浮気未満
短編です
「あ、忘れてた」
左の薬指に嵌めている、シンプルな指輪を、そっと外す。小さな罪悪感を上回る高揚感のような物が、私の心を占めていた。
この指に、この指輪を嵌めてから三十年、あの人と一緒に生きてきた。長い結婚生活、ずっとこの指輪も共に生きてきた。
娘が生まれた時は、何よりも嬉しかった。娘の為なら仕事も頑張れた。そりゃぁ、一度や二度は、離婚を考えたこともあったけど、それなりに楽しい人生だった。
三十年、この指輪を外したことはほとんどない。それこそ、手を洗うときやお風呂に入るときくらいしか外すことはない。
よく見ると小さな傷がところどころにある。長年一緒に過ごしてきたのは何も人間だけじゃないんだなぁと、少しだけ感慨深い想いに浸る。
「お母さん、私ちょっとトイレ行ってくるね」
娘がそう言って席を立った。時計を確認すると、まだ少し時間がある。私も行っておこうかな。娘が帰ってきたら入れ替わりにトイレに行こう。
あぁ、一度、旅行に行った時に、飛行機でこの指輪をなくしたことがあったんだっけ。あの時は、旅行先について一気に顔面蒼白、胃の中がひっくり返った様な感覚になったのを覚えてる。
必死に空港の受付の人に声をかけて、探してもらったけど、その時は見つけられなくて、結局ホテルに着いた頃に、空港の方から連絡を受けて、見つかったんだっけ。あれ以来、指輪を外すことなんて無かったなぁ。また失くすのが怖くて。
寝るときもずっとつけていた。有難いことに、体型はほとんど変わらなかったから、指輪もずっとこの指に居座り続けてくれた。
でも今日は、今日だけは、指輪を外すの。
申し訳なさを押し殺して、指輪を持ち歩き用の小さなジュエリーボックスに仕舞った。
「お母さんトイレ行っておく?」
「うん、そうするわ」
女子トイレの行列に並ぶ間、時々指輪の有無を確認して、ヒヤッとして、自分の行動を思い出す。そうだった、外したんだった。なんか落ち着かないわね。
開演ギリギリになって、ようやくトイレから抜け出せた。さて、席に戻らなきゃ。それにしても人が多いわね。娘がいてくれてよかった。
係の人に声をかけて、ようやく席に戻ると、娘はすでに準備万端。グッズのタオルを首にかけ、手作りのうちわとライトを持っていた。
「お母さんいよいよだね!」
「そうね!」
こんな高揚感久しぶり。カバンの中から娘と違う色のライトを取り出した。周囲の女性たちも浮足立っているのがわかる。
黄色い声援のパワーに怯えつつも、人生初めても推し活LIVEを乗り切った。
「お母さんどうだった?」
「もぅ~!!格好良かった!!一緒に来てくれてありがとうねぇ!私一人じゃ絶対無理だったぁ」
「また別のLIVEあるけど・・・行く?」
「えぇ~!行きたい行きたい!!」
年甲斐もなくはしゃいじゃったわ。こんなに楽しかったのは久しぶり。あんなに大勢の中に紛れるのも、何年ぶりかしら。
「お帰り~」
家に帰ると、夫が待っていてくれた。推し活を理解してくれる良い人。でも顔を見ると、ちょっと浮気をしてきた後みたいで、申し訳なさが募る。
「楽しかった?」
「えぇ、とっても、年甲斐もなくはしゃいじゃった」
「良かったねぇ」
夫の優しい声も、私にとっては推し活のような物だ。この人と結婚してよかった。
ふと左手を見ると、指輪が無い。
あら、やだっ・・・えっと、どうしたっけ。あらっやだわ!!
——・・・あ、忘れてた。—
推し活最高!




