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「そういえば昨日、穂積さんという人が新田君の指名を取りやめるよう話しにきたよ」
「っぶ!」
お得意様の清野さんの言葉に、俺は紅茶を吹き出しそうになった。
「っ、ごほごほ……っ」
「大丈夫?」
咳き込む俺に、前に座る清野さんがティッシュを差し出してくれた。
「だ、大丈夫です。というか、それ、本当ですか?」
受け取ったティッシュで口を拭いながら訊く。
「ああ、本当だよ。しかも菓子折を持って来て」
くすりと笑って清野さんは紅茶を優雅な所作で口に運んだ。
穂積さんと同じ金持ちだが、品の良さが全然違う。
「あの話、本当だったんだ……」
「かなり本気みたいだよ。僕が断ったらお金を持ち出してきたしね」
「立ち退きの交渉かよ……」
俺は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。そんな悪徳業者のような交渉を他のお得意様にもしているのかと思うと頭が痛くなった。
「……って、もしかして清野さん、その条件のんだんですか!」
慌ててガバッと顔を上げると、清野さんが小さく笑った。
「まさか。新田君との時間は何ものにも変えられないよ」
「清野さん……!」
清野さんの優しさと誠実さに満ちた笑みに俺は感極まった。テーブルが間になければ抱きついていたかもしれない。
どこぞの誰かとは大違いだ……!
「俺も清野さんの家に仕事はいるのが一番好きなのでそんな風に言って頂けて嬉しいです」
「ふふ、新田君も上手だね」
「いや、マジですから」
これは決してお世辞ではなく本心だ。
清野さんは金持ちでありながらどこかの誰かのように全く偉ぶったところもないし、言動にも優しさや気遣いに満ちている。
ちょっとしたことでもお礼を言ってくれるし、業務時間のうちの半分ほどはこうして高級そうな紅茶とお菓子を出して休憩させてくれる。
生まれつき病弱で、友人と呼べる人も、肉親もいないので、歳の近い俺と話すのをすごく楽しみにしてくれているようだ。
ちなみにお金に関しては亡くなったお祖父さんが有名な作家で働かなくともその印税が入るらしい。貧乏暇なしとばかりに働いている俺からすれば羨ましいことこの上ないことだ。
「でも穂積さんの気持ちも少し分かるなぁ。僕も新田君に我が家専属できてほしいもん」
「清野さんの家なら喜んで専属になります」
穂積さんがいたら怒られそうなくらいの早さで即答すると、清野さんはクスクスを笑って目を細めた。
「嬉しいなぁ。ありがとう。あ、よかったらチーズムースもあるんだけど食べる?」
「いただきます!」
また即答すると清野さんは可笑しそうに笑ってから立ち上がった。
チーズムースを冷蔵庫から取り出す心優しき家主を見ながら、この家なら別に奴隷でもいいから住みたいとわりと本気で思った。
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今日も新田君可愛かったな、と彼が使ったティーカップの縁を指先でなぞりながら、清野はうっとりと唇をしなわせた。
最初、新田が家政夫として来た時、女でないことにがっかりしたが、こまねずみのようにせっせと働くところは存外に可愛く、いつの間にか新田を指名するようになっていた。
新田は掃除や仕事に集中すると、背後に立っても気づかないことが多い。その無防備なほどに懸命に仕事に打ち込む姿は思わず後ろからぎゅっと抱きしめたくなる。そして……――。
抱きしめた先のことを考えると胸が甘く締め付けられる。男にこんな甘い感情を抱くのは初めてだった。ヘテロの清野は戸惑った。だが、どうしても彼を手に入れたい。そのためには練習が必要だった。
清野はテーブルの上のティーカップやお皿はそのままにして、地下のアトリエに向かった。
「……しかし困ったな。穂積という男は厄介だ」
憂いを帯びた溜め息を零す。しかし、それは部屋中に充満した血肉の腐臭の中にすぐに溶けていった。
処置台の上に横たえた死体の腹にメスを当てる。死体の男の名は知らない。新田と背丈が似ていると言うだけで選んだのだから知るわけがない。
だが、偶然かもしれないが、穂積には行方不明の男たちが新田と似ていることに気づかれてしまった。しばらくは、我慢すべきか……。
いや、それはだめだ。清野は自分の臆病な考えに首を振った。
一刻も早く彼を殺して自分の傍に置きたい。新田の無防備な背後に立って彼を見下ろすごとに、その衝動は抑えがたいものになっていた。ギリギリのところまで近づき、まるで警戒という言葉を知らない幼子のように無垢なうなじをじっと視線で舐めるだけでも、清野の下半身はじとりと熱を孕んだ。
今までこういった感情は女性にしか抱いたことがなかった。しかも新田に対しては殺したいという願望だけでなく、その死体を傍に置きたいとも思ってしまう。
これは今まで殺してきたどんな美女にも抱かなかった感情で、清野はますます新田が欲しくてたまらなくなった。
殺すことは慣れているが、死体を保持する方法については詳しくない。だからこうして新田に似た男をさらってきて練習をしているのだ。
「……あ、そうだ、あの穂積が提案したようにうちに住まわせようかな」
新田も清野の家ならぜひと言っていたことを思い出し、口の端を吊り上げる。
あの警戒心のない、こちらを信頼しきった表情が、清野の本性を前にして困惑と恐怖で歪むのを想像しただけで、下半身がどくりと脈打った。
その拍子に手を滑らせてしまい、死体の臓器に少し傷が入ってしまった。
清野は苛立たしげに舌打ちをして、臓器を乱暴に握り潰した。
「……やっぱりまだもう少し練習が必要だなぁ。新田君の体にこんなヘマをしてはいけないからね」
鼻歌を歌うように新田の名を口にすると、清野は手に持った潰れた臓器をごみ箱に捨てた。
―了―