穂積先生は新田君にプレゼントがしたい
「やっとあの雑巾のようなエプロンを捨てたか」
無駄に、本当に無駄に長い穂積邸の廊下の拭き掃除をしていると、上から声が降ってきた。
呼吸のように嫌味を口にする声の主は顔を見ずとも分かるが、無視をするわけにもいかないので一応振り返ると、家主の穂積さんが腕を組んで俺を見下ろしていた。
「……雑巾のようなエプロンで悪かったですね」
仮にも少し前まで人が着ていたものにひどい言い様だ。
「ああ、悪かったよ、すごく悪かった。雑巾を身に纏った人間が食事を作っているのかと思うと食欲が失せたよ。何度派遣元に抗議しようか思ったよ」
大袈裟に肩を竦めて溜め息を吐く穂積さんに「うるせぇ! なら食うな!」と暴言が口の先まで出掛かったが、ぐっと飲み込んだ。
相手は大事な顧客だ。しかも羽振りがいい。文句を言うのはいつかこいつが人気作家という地位から転落した時のために大事に残しておこう。
「すみませんね、食欲の失せるエプロンをしていて」
俺はふて腐れるように言ってから、すぐに廊下の拭き掃除を再開した。
「謝るくらいなら俺が指摘したその日に捨てるべきだろ。しかも代わりのものを俺が貸してやろうと言ってやったのに、その厚意さえはねのけて……、全く君は本当に礼儀というものがなっていないね」
呆れたようにかぶりを振る穂積さんに、あんなもの着られるか! と怒鳴り散らす。もちろん、完璧な防音を誇る心の中でだ。
穂積さんは俺のエプロンを散々貶した後日、昔ここに住み込みで雇われていたばあやさんが使っていたというエプロンを引っ張り出してきた。
「見るに堪えん。これに着替えろ」と言って差し出されたそれが、普通のエプロンであれば俺も馬鹿ではいないので家主様の不興をわざわざ買う真似はせず、素直に受け取っただろう。
しかし、それは真っ白なフリルのエプロンで、それを着た俺こそ見るに堪えないものに違いないので、断固拒否した。どうやらそのことを根に持っているらしく、声には隠すことのない責めの色が滲んでいる。
「……あの時も言いましたが、白は汚れが目立ちますし、そもそも俺があんなフリルのエプロンを着たらそれこそ食欲が失せますよ」
「雑巾よりマシだ」
「そうですか、それはスミマセンでしたー。……もう新しいものに替えたからいいじゃないですか」
小姑の嫁いびりのような嫌味にうんざりする。この人は嫌み以外のコミュニケーション方法を知らないのではないだろうか。
「そうだな。まぁ、俺の厚意を無碍にしたことは許し難いが、新しいエプロンはなかなか趣味がいいじゃないか」
珍しく穂積さんが褒めたので驚いて振り仰いだ。
「何だ? その驚いた顔は」
怪訝そうに穂積さんが首を傾げる。
「あ、い、いえ。まさか褒めて貰えるなんて思っていなくて……」
「褒めてないさ。ただ思っていたよりはマシという意味だよ。どうせ君が買うものなど、君のセンスと経済力を考えれば、いかにも大量生産といった安物が関の山だろうからね」
「……あ、そーですか」
一言どころか、二言三言も余計な物言いに、何か言い返す気力すら奪われた。
しかし悔しいが、穂積さんの言う通りだった。そのエプロンは、上質な濃紺の和生地で、深紅の糸で細かな模様が描かれている。
俺の寂しい懐ではこんな上等な生地のエプロンは買えないし、貧相なセンスではこんな洒落たものは選ばないだろう。
これは俺を指名してくれているお客さんの一人、櫟原さんから貰ったものだ。櫟原さんは五十代の男性だが、見た目はもっと若く見える。やり手の実業家らしいが、全く偉ぶったところがなく、俺なんかにも気さくに接してくれる優しい人だ。
全く、どこぞの人気ミステリー作家さんにも爪の垢でも煎じて……いやここまで性格がひん曲がっていては煎じては効果がないだろう、そのまま口に突っ込んでやりたいくらいだ。
「君らしくないセンスだが、どこで買ったんだい?」
「あ、これは買ってないんです。貰ったんです」
「貰った?」
穂積さんの眉がぴくりと動いた。俺は内心げっ、となった。眉が神経質な動きを見せるのは、彼の不機嫌になる前兆だからだ。
「一体誰に貰ったんだ?」
「え、あ、えっと、俺を指名してくれてる方が、旅行に行った時のお土産で……」
妙な威圧感に怯みながら答えると、穂積さんは馬鹿にするように鼻の先で笑った。
「全く貧乏人というものは、貰えれば何でも尻尾振って貰うんだな」
「ご厚意で頂いてるのに突っぱねるわけにはいかないでしょ」
しかも役に立つものなのだから、貰わない手はない。
「……俺があげたものは着てこないくせに」
ぼそりと呟くと穂積さんはふい、とそっぽ向いた。
「え?」
「だから、君は俺があげたものは着ないくせに、他の男から貰ったものは着る薄情者だなと言っているんだっ」
口調を荒らげる穂積さんだが、不思議と威圧的なものは感じなかった。むしろいじけた子どものように感じるから不思議だ。
「……えっと、あの、すみません」
らしくない態度に面食らってとりあえず謝ると、穂積さんはフン、と鼻を鳴らした。
「謝るなら早く着て来い」
「いや、あれは無理でしょ!」
俺は思わず突っ込んだ。
というのも、穂積さんがくれたものが俺でも知っているくらいの高級ブランドの服で、とてもこの仕事に着て来られるものじゃないのだ。
「人がせっかくやったというのに随分な口振りだな」
「せっかく頂いた高級なものだからこそ、こういう汚れやすい仕事では使えないんですよ」
ムッと鼻の頭に皺を寄せる穂積さんの神経を逆撫でないよう、慎重に下手に出て言葉を選ぶ。すると、少しだけ鼻の頭の皺が和らいだ。
「……ふぅん、なるほどな。確かに君のような貧乏人に突然あのような高級品をあげても使いどころがなく戸惑うだろうな。猿にパソコンを買い与えるようなものだな。俺の配慮が欠けていた、すまない」
ただ一言謝るだけでもこんなにも嫌味を付随させないといけないのかと呆れつつも、声の調子は幾分機嫌がよくなっており、俺の言葉が満更でもない様子だった。
「いや、あんないいものを頂いて感謝はしてるんですよ、本当に。あの服は今度どっかいい所に行く時に着させてもらいます」
「じゃあいつにする?」
「へ?」
思わず口から間抜けな声が漏れる。
「だから、出掛けるのはいつにするかと言ってるんだ。俺も幸い、今執筆している長編の目処は大方ついたところだ。今週末か来週なら連れて行ってやれる」
え? なんで一緒に出掛ける流れになってんの?
俺の頭の中にハテナマークが飛び交う。
穂積さんの言葉は、脈絡が全くないわけではない。だが、俺と穂積さんの間に二人で出掛けるような交友関係もない。
「……えっと、それは仕事の一環でということですか?」
奴隷、もとい小間使いとして外出に同伴させたいということだろうか。いや、そうとしか考えられなかった。
しかし穂積さんは不可解そうに眉を顰めた。