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豊かな感じ

作者: 岸薫
掲載日:2025/12/07

 ある晩、福光は二人に分裂することにした。

 それは実に合理的な判断だった。

 翌朝になると福光は、新たに生まれたもう一人の福光を仕事へ行かせた。新しい福光は、福光のスーツを着て、ネクタイを締めて、鞄をひっさげ玄関から出て行った。

 さて。がらんどうの1ルームのなかで、福光はしゃがみ込んで腕を組む。時刻はまだ、八時前である。さしあたり、まずは部屋の片づけをすることにした。

 ごみをひとまとめにして、食器を洗い、ついでにシンクの汚れもスポンジでふき取ると、部屋のなかはますますがらんどうになった。福光の痕跡は、すっかり部屋から消えたように思えた。

 時刻はようやく九時を回った。今頃もう一人の福光は朝礼に出ているのだろう。こっちの福光はというと、片付いた部屋のなかでまた床にしゃがみ込んだ。

 部屋を眺めながら福光は、はたと手を打つ。眼前の掃き出し窓には、まだカーテンがかかっていなかった。引っ越ししてきた時のまま、薄いグレーの布がレールから下がっている。

 福光はさっそく立ち上がると、玄関へ赴き靴を履いた。すると爪先が、もうずいぶんとぼろぼろになっていることにも気がついた。

 荷物を抱えて帰って来たのは、昼過ぎだった。

 福光は真新しいカーテンにフックを取り付けながら、今日の昼食のことを考えていた。表で食べてきてもよかったのだが、いかんせん荷物が多かった。シンクの手前には、ホームセンターから抱えてきた白い椅子が、四本脚でしゃんとしている。

 やっとカーテンに付け替えると、椅子の座面に腰を下ろした。足を組んで、片付いた部屋と新しいカーテンとを眺め、椅子に手を当てながら新調した革靴のことを考えた。彼は満足そうだった。しかし一方で、さしあたり飯をどうするか、という思いを巡らせていた。

 またしばらくすると、インターホンが鳴った。立ち上がり、玄関先で袋を受け取る。中にはついさっき頼んだ食事が入っていることは言うまでもない。

 飯は、たいして美味くもなければまずくもない、と福光は思うでもなく思った。ぼんやり食い終えると、今朝新しく袋をセットしたゴミ箱に、容器を捨てた。

 午後一時になった。福光は時計を見て、ようやくここからが本番な気がした。何か楽しく心躍ることが待っているような気がした。時計の針の角度には、そういう魔力があった。

 立ち上がると、部屋のなかをうろうろし始めた。足というポンプが動くたび、新鮮な酸素と血液が、どんどん頭に運び込まれるような感触があった。

 いろいろな考えが浮かび、消えていった。その気泡が弾けるような音に耳を傾けた。心地いい音だった。

 だけど彼はほかの人たちよりもいくらか賢かったので、だんだんとその音が、時計の針の音と重なっていき、いつの間にか秒針の音に飲み込まれてしまったことに、気がつくことが出来た。

 福光は、時計の電池を抜いた。蛇口をひねって出しっぱなしの水を止めるように、時計を止めたのだ。

 それから部屋の電気をつけると、カーテンを閉めに向かった。窓ガラスの外は、もう薄っすらオレンジ色を帯びている。まばゆい西日を手で遮りながら窓際に立つと、ベランダにプランターが見えた。長方形の箱には、湿った黒土が詰まっているだけである。

 回れ右すると棚の引き出しを上から順々に開けた。プランターと土を買ったときトマトの種も買ったはずだと、そう記憶していた。一番下の引き出しまで開けると、福光はしゃがみ込んだまま動かなくなった。

 種はどこにもなかった。

 その時、玄関で鍵の開く音がした。

 入って来たのは、スーツ姿のもう一人の福光だった。彼はしゃがみ込んだ福光を見ながら、不思議そうにネクタイをほどいた。福光の方も、彼を見た。スーツから部屋着に着替えながら、もう一人の福光は、終始黙っていた。福光は、自分のそうした方がいいのだと、初めて気がついたのだった。

 着替えを終えた彼に頼んで福光は、ベランダのプランターを二人で持ち上げると、部屋の外に持ち出した。エレベーターで一階まで降りると、マンションの脇に黒土を捨てた。土は、青々としたシロツメクサやタンポポにかかって、あっという間にあたりに馴染んだ。

 空っぽのプランターを抱えて部屋に戻って来たのは、福光一人だけだった。彼は来週粗大ごみで出すつもりのプランターをベランダに戻すと、明日のシャツにアイロンをかけ始めたのだった。

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