コーンポタージュ
リアルな日常の一コマをあえて文章にしてみました。
新婚夫婦のノンフィクションです。
話の内容はくだらないですが、文章を書く練習の一環として、真剣に書いています。
暇つぶし程度にお読み頂けると嬉しいです。
―― それは些細な会話から始まった。
僕は自宅マンションの駐車場を歩いていた。
そこに停めてある愛車のロックを解除し、冷たい夜風に身震いしながら運転席に乗り込んだ。
エントランスの前まで車をまわし、妻がエレベーターから出てくるのを待った。
僕らは半年前に結婚し、いまのマンションに引っ越してきたばかりだ。
妻は初対面の人とでも物おじせず気さくに話し、誰とでもすぐに仲良くなってしまう。お笑い芸人のような明るさを持っている。少しわがままな部分もあるが、家事も仕事も完璧主義なところがあり、家の中でも外でもよく働く人だった。
しばらくすると五階からエレベーターが降りてきて扉が開き、妻の姿が見えた。
エントランスの自動ドアが開くと、それと同時に突風が吹きこんできたらしく、ぶるっと小さく震えて肩をすくめた。
足早に車へ近づいてきた彼女は、黒いダウンジャケットの襟を両手で掴みながら、寒空の冷気から逃げるようにして助手席に滑り込んできた。
「うぅ……。さっぶいねぇ」 両腕を胸の前で組みながら妻が呟いた。肩胛骨あたりまである長さの、暗めの茶色い髪が風に吹かれて乱れていた。
「昼間とかなり気温違うよね」
僕は何気なくそう答えながら、車を発進させた。
住宅街を抜け大通りへ出たあと、交差点に差しかかり、信号待ちで停車した。
時刻は午後八時をまわっており、家路へ急ぐ人や、どこかへ食事にでも出かけようとしているのか、あいかわらず多くの車が往来している。 対向車のヘッドライトが、不規則な間隔でほのかに僕らの顔を照らしていた。
そんな僕らも仕事を終えていったん帰宅し、簡単に着替えを済ませて買い物に出かけるところだった。
そのときだった。
「そういえば」 信号が青になり僕がアクセルを右足で踏み込むのと同時に、突然妻が尋ねてきた。「リビングの暖房消したっけ?」
「え? 消したやろ?」
思いもよらぬ話題に驚き、僕は妻の顔をチラリと見て反射的に訊き返してしまった。
「あたし消してないよ。着替えが終わったあと消したんやろ?」
くせのある心地良い関西弁混じりの口調で、妻がまた訊いてきた。まるで僕が、<暖房を消す係>であるかのように。
どうだったのだろう。僕は記憶がはっきりしない。人間の習慣というのはおもしろいもので、意識をせずに行った動作は、あとからなかなか思い出せないのだ。
それとも僕が子供の頃、事故で記憶喪失になったことがあるせいなのだろうか。
リビングで着替えていて、そのあとエアコンのリモコンを手に取ったような気もする。だがどうも記憶がはっきりしないのは何故なのだろう。
もしリモコンを手にしたのなら、間違いなくエアコンの電源を切ったはずだ。
「消したと思うよ」
確信はないのだけれど、まるで推理小説の犯人がわかったかのように、僕は強めの口調できっぱりと答えた。
「ほんとにー?」
僕の自信の無さを見透かしたのか、彼女は疑いの声をあげながら僕の顔を覗きこんできた。
そもそも、どうしてあとから出てきた妻が確認してこなかったのだろう? 彼女と目を合わせないようにしながら、僕は少し前の記憶を辿った。
あのとき、帰宅してすぐにエアコンの暖房を作動させた。妻も一緒にリビングで着替えていたのだ。
僕が自分の脱いだ衣類を洗濯機のところへ持っていったとき、妻は自分の部屋で、これから身に着けるためのアクセサリーを物色していた。
リビングは玄関廊下の一番奥にあり、彼女の部屋は玄関のすぐ脇にある。つまり、妻はリビングを通ることなく外へ出てこられるのだ。
僕はリビングの電気を消し、「車まわしてくるね」 と、妻に声を掛けて外へ出た。
そうだ! リビングの電気を消す直前に、エアコンのリモコンを手に取った気がする。いや、確かに手にしたはずだ。
手にしたのなら確実に、暖房をオフにするボタンを押したはずなのだ。ピッっという、リモコンの音も確かに聞いた。
ボタンを押したはずだ!
