一か八か、江戸への黒船煙(くろふねけむり)
霧島城の庭には、出荷を待つ木箱がうずたかく積まれていた。
この一ヶ月、城内はさながら戦場だった。鷹之介の苛烈な指揮のもと、職人と武士が泥にまみれて葉を刻み、焙煎し、梱包した。
「……全部で、二千箱。約束の期日に、間に合いましたね」
おりんが、木箱の数を帳面に書き留めながら言った。目の下にうっすらと隈があるが、その表情には確かな達成感があった。
孝四郎は木箱の一つに腰掛け、愛用の煙管をくわえてふぅ、と煙を吐き出した。
「おう。みんな、よく働いてくれた。特に鷹之介さん、あんたの指揮がなきゃ、一ヶ月でこれだけの量は絶対に無理だった」
「……ふん。私は、期日遅れで城の瓦を剥がされるのが目障りだっただけだ。勘違いするな」
鷹之介は腕を組み、ぷいと横を向いた。耳が少し赤い。
「照れてる」
「照れていない! それより孝四郎、問題はこれからだ。この大量の荷を、どうやって江戸まで運ぶ? 陸路では日数がかかりすぎるし、関所の通過に賄賂が要る。今の我が藩に、そんな金はないぞ」
鷹之介の鋭い指摘に、惣兵衛が青ざめて胃を押さえた。
「そ、左様! 船を仕立てる金すら、金蔵には一両も残っておりませぬ……!」
孝四郎はにやりと笑い、煙管の雁首で、門の向こうを指した。
「だから、あいつを呼んだのさ」
ギギィ、と重々しい音を立てて城門が開く。
現れたのは、これまた一ヶ月ぶりの再会となる、でっぷりと肥えた江戸の大商人——丸屋徳右衛門であった。その後ろには、荷車を引く人足たちがズラリと従っている。
「いやぁ、お殿様! 約束の一ヶ月が経ちましたぞ! もしタバコができていなければ、お城の瓦を——」
「旦那、大声を出すもんじゃねえですよ。ほら、そこを見てくだせえ」
孝四郎が顎をしゃくると、丸屋は庭に積み上げられた二千の木箱を見て、目を丸くした。
「……こ、これを、本当に一ヶ月で作ったのですか!?」
「ああ。品質も、あのとき旦那が吸ったものと同じ、いや、それ以上だ」
丸屋が木箱の一つを開け、中のタバコ葉の匂いを嗅ぐ。その瞬間、商人の目がギラリと光った。
「見事……! これなら、江戸の吉原や芝の盛り場に持っていけば、一瞬で火がつきますぞ!」
「だろう? だがな、旦那。これだけの量を、今すぐ江戸へ送りたい。……当然、お抱えの千石船を出してくれるよな?」
「は、はい?」
丸屋が面食らったように声を裏返した。
「船を出すのは、荷主である霧島藩の役目で——」
「何言ってんだ。あっしらはタバコの独占販売権をあんたにやるんだ。丸屋の看板を背負って江戸へ乗り込むんだから、流通はプロのあんたの仕事だろ?」
知謀の数値が、静かに火を噴く。
「それに、今すぐ船に積まねえと、この梅雨時の湿気で、せっかくの最高級フレーバーが台無しになっちまう。江戸に着く頃には、ただの湿気ったクズ葉だ。……どうする、旦那。船賃をケチって万の金をドブに捨てるか、今すぐあんたの船に乗せて、江戸の市場を独占するか」
丸屋は、だらだらと滝のような汗を流した。孝四郎の、底知れない図太さとハングリーな商売センスに、完全に呑まれている。
「……くっ、わかりました! 港に我が丸屋の持ち船が停泊しております! 今すぐそれに積み込ませましょう!」
「話が早くて助かるぜ。手、貸してくれ、人足さんたち!」
孝四郎が声を張り上げると、人足たちが一斉に動き出し、木箱を運び出し始めた。
【霧島・港——夕暮れ】
夕日に染まる海。丸屋の千石船の帆が、風をはらんで誇らしげに膨らんでいる。
タバコを満載した船が、ゆっくりと岸壁を離れていく。
港で見送る孝四郎の隣に、おりんと惣兵衛、そして鷹之介が並んでいた。
「……行っちまいましたね、孝四郎さん」
「ああ。これで一ヶ月後の売上から、三千両が丸屋の懐に入る。今月の利息はチャラだ」
「なんと……。本当に、煙一本で危機を乗り切ってしまわれた……!」
惣兵衛がハンカチで涙を拭い、拝むように船を見送った。一ヶ月ぶりに、彼の胃痛が和らいでいる。
だが、鷹之介だけは、険しい顔で水平線を見つめていた。
「……喜ぶのはまだ早いぞ、孝四郎」
「ん? 何がだ」
「これだけのタバコが江戸で売れれば、当然、他の藩や幕府の耳に入る。特に、我が霧島藩を目の敵にしている隣藩や、借金を盾に藩を潰そうとしている幕府の老中が、この動きを黙って見ているとは思えん」
鷹之介の言葉に、港の空気がピリリと引き締まった。
「上等だ」
孝四郎は煙管の灰をトントンと落とし、にやりと不敵に笑った。
「相手が老中だろうが隣の殿様だろうが、関係ねえ。文句があるなら、あっしのタバコを吸ってから言いやがれってんだ」
海を渡る千石船から、一筋の香ばしい煙が、江戸の方角へと流れていく。
借金返済リミット、あと四年と十一ヶ月。
職人あがりの殿様による、前代未聞の「国造り」は、まだ始まったばかりである。




