見えないライン
博多駅の改札を抜けると、十一月の風が頬を刺した。
刑事・山内は上着のポケットに手を突っ込みながら歩き出した。目的地は中洲の小さな喫茶店――三日前の殺人事件で、唯一の容疑者がそこにいるという。しかも、連絡先は知っている。山内が十年前に逮捕した青年、江藤弘樹だ。
被害者は地元の建設会社社長。金に汚く、恨みを買うことには慣れていた男だった。だが、凶器の包丁には意外な指紋がついていた。江藤弘樹のものだ。出所してまだ一年。再犯の兆しはなかった。勤め先は刃物屋。昨日自宅を訪れたがおらず、電話も繋がらなかった。今朝折り返しがあり、喫茶店で待ち合わせたのだ。
喫茶店「リヨン」のドアを開けると、古びたコーヒーの香りが立ち上った。カウンターにいた江藤は、穏やかな表情で山内を見るとテーブル席に移り、静かに言った。
「刑事さん、俺がやったとは言わないでくださいよ。確かにこの前あの人の家に行って会った。でも、手は下していません。」
山内はコーヒーを一口飲み、窓の外を見た。雑居ビルの谷間をバスが通る音が響く。
「じゃあ、なぜお前の指紋が凶器に?」
「依頼されました。俺は包丁研ぎの修行をしていると言ったら、お願いと言われました。先日受け取りに来たと師匠が言っていました。」
淡々とした言葉の中に、わずかな震えがあった。
翌日、鑑識の報告が届く。凶器に付着していた指紋は「生きた皮脂」ではなく、「塗料越し」のもの。つまり、誰かが意図的に付着させた可能性が高い。
再び江藤のもとを訪ねると、彼は荷物をまとめていた。
「刑事さん、俺…逃げるわけではありません。でも、もうこれ以上こんなことに巻き込まれたくないんです。地元に戻って林業に励みます。信じてください。本当に俺じゃないんです。これ、俺の実家の住所です。」
その背を見つめる山内の脳裏に、ある事実が浮かんだ。被害者の会社を引き継いだのは、息子である山内の高校時代の友人だ。事件前日、防犯カメラを見ると刃物屋を訪ね、受け取りに来たのは若い男性。息子の財布を調べるとレシート兼受取証が発見された。――事件の線は、もっと近いところで交差していたのだ。
山内は静かにため息をついた。
博多の街の喧騒の中、真実と嘘の境界線は、雨に滲んだ白線のように見えにくい。
そして、その上を歩くのは、いつだって自分たちだ———。




