みを引き立てるか、それとも喧嘩するか。お前さん、茶のプロなんだろ」
お鶴は部屋の中を素早く見渡した。配合メモを探す。どこかに——。
「それなら」
孝四郎がぽんと一束を差し出した。
「一緒に試してみようや」
お鶴は束を受け取っていた。自分でも気づかないうちに。
「……私は、スパ——お茶汲みですよ。こんな夜中に」
「職人に夜中は関係ねえ。ひらめいたときにやるんだ」
孝四郎はすでに焙烙を火にかけていた。
「知覧茶、どのくらいの温度で香りが立つ。低い火か、高い火か」
お鶴の口が、気づけば動いていた。
「……低い火で、じっくりが基本です。高い火だと焦げて苦くなる」
「なるほど。タバコと逆だ」
「逆、なんですか」
「タバコは最初に高い火で水分を飛ばしてから、低い火で香りを出す。順番が違う。じゃあ、混ぜるタイミングも工夫がいるな」
孝四郎の目が、細くなった。職人の目だ。
お鶴はそのとき初めて、廊下で会ったあの男と、今目の前にいる男が、同じ人間だと理解した。
笑みは変わらない。でも、目の奥が、まったく違う。
「——試してみよう」
気づけばお鶴は、茶箱を開けていた。
それから二刻、二人は無言で手を動かした。
焙烙の温度を変え、混ぜる比率を変え、一口ずつ確かめた。失敗した配合を捨て、また試す。お鶴が茶の知識を出せば、孝四郎がタバコの技術で応える。
夜明け近く、ようやく一本、納得のいく煙が上がった。
孝四郎が深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「……これだ」
お鶴も同じ煙管を手に取り、一口吸った。
甘い。それでいて、茶の清涼感がある。タバコだけでも、茶だけでもない、どちらでもある香りだ。
「……なんですか、これ」
「新商品だ。名前をつけてくれ。お前さんが半分作ったんだから」
お鶴は煙管を見つめ、少し考えた。
「……霧島の雲、はどうですか。煙が、霧みたいで」
「いい名だ」
孝四郎が、にっと笑った。
お鶴の顔が、じわりと熱くなった。
——なんで私、名前をつけているんだ。
【知覧藩・宿の一室——翌朝】
宮地紋太夫が、苛立たしげに腕を組んでいた。
「それで、配合メモは盗めたか」
お鶴は正座したまま、真っ直ぐ前を向いた。その頬が、かすかに赤い。
「……盗むどころか」
「どころか?」
「あの男、私のお茶と自分のタバコを混ぜて、新しい商品を作ろうとしています」
宮地の眉が、ゆっくりと上がった。
「……盗みに行ったのに、手伝ったのか」
「……はい」
長い沈黙があった。
宮地は額に手を当て、天井を見た。
「なぜだ」
「……なぜか、手が動いていました」
また沈黙。
宮地紋太夫は、知覧藩家老として三十年。修羅場をくぐり抜けてきた男だ。しかし、こういう報告は、初めてだった。
「……お鶴」
「はい」
「もう一度行け」
「え」
「今度こそ、配合を盗め」
お鶴はしばらく黙っていた。
「……わかりました」
その返事が、どこか上の空だったことに、宮地は気づかなかった。




