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穂積さんは肩を竦めた。
「仕方ない。一ヶ月時間をやるから他の男達との関係を整理してこい。その間はここから通うことを許可してやるから」
「いや、どうしてそうなるんです?」
まるで譲歩してやったと言わんばかりの不遜な物言いと、見当違いな気遣いに今度こそ突っ込んだ。
「他の男がいるから我が家専属の奴隷、あ、いや間違った、家政夫になれないんだろう? だから他の男との関係を断ってこいと言ってるんだ」
「今とんでもない単語が聞こえたんですけど……」
「奴隷も家政夫も同じようなものだろう」
「違いますよ!」
この人は俺を奴隷だと思っていたのか……! と憤りが湧き上がる一方、普段の俺に対する言動を考えればまぁ納得ではある。
「というか、他の男と関係を断って来いってまるで不倫の清算みたいな言い方やめてくださいよ」
「似たようなものだろう」
「いや、全然違いますよ!」
作家なのにこんな大雑把な言語感覚で大丈夫なのか、と呆れを通り越して心配になる。
「俺は厚意で提案してるんだ。それなのに感謝の土下座ひとつもせずにグダグダと……」
穂積さんは鬱陶しそうに舌打ちをした。
感謝の土下座とか聞いたことないんですけど……。この家に住みたくないという気持ちがさらに確固たるものとなった。
「……ご厚意は有り難いのですが、俺そこまでお金に困っていないのでご心配なく」
へそを曲げられるととてつもなく面倒なので穏便に辞退の姿勢を見せるが、ハッと一笑に付された。
「そんなヨレヨレのボロ雑巾のような服を着てよく言えたもんだな。まぁ、でも金の問題もあるが、君の家の周りは治安が悪いじゃないか」
「確かにあまり治安は良くないですけど……」
家賃が安いところになると買い物や交通の便が悪かったり、治安が良くなかったりするものだ。でもそれでも家賃が安い方が俺には大事なのだ。
というか、俺の家なんで知ってるんだ?
「空き巣も多いようだし、痴漢の情報もある。先月なんて、君のアパートの近くにある公園で強姦未遂もあったようだ」
「へぇ、そんなことがあったんですか。よく知ってますね」
感心して言うと、穂積さんは呆れと侮蔑がありありと感じられる大きな溜め息を吐いた。
「君は本当に危機感がないな。君みたいなタイプはミステリー小説では序盤でサクッと殺される。名前すらつけてもらえない雑魚キャラだ」
「いや、危機感がないと言われても、空き巣はまだしも痴漢や強姦は男の俺には関係ないじゃないですか」
若い女の子ならまだしも、彼女いない歴=年齢の冴えない男には無用な危機感だ。
「そうとは言い切れない。君みたいな掃除も料理も中の下の家政夫をわざわざ指名する客がいるくらいだ。物好きっていうのは意外といるものだよ。それにここ最近、君に似た容姿の男が四人、行方不明になっている」
「え?」
先に言った嫌みの威力が半減するくらいの物騒な情報に俺は目を丸くした。
「え、俺に似た男って……」
「頭と懐の貧しさが目に見える貧相な男だよ。まぁ、もっとも君みたいな平凡な男は俺のような存在と違って掃いて捨てるほどいるから別に不思議でもないけどね」
「はいはい、そうですね」
いちいち腹立たしい物言いだが、そのたびに訂正していたらきりがない。俺は不満を流し込むようにしてご飯をかけこんだ。
「まぁ警戒はしておくことだ。君みたいな邪魔にならない空気のような奴隷はそうそういないからいなくなったら困る」
ついには家政夫と言い直さなくなった穂積さんだが、一応俺を心配してくれているようだ。……たぶん違うと思うが、ポジティブな解釈をしていないとやってられない。
「ということで、今週中に荷物をまとめてうちに来るように」
「何が『とういうことで』なのか全く分からないんですが……」
「どうして君はそんなにも頭が悪いんだ。文脈を読む力が欠如して……いや皆無だな」
「理解できないのは俺の頭のせいだけじゃないと思うんですけど……」
「まさか俺のせいだとでも言うのか? これだから頭の悪い奴は物事を客観視できなくて困る」
「はいはい、馬鹿でスミマセンでした」
反論すれば倍返し以上の辛辣な言葉が戻ってくるので面倒になった俺は、心を込めずに謝った。
「でも俺が穂積さんの家の専属になることはできませんよ。会社の規約に勝手に独立することは禁止って書いてますし」
規約にあると言えば、この不遜な男もさすがに引くだろう。
穂積さんは顎に手を当てて「ふぅん、そうか……」と何やら黙考し始めた。
「……ということは、会社と君の常客を黙らせれば君は晴れて我が家の奴隷になれるということだな」
全くもって晴れてでもないし、俺は奴隷でもないし、黙らせればという言葉がなにやら不穏だが、訂正しても無駄なことは分かっているので、とりあえず頷く。
「まぁ、そうですね……」
一番の理由は俺が穂積さんと一緒に暮らしたくないからということだが、もちろん言えるわけがないので黙っておく。
すると穂積さんは箸を置いて立ち上がった。
「分かった。それなら邪魔者を排除すればいいだけの話だな。……新田君」
「え、あ、はい」
珍しく名前で呼ばれ、どもりながら返事をするとニッと、まるで殺人鬼のような凶悪な笑みを浮かべた。
「来週までに話をつける。それまでに荷物をまとめておけ。ただし、我が家でそのボロ雑巾の着用は禁止だ。ボロ雑巾の類いは捨てておくように」
そう言い残して、穂積さんはリビングを後にした。
「……え?」
ドアの向こうに書斎の扉が閉まる音が響いたところでようやく穂積さんの言葉が頭に届いた――正確には拒絶反応を示した頭が渋々受け入れた。
何言ってるんだ、あの人……。
悪い冗談だと思いたいが、わがままを押し通すことで右に出る者はいないほどの嫌な断行力を持つ人だ。背筋に我知らず鳥肌が立つ。
まぁ、でも、会社側もそう簡単には許可しないだろうし、そもそも俺の顧客をあの人が知るわけないしな。うん、だから大丈夫だ。
俺は自分にそう言い聞かせながら、味噌汁を飲み干すと、皿をお盆にのせてキッチンへ向かった。