穂積先生は新田君と一緒に暮らしたい
「別にここに住ませてやってもいいけど」
夕食を食べていると、俺の作った肉じゃがを口に運びながら、穂積さんが何の脈絡もなく言った。
どういう意図で言っているのか図りかね「はぁ……」と曖昧な返答をすると、穂積さんは眉根を寄せた。
「なんだその間抜けな反応は」
こちらの無礼を咎めるような鋭さを含んだ声で言って、穂積さんは目を眇めた。自分の反応が彼の気分を害したことは明らかだ。
だが、親戚でも友人でもない――知り合いと言うのも憚られるような浅い関係の人間に「ここに住んでもいい」と、望んでもいない許可を突然寄越されたら、誰だってこんな反応になるに違い。
「すみません、どういう意味で言ってるのか分からなくて……」
自分に非はないと思うが、穂積さんは大事な顧客だ。喉の奥でぐるぐると渦巻いている反論はぐっと飲み込んだ。
穂積さんは唾棄するように溜め息を吐いた。
「これだから普段本を読まない人間は読解力がなくて困る。仕事と衣食住を提供してやろうと言っているんだ。ここに住み込みで働けば生活費もかからないし、仕事もできるし一石二鳥だろう」
さも名案のように言われ、俺はまた「はぁ……」と曖昧に答えてしまった。
確かに生活費が浮くというのは有り難い。中学卒業後、進学する金もなく、唯一特技だった家事を生かせる派遣家政夫の仕事に就いて早十年になるが、給料は平均以下だし、これから上がる気配もない。貧窮とまではいかないが、金に余裕がないのは確かだ。
ただ、この男と一緒に暮らしてまで生活費を浮かせたいか、という話になると答えは否、だ。
穂積さんは気鋭のミステリー作家で、彼が出す本はベストセラー間違いなし、と言われるくらいの超がつく人気作家だ。普段ほとんど本を読まない俺でも名前を知っている。
だが、突出した才能を持つということは何かを捨てるということなのか、穂積さんは対人能力がまるでない。
優しさや気遣いに欠けていることはもちろん、地位や名誉、才能があるが故なのか、誰に対しても傲慢で、常に人を見下している。さらにはそれを取り繕うともしない。
俺が初めて穂積さんの家に仕事に入った時「君は普段どんな本を読むんだい?」と訊ねられ、正直に「すみません、恥ずかしながら本はあまり読みません……」と答えるとあからさまに馬鹿にされ唖然とした憶えがある。
中卒ということで人に見下されることにはまぁ慣れていたつもりだったが、その俺でも穂積さんの侮蔑ぶりには驚いた。
さらに気性が荒く神経質で、特に執筆中や締め切り前はちょっとした物音にすら過敏に反応し、殺気立った目で睨まれる。
そういった彼の破綻した人格に、歴代の家政婦達は三日も持たなかったらしい。ある家政婦は一時間も経たず逃げ出した、という噂も耳にしたことがある。
また、穂積さんから「気に入らない」と言って家政婦の交代を派遣会社に要請することも少なくないらしい。
そんな人格に難ありの彼に、派遣会社の上司が言うには、俺は随分気に入られている、とのことだ。
正直なところ、嫌みを言われることも多く、ネチネチと料理や掃除の仕上がりに難癖をつけられることもあり、およそ好意的な態度をとられたことはない。
恐らく、穂積さんの俺に対する評価は他のよりはマシというくらいのもので、気に入られているというのは上司の買い被りだ。
穂積さんには一度「君は空気のようだね。存在感がなくて邪魔にならない」と言われたことがある。
およそ人の気分をよくする言葉とはかけ離れているが、普段の穂積さんを基準で考えるとこれは最大級の褒め言葉だ。つまり、穂積さんは俺の存在感のなさを買っているのだろう。
この存在感のなさはひとえに母親のおかげである。俺の母親はヒステリックな酒飲みで、彼女からの理不尽な暴力や暴言から逃れるには極力存在を消すしかなかったのだ。その長年の努力の成果がまさかこんな形で役立つとは思ってもいなかったが。
穂積さんの提案は全くもって俺の本意に沿ったものではないものの、彼なりに俺の経済状況などを慮ってのもののようだ。
もちろん、邪魔にならない使い勝手の良い家政夫を自分の家に置いておきたいというのが本当のところだろうが……。
それでもあの傍若無人の彼から、一応俺のことも考えたようなことを言われて驚く。
だが、彼の提案を受け入れるつもりは毛頭ない。
「……お気遣いありがとうございます。すごく有り難い提案なのですが、穂積さんの他にも俺を指名してくださるお客様がいるので……」
慎重に言葉を選びながら断りを入れたが、穂積さんの眉間には深く皺が刻まれた。
「……別に君じゃなくても代わりはいくらでもいるだろう。それこそもっと料理も掃除も上手い家政婦が」
穂積さんはそう言うと、険しい表情のまま味噌汁を啜った。ちなみに、穂積さんはなめこと赤味噌以外の味噌汁は認めない等の妙なこだわりもいくつかあり、それに対応するのも大変だ。
面倒なこだわりにも配慮しているというのに、こういった嫌みを言ってくるので全くもって腹立たしい。
「まぁ、確かに俺より優秀な家政婦さんはたくさんいますよ。それでも俺がいいって言ってくれる人もいるんです」
「そうか、それは余程マニアックな嗜好を持った客だろうな。そんな客の家にのこのこ上がるなんて気が知れないな。まさしく愚の骨頂。そういった奴らはマニアックかつ残虐に殺す変態が多いから気をつけたまえ」
「いや、皆さん普通の人ですから」
俺は溜め息を吐いた。職業柄なのか、穂積さんはやたら物騒な話に持って行く癖がある。
「そういう普通に見える奴の方がえげつない本性を隠しているものだ。そうとも知らず甲斐甲斐しく男達の世話をする君はやっぱり間抜けだな」
「いや、女性もいますけど……」
「まぁ相手がどんな変態でも金を払っている限り客には違いない。君の代わりなんていくらでもいるとはいえ急に辞めるのも角が立つだろう」
「……はぁ、そうですね」
色々聞き捨てならないが、この家の住み込み家政夫になれないことへの理解を示す言葉も聞こえたので突っ込みもとい正当な修正の言葉は飲み込んだ。