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道化の告白


引きずる脚が森の地面に敷きつめられた雑草や枯れ木の類を擦り、音を立てる。


陽子は森を走り続けている。

何か行きたい場所があるからではない。

ただ恐怖と混乱が自身にそうさせているだけだった。



呼吸が荒く汗が溢れ出してくるのは、疲労のせいだろう。

ならばときおり涙で視界がぼやけるのも、疲労のせいだろうか。


自分は、逃げた。

自分を守ろうとしていた宮木を、置き去りにして。



木の根に足を取られ、転ぶ。



「卑怯者だ、私は…」


地面の枯葉の感触を頬に感じながら、陽子はそうつぶやいた。


後悔が目を瞑っていても、それをこじ開けて存在を主張してくる。


もしかしたら彼を助けることができたかもしれない。


自分にもう少し力があれば。

自分にもう少し勇気があれば。




──宮木君……。



嗚咽を漏らして、陽子は立ち上がった。


そしてしばしばよろめきながら、走り始める。



どこへ向かえば良いのだろう。


森の外へ。


だけど、それはどっちへ向かえばいいのだろう。


わからない。

乱された思考の中にひたすら浮かんでくるのは、

危機を逃れるための論理的な選択肢ではなく、自己への落胆だった。




思えば、これまでの自分の中には、人には言えない自負があった。


“自分は世界を知っている”という自負。


学生時代から世界へと関心を向けていたし、実際に足も運んだ。



そこにはこれまでの日本では経験したことのない世界が広がっていた。

それは、彼女の知的な好奇心と動物的な探究心を心地よく刺激した。



自分は、街を歩く人々が知らない事を、知っている。


得た経験と知識が彼女の中にある種の自信を作り上げていた。


そしてその自信が、行動力と積極性を彼女へ与えていた。


それらは、神がその信徒へ与えるようなものではなく、

自らの知恵と勇気によって勝ち取った物だという認識が、彼女の自我をさらに高めていた。


ならば、この現状はどうしたことだろう。


ここはアフリカの灼熱の大地でも、南極の極寒の氷上でもない。

日本の、自分の生まれ育った国の、

一つの地方のごくありふれた山奥で、自分は今まさに生命の危機に瀕している。


成すすべも見つけられず、顔じゅうを涙と埃で汚し、

体中に名も知らぬ草木の破片を付着させ、後悔に苛まれながらさまよっている。



「仕事以外の話も、これからはできるようになりたいな。陽子ちゃんと」


そう言って笑った宮木は、たぶん、もういない。


「ごめんなさい…宮木君」


ときおり陽子の目に、宮木の諧謔に満ちた笑顔が浮かんだ。


その度に、視界が滲む。


若い彼女が心の頼みとしてきた自信や成長といったものは、

「理不尽な暴力」というごく原始的な力によって、砂上の楼閣のごとくもろくも崩れ去った。


原理を熟知していても、光景を自身の眼に映した事があっても、

自らに向かって撃ちだされた砲弾を素手で受け止める事は、ただ死のみを意味するのだということを身をもって思い知らされた。


だから、暴力に晒されてザルをすくう様にして陽子の中に残った物は、純粋な「恐怖」という本能的な感情だった。




「──でも」


でも、まだ心のどこかに何かが残っている。


恐怖とは何か別のものが、わずかだけれど存在している。


すでにぐしゃぐしゃにされた陽子の心の中の片隅に、存在を主張しているものがあった。


疑問、好奇、あるいは探究心と言えるもの。


この状況の中でなぜそんなものが残り続けているのか、陽子にもよくわからなかった。


そしてその思いは一筋の光を放っていたが、

それが現在の絶望的な状況から脱出するための希望の光なのか、

それともさらなる絶望へと招く悪魔の牙のきらめきなのか、今の陽子にはまだ結論を出せなかった。





森をさまよううちに、陽子の注意を引くものが目に映った。


老齢によってだろうか、倒された樹木が一本あった。

その朽ちた幹に、何者かが腰掛けているのが見えた。


陽子はその姿を被捕食動物のそれのように、慎重に確かめた。



──敵か、そうでない者か。



すると、どうやら相手が自分を狙う肉食獣ではなさそうだということがわかった。





「……坂田さん?」


坂田、と呼ばれた男は、陽子の問いかけにうつろな目線を返す事で答えた。


顔を上げた坂田の表情も、ある意味では相沢や奥村と同じ“豹変”していた。


しかしそれはまったく逆の意味でであり、坂田の場合は現状に心をなすすべもなく押しつぶされ、呆然と考えることをやめた人間のような表情だった。



やがて坂田は、自身の視界に自分以外の人間の姿を捉えたことを認識すると、



「ひっ……!」


と声をあげて、あからさまに顔に恐怖の色を浮かべた。



「待って、坂田さん!」


陽子は逃げようと腰をあげた坂田に向かって叫んだ。


が、坂田はまるで天敵に出会ってしまったかのような狼狽を全身に表わし、すでに陽子に背を向けて走り出していた。





陽子は必死に坂田を追った。

脚の痛みに顔を歪ませながらも、必死に彼を追いかけた。



──彼に、彼に聞かなければならないことがある。


確かめたいことがあった。

それが陽子の心の中にわずかに残る恐怖とは別の感情だったのだが、それを知った結果がどうなったとしても、何も知らずに死ぬよりはマシに思えていた。



が、坂田の走る速さの方が上回っていた。



「……どこに行っちゃったの、坂田さん」


陽子が深く息を吐き出して諦めかけたその時、視界の先に坂田が立ち止まっていた。


彼の目の前には、崖が広がっていた。

とても飛び降りれるような高さでは無い。


坂田はその崖を目の前にして、陽子に追いつめられたと錯覚しているようだった。