「うん、間違いないよ。暖房消したよ」 今度は強い確信を持って、僕は妻にそう答えた。
それでも彼女はまだ疑っていた。それは仕方のないことだった。僕は物忘れが激しく、いつも妻の期待を裏切る結果を招いてきた。
遠出をする前日に、車のガソリンの補給をし忘れて出足を挫いたり、
「帰りに水を買ってきて」と、携帯電話に連絡があったにもかかわらず、何食わぬ顔で買い忘れたまま帰宅したり、誕生日プレゼントを買っておくのを忘れたこともあった。しかも、一度ならず二度までも。
だが今回ばかりは強い確信があった。
「間違いなく消したよ。そんなに疑うんやったら、コーンポタージュ賭ける?」
僕は冗談半分で、くだらない賭けを妻に申し出た。
「なんそれー」
少し呆れた様子で、彼女はそのくだらない賭けに同意した。
☆ ☆ ☆
三時間ほど経っただろうか。僕らは買い物と食事を終えて、意気揚々と自宅マンションへ帰ってきた。
僕は、セバスチャン・フィツェックというドイツ人作家の、<サイコブレイカー>という小説を購入することができて、満面の笑みを浮かべていた。あまり書店では見かけることのない作家の本だったので、偶然それを発見できたときは嬉しかった。すぐに手に取ってレジに並んだ。
そもそも書店の海外文芸書コーナーは、『仕方なく置いている』という印象を受けるほど小さい。
これまでの彼の著書は、すべてウェブショップで購入したほどだった。
僕は玄関扉の鍵を開け、妻を先に中へ入れてからドアを閉めた。この三時間近くのあいだで、出掛けるときに言い争ったやり取りのことはすっかり忘れていた。
妻が廊下の突き当たりにあるリビングへ向かっているのを一瞥してから、自分のブーツを脱ごうとしていたそのとき、廊下の奥から叫び声にも似た言葉が聞こえてきた。
僕はそのとき、彼女が何のことを言っているのかわからなかった。
目の前の廊下のさきにある、リビング内の空気を閉じ込めていたドアが開け放たれ、いっきに流れ出てくる熱気と共に、その叫び声を聞いた。
「ぬくっ! なんこれ!」
妻はそう叫ぶと、頭を振って僕のほうへ澄んだ瞳を向け、まるで全能の神が最後の審判を下すかのような口調で言い放った。
「暖房消してないやん!」
そうだ! この熱気は暖房の温風だ!
僕はあわててブーツを脱ぎ捨て、リビングへ駆け込んだ。常夏を思わせるほどの熱気で室内は満たされていた。むしろ、少し暑いくらいだ。
リビングの中央にある長方形のテーブルへ歩み寄り、その上に置いてあるリモコンを手に取ってエアコンのほうへかざし、オフのボタンを押した。ピッという音と共にエアコンの動作が停止した。
なぜだ! あのとき確かに、ピッという音を聞いた。僕が行った操作にリモコンがちゃんと反応していたはずなのだ。
それなのに何故、暖房は作動したままだったのだろうか?
僕が軽いパニックを起こしているその後ろで、まさに理解不能な出来事が起きた。
またしても妻が叫んだのだ。
「いますぐ買ってきて、ポーンコタージュ!」
☆ ☆ ☆
“ポーンコタージュ”
彼女はいま何て言った? 最初、僕は何を言われたのか理解に苦しんだ。
まず、<ポーン>という言葉から、チェスの駒――Pawn――が脳裏をよぎった。
チェスの駒を買ってこいと? このタイミングで? いや、まさか。でもそのあとに続く、<コタージュ>の意味がわからない。コタージュって何?
頭の中でもう一度その言葉をつなげて読んでみた。
“ポーンコタージュ”
その直後に理解した。彼女は、僕たちが出掛けるときにしていた賭け――つまり、<コーンポタージュ>のことを言ったのだ。
ようやく理解した僕の脳が、一刹那のあいだに身体へ伝導し、腹の奥の筋肉を震わせた。
腹の奥底からこみあげてくる“笑い”をこらえることは、僕にはできなかった。妻に背を向けたまま、声に出して笑った。
“ポーンコタージュ”
もう一度、頭の中でその言葉を繰り返してしまった。腹筋が悲鳴を上げだした。笑いが止まらない。
「ポーンコタージュて何なん……」
僕は腹をかかえながら振り返り、ようやく震える声を絞り出して妻に言った。
彼女も自分の言い間違いに気付いたようで、唇の両端が上がり笑いだした。
「賭けてたやんか!」 少し恥ずかしそうに笑いながら妻は言った。
「ああ、賭けてたね。ポーンコタージュを」
僕は押し寄せてくる笑いをなんとか堪えながら、ソファーに座りこんだ。
「どう聞いてもコーンポタージュやんか。あたしの勝ちやで、はよ買うてきて!」
黒のダウンジャケットを脱ぎながら、玄関廊下の脇にある自分の部屋へ向かう彼女は、勝ち誇ったようにそう言った。
それにしても腑に落ちない。確かにリモコンは反応していたのに、エアコンの運転は停止していなかった。
僕がリモコンの液晶パネルをじっと見つめながら考えたそのとき、そこに表示されている数字が真実を語っていた。
その液晶パネルの数字は、いつもの暖房の設定温度よりも、一度高くなっていた。
あのときリモコンを手に取った僕は、<オフ>ボタンではなく、<温度設定>ボタンを押していたのだ。しかも、温度が上昇するほうを。
そのせいでエアコンの運転が止まることはなく、逆に設定温度が一度上がったまま、リビング内へ温風を出し続けていた。
この真実を知ってしまった僕は愕然としながら、そっとリモコンをテーブルの上に置いた。自分の財布をつかみ、妻に見られないよう忍び足で玄関へ向かった。幸い妻の部屋のドアは閉まっていた。
僕は無言のまま音を立てずに玄関扉を開けて外へ出た。通路に誰もいないのを確認すると、エレベーターまで走り、一階のエントランスに設置してある自動販売機へ向かった。
自動販売機の前に立ち、並んでいる缶ジュースの中からコーンポタージュを探した。下の段の右から三番目にあった。
“コーンポタージュ”
もう絶対に押し間違うものか、と心に誓いながら、しっかりと確認をしてからそのボタンを押した。ガタンという音と共に、缶の容器に入った熱々のコーンポタージュが出てきた。
もう一度、小銭を入れて、またそのボタンを押した。
両手に持った缶の底に沈殿しているであろうコーンポタージュの中身を軽く振りながら、駆け足でリビングまで戻ると、妻が笑顔で迎えてくれた。
「おかえりっ」
― 完 ―
貴重なお時間を割いて最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
後学のために、ご指摘も含めてご感想などいただけると嬉しいです。