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事件

 

 ベチャッ


 薄汚れた泥水がクリーニングが終わったばかりのズボンに沈む


 そんなことが杉森すぎもりの視界に入ることもなく


 ただ一刻とときは過ぎていく

 

 息を切らしながらまだ早すぎるはずの老いを感じる


 薄暗い路地のなかを我武者羅に進みながら


 ー逃がすわけにはいかない。


 彼は再び足を進める


 

                    * * *


 薄暗い蛍光灯が階段のタイルを白緑色に照らしていた


 右腕の腕時計は午前3時をさしている


 廊下を曲がり進んでいく


 やがてドア下から光がさしている部屋の前に立った


 わざわざノックをする礼儀もないかと思ったが、それは杉森の先輩としてのプライドが許さなかった


 ノックを3度繰り返す

 

 「どうぞ」


 少し間があって気の抜けた声が聞こえた


 ドアを開けると部屋の明るさに一瞬目がくらんだ


 「こんばんは、杉森さん」


 スーツに大きすぎる黒色のパーカーを羽織った人物がたっていた


 その顔は部屋の奥のPC画面に向けられている


 こちらからは顔は見えないが彼女の傍らに置かれたストローの入った缶コーヒーを見てその顔色の悪さは大方予想できた


 「悪いな木佐美きさみお前はまだこんばんわかもしれないがこっちはもうとっくにおはようございます、なんだ」


 会議用に置かれた長机とホワイトボードに目を配らせながら応える


 「すみません急なものでしたから」


 乾いた声が返ってきた


 どうやら皮肉とは受け取られなかったらしい


 時計は3:15分をさしていた


 「いつからここに?」


 「昨日の午後4時から」


 ホワイトボードに書かれた乱雑な文字と不規則に散らばっている書類を見てこれ以上話しかける気は失せた


 

 

 パタン


 ノートPCを閉じる音が聞こえた


 待つこと20分、そろそろ一服ほしいと思ったころだ


 少し活気が蘇った彼女の声が静寂を突き破った


 「...杉森さん、手紙って書いたことありますか?」


 「...あるが、最近は滅多に書かないな」


 「そうですか。..いえ、杉森さんのことを聞きたいわけじゃないんです。…ただ」


 そういって彼女は天井を仰いだ


 何かつぶやいているが、聞いても仕方ないので言葉を待つことにした


 やげて彼女は口を開いた


 「杉森さん、あなたが今なんらかの事件で、捕らわれている...もしくは危険が迫っていると仮定します。相手が一人では太刀打ちできない場合、あなたならどうしますか。」


 「助けを求めるな」


 「そうですね。最も一般的で合理的な考えだと思います。では、どうやって助けを呼びますか?」


 「携帯電話...場合によるが、人がいるような場所に駆け込む、安全な場所と思えるところに逃げる、もしくは通信手段で助けを呼ぶ。こんなところか?」


 「悪くないですね。大抵の人なら杉森さんと同じことをするでしょう」


 「...それがどうしたんだ?」


 いつもそうだが彼女の言動は思考を麻痺させる


 「では、どうでしょう。仮に手紙で助けを求めるのなら?」


 「は?」


 「不思議なピースの一つ目はそこなんです。手紙を書く時間と余裕、それにそこまでの限られた特殊な手段、そんな状況と言われればそこまでですが、私は何か引っかかります。」


 「どういうことだ」


 銀色の髪をなびかせて、今日はじめて彼女と目が合った


 目には鋭い光と好奇心が混ざり合っている


 口角を少し上げて彼女は言った


 「事件ですよ、じ・け・ん」



 「殺人です」



 脳が円滑に回りだした気がした


 背筋が自然とただされる


 久しぶりの高揚にどこからか歯車の軋む音が聞こえた


 


 


 

 




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