彼は背後から追いついた陽子の存在に気づくと、



「く……くるな! やめてくれぇッ」


と、膝をついて顔をくしゃくしゃにしながら懇願し始めた。



「お願い聞いて! 確かめたいことあるの!」


陽子は半分錯乱状態に陥っている坂田に向かって両手を拡げて見せ、こちらに害意の無いことを悟らせようとした。




そう、確かめたいこと。

それはとても重要な事。


恐怖に染まりかけた自分の心の隅に、わずかに存在を留めていた疑問。


坂田が陽子の叫びに反応を示した。



「確かめたいこと……?」


そう言って陽子の顔を見上げた。



「そう。だから、お願い。話を聞いて」



確かめたいこと、それは──




白い錠剤。

天国への招待状の存在である。



「招待状」は、彼のジャケットのポケットから見つかった。


彼が一連の惨劇の犯人だとすれば、自分の飲み物の中に薬物を混ぜるような危険は冒さないはずだ。


だが、自分が声をかけたときのあの反応──坂田の怯えて逃げる様子を見て、

どうやら彼が自分と同じ立場の人間であることを確信した。





おそらく、犯人は彼ではない。

彼が犯人なら、なぜ自ら武器も持たずにこのようなところで危険に身を晒しているのか。


妙な例えだが、“殺されるチャンス”は坂田にも平等にあった。


坂田が犯人ならば、そのような状況下に無防備で立ち尽くしているのは危険すぎるし、不確実だ。



では犯人ではないのなら、なぜ事件の元凶が彼の衣装の中にあったのか。



疑問と矛盾があった。

だから彼にしかわからない事を確かめる必要がある。


その疑問の存在に、陽子は小屋の中で宮木と共に防戦の準備を整えているときに、気がついていた。



陽子はそれを彼に確認したかった。

陽子が坂田に近づくと、坂田の表情がはっきりと見えた。

彼は憔悴しきっているように見えた。


心の所在が不明であるかのように、その目はうつろで生気が見られない。

元々血色のよくない顔を、真っ青にして、陽子に顔を向けている。



「この錠剤は、あなたのものですか」


と、陽子がポケットから、一粒の白い錠剤を取り出して坂田に見せた。



「……なんだい? それは?」


と坂田は、ぽかんと口を開けて答えた。



「あなたのジャケットのポケットから見つかった物です」


坂田は今は存在しない自慢の派手なジャケットをまさぐるように、上半身に手を這わせた。



「知らないよ、そんな物は……」


そんなこと、どうでもいいじゃないか、という口調で坂田は答えた。


陽子はさらに言った。

この錠剤がどのようなものなのかを。

この錠剤が、どのような惨劇を自分たちにもたらしたのかを。


そして、質問した。



「これがあなたの物でないのなら、坂田さん以外で、

ご自分の衣裳にこれを仕込む事ができた人は、誰ですか」



「それは……」


と坂田の目線が宙を泳いだ。



すでに陽子には、彼の口から返ってくるだろう答えが予想できていた。


だから、目の前のやつれきった男が再び口を開く前に、言った。






「後藤さんじゃないですか。あなたのマネージャーの」




──後藤。坂田のマネージャーを務める男。


プロレスラーのような体型に似合わず、顔に柔和な笑みをたたえた男。


そして、この惨劇の前に、自らドライバーの初島のところまで追加の飲料を取りに行くと名乗り出て、単身山を降りた男。




坂田の衣裳は、局の衣裳部屋から借り出したものではない。


自前のものだった。

つまり、衣裳は常に坂田と共に輸送されてここまでやってきた。


坂田の衣装に触れられる者は、坂田本人以外では後藤しかいない。




未だ事態が飲み込めていない様子の坂田を前に、陽子はさらに問いかける。



「坂田さんたちは、昨日からホテルにいましたよね」


坂田と後藤は「現直組」であり、撮影の前日から長野市内に宿泊していた。


そして、問題のペットボトルは東京からの田辺の発注で、このホテルに届くようになっていた。


坂田と後藤、そして今は亡き道明寺と共に、食料と飲料が入ったダンボールは田辺の手によってロケバスに積み込まれた。



「後藤さんは、撮影の前日、あなたと一緒にいましたか」


「それは、もちろんだよ……」


「常に、一緒にいましたか」



その陽子の問いかけに坂田の動きがぴたりと止まる。



「……いや」


と、坂田が目線を落とした。

何かを思い出そうとしている。


そして、再びゆっくりと口を開いた。



「……そばを離れていたときもあった。

確か、市内に暇をつぶせるような場所が無いかと言って」




──それだ。


その時だ、と陽子は確信した。


その時に、後藤はホテルに届けられた飲料に薬物を仕込んだ。


さらに、翌日に坂田が着る事になる衣裳のポケットに錠剤を忍ばせた。



でも、何のために。



坂田を犯人に仕立てあげるためだろうか。


それなら、坂田のペットボトルには薬物は仕込まれていないだろう。


疑われるべき犯人は「正常」でなければならない。


後藤は坂田の飲み物を「マネージャーとして」管理していた。

やはり後藤なら、坂田を犯人に仕立てあげることが可能だ。



が、そもそも何故このような惨劇を後藤は計画したのか。


まだわからない事が多すぎた。




ふと、陽子は坂田のハンカチとボールペンを拾っていた事を思い出して、ポケットに手を入れたが、それらは山小屋の中に置いてきてしまっていた事に気がついた。



陽子の脳裏に、山小屋の中で叫ぶ宮木の顔が映った。




その顔を溶かすようにして、後藤の柔和な笑みが浮かびあがった。




今はその目が、冷酷な狂気を潜ませているようにも見えた。

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