籠城
無線機のスピーカーから流れていた奥村の声が途絶え、この小さな山小屋に沈黙が訪れた。
奥村は、今まさにこの場所へ向かっている。
室内の二人は辺りに耳を済ませた。
風に薙がれて擦れ合う草木の音と、
目覚め始めた夜行性の虫たちの鳴き声が、小屋の周囲を取り巻いている。
二人はその音の中に異物が紛れ込んでいないかどうか、神経を張り巡らせていた。
しかし、室内でほぼ硬直したままの二人の耳に届くのは、変わらない森の音だった。
「……宮木君」
陽子が不安げな声をあげる。
──何か行動を起こさねば。
陽子の促しに宮木はようやく思考を取り戻し、自らが取るべき行動を彼は考え始めた。
すぐに逃げるべきか。
奥村はこちらの居場所に気づいている。
だが、今二人が森の中に逃げ込めば、こちらを見失うに違いない。
森の中でばったりと出くわす可能性はないだろうか。
ある。
が、少なくともこの場所で待ち続けるよりは、その確率はずっと低いだろう。
やはり、陽子を連れていますぐ逃げるべきか。
──だめだ。
陽子は脚と頭部を負傷している。
頭部の傷はそれほどでもなさそうだが、
脚はかなり強く打ち付けたようで、その痛みからしばしば顔を歪ませている。
宮木自身も負傷していた。
首の傷はさほどでも無いが、左肩の傷が腕を動かすたびに痛む。
出血はすでに止まっていたが、強烈な打撲を受けた状態になっていた。
そして、奥村以外にも、
「正常ではない」人間が森に潜んでいる可能性もある。
今の二人の状態でそれらの奇襲を受ければ、おそらく逃げ切れないだろう。
少なくとも二人とも無事に済むという自信は持てない。
それに陽が落ちかけている。
つまり、まもなく夜がやってくる。
視界が悪化した森の中で負傷した二人がのろのろと歩き、朝まで奥村の追撃を振り切れるだろうか。
無理だ。
危険が多すぎる。
──どうすればいい。
ふと、宮木が陽子を振り返った。
陽子は小屋の隅、壁に背を寄せてしゃがみこんでいる。
そして崩れかけた別室のドアの破片をまるでナイフのように握りしめ、こちらを見ていた。
恐ろしいのだろう、身体を小刻みに震わせていた。
が、その目は恐怖に我を失った者のそれではなかった。
ある種の決意のような意思を、その大きな瞳に映して、こちらを見つめている。
「闘おう」
その瞳を見た宮木が、ぽつりと声を漏らした。
言葉にして、改めて緊張が宮木の全身を包む。
「……うん」
陽子も同意した。
自分が口にした提案は、正しかっただろうか。
宮木はすぐに改めて考えを巡らした。
奥村は細身の宮木とは違い、巨体を誇る男だ。
それは肥満を意味するのではない。
奥村は学生時代からラグビーを趣味としてきており、元々がっしりとした骨格に鍛えられた分厚い筋肉を全身にまとっている。
三十代の半ばにさしかかっているとはいえ、奥村の体力は少なくとも陽子はもちろん宮木をも軽く凌駕するだろう。
この状況で味方だったら奥村ほど頼もしい人物はいないのだが、残念な事に薬物の毒気に晒されて狂気をこちらに向けている。
説得など意味をなさないだろう。
──だが、勝算はあるはずだ。
怪我を負っているとはいえ、こちらは二人。
この山小屋を砦のように使い、立て篭もりつつ防戦に徹すれば、奥村を倒すことはできないまでも撃退することは可能かもしれない。
正直なところ、いくら「異常」な状態になっているとはいえ、仲間──それも上司を殺めるなどどいうことは、到底軽々しく実行できるようなものではなかった。
しかし自分と陽子の身は守らなければならない。
そして「脅威」は確実に自分たちの姿を捉え、今もこちらへ向かってきている。
だから殺すことはないとしても、せめて撃退しなければならない。
確か、陽子はこれらの異常な出来事が、「薬物」によって引き起こされたものだと言った。
ならばいずれその効果は解けるはずだ。
異常を起こした者がペットボトルの飲料を口にしてから、すでにかなりの時間が経過している。
この小さな砦に籠って、朝まで耐え抜く。
そうすれば異常になった彼らが正気を取り戻すという可能性もある。
朝になって視界が開ければ、周囲を警戒しつつも山を降りることもできるだろう。
うまくすれば怪我の状態も今よりも回復するはずだ。
だから今、これから暗闇の落ちるとわかっている森の中へ逃げ込むよりはましかもしれない。
“山小屋に立て篭もって防戦、奥村を撃退し、朝の到来を待って山を降りる”
これが最も妥当な判断だ。
そう宮木は考えた。
「頑張れるか、陽子ちゃん」
宮木は陽子に問いかける。
その問いに、陽子は静かに頷くことで答えた。
宮木と陽子は、自らの拠る砦の修復を始めた。
まず別室の窓を閉め、鍵をかける。
さらに別室にあった簡易式ベッドを立て懸け、窓を塞ぐ。
田辺の死体が哀れだったが、この状況では埋葬してやることはできなかった。
「田辺くん……」
宮木と陽子はその遺体に毛布をかけて手を合わせてやることで、せめてもの供養とした。
陽子の記憶に、今朝自分を迎えてくれた田辺の笑顔が浮かんだ。
「どうか……安らかに」
そう心で祈り、田辺の眠る別室のドアをゆっくりと閉じた。
居間には別室へと繋がるドアの他に、窓が一つと、玄関となる入口がある。
つまり宮木たちが立て篭もる場所への進入口は三つだった。
奥村はそのいずれかからやって来るだろう。
別室の窓は鍵をしめ、ベッドをバリケードにする事ですでに封鎖した。
次に、室内にあったタンスを動かして居間の窓を塞いだ。
さらに椅子、机、室内にあるバリケードに使えそうな物で窓の周辺を固める。
これで窓からは侵入できないはずだ。
「窓はこれで大丈夫ね。あとは……」
あとは正面の小屋へ入口である。
陽子がその入口を見つめて腰に手を当てて立っている。
入口のドアは木製で、それも決して分厚いものではなく、しかも目に見えて老朽化している。
「どうしよう……もう塞ぐ物は何もないよ」
陽子が言うとおり、バリケードに使えそうな物はすでに無い。
だが、正面の入口の封鎖を最後に回したのには、一応の理由があった。
“これからお前たちを殺しに行く”
そう宣言する者がそれを待ち受ける者たちに対して、堂々と正面の玄関から訪ねて来る事はあまり考えられない。
必ずこちらの意表を突いてこようとするはずだった。
そのため、正面の入口の防御はあえて最後にした。
しかし、だからといって手薄な防御にするつもりはなかった。
そのため宮木としては、古びた木製のドア一枚でできた正面の入口には、多分に受動的ではあるものの最強の攻撃力を持つ仕掛けを施しておく考えがあった。
「確か、コンロがあったよね、陽子ちゃん」
山小屋の中で簡単な料理を行うためのあったカセット式のコンロのことを宮木は言った。
「うん、ちょっと待ってて」
陽子が部屋の隅の調理台の方へと歩いていく。
宮木は部屋に転がっていた的場と久保谷のリュックサックを漁り、
さらに自らの腰に身につけたウエストポーチから、様々な道具を取り出して、
何やら入口のドアに細工をし始めた。
しきりにドアを開閉させている。
「これでいいかな……?」
「うん、ありがとう」
宮木は戻ってきた陽子から小さなカセット式コンロを受け取り、コンロからガスボンベを取り外す。
しばらく宮木が作業をしている様子を、陽子は眺めていた。
始めは宮木が何をしようとしているのか陽子は不思議そうに眺めていたが、次第に宮木の考えていることが陽子にもわかってきたようだった。
「……よし、これで大丈夫」
おそらくは。
という不安が残ったが、ひとまずはこれで準備は整った。
最後に部屋の明かりを消し、二人は暗い山小屋の中で息を潜めて待った。
陽はすでに落ちかけていた。
明かりを消すと、バリケードを施された小屋の中はほとんど真っ暗な状態になった。
宮木は右手にサバイバルナイフを握りしめ、辺りの音に耳を澄ます。
活動を始めた夜行性の虫たちの鳴き声が、突如止んだ。
「……来た」
陽子がつぶやいた。
……地面の草木を踏みしめる音が聞こえた。
その足音は徐々に近づいてきて、ゆっくりと小屋の周りをぐるぐると回り始めた。
「様子をうかがってるんだ」
ガタ、という何かを動かそうとする音が聞こえた。
別室の方からだ。
奥村は別室の窓を開けようとしているのだろうか。
だが別室の窓は木の格子がはめられており、さらに鍵をかけてある。
さらにそこへ簡易式ベッドと家具を立て懸けて封鎖してある。
そう易々と入ってくることはできないはずだ。
宮木らの予想通り、やがて外の足音が再び動き始める。
どうやら窓からの侵入は諦めたようだ。
ぐるぐると内部の様子をうかがうように、足音が二人の周囲を旋回していく。
次は居間の窓か、それとも正面の入口か。
そして、足音はある場所で突然止まった。
「立ち止まった……?」
宮木がそれを言いきる直前に、凄まじい音が室内にこだました。
バキィッ、という木が砕ける音がすると共に、
飛び込んできた太い棒のような物が宮木の鼻先をかすめた。
小屋の壁を突き破って宮木の視界を突如横切ったのは、角材だった。
先端には血がべったりとこびりついていて、すでにそれは乾燥しているようだった。
奥村が突きのばした角材は、老朽化した薄い小屋の木製の壁を突き破り、こぶし大の穴をあけていた。
そして宮木の目の前に突き伸ばされた角材はするすると外へと戻っていき、ぽっかりと開いた穴から外の夕暮れの明かりが射しこんできた。
それを遮って、奥村が顔をのぞかせた。
「邪魔するぞ、宮木ぃいいいッッ!!」
奥村は血走った目で戦慄に身を硬直させている二人に向け、口から唾液を漏らしながら濁った声で言った。
この瞬間、宮木が構想していた計画は崩壊していた。
進入口は三つ。
従って防御も三か所。
山小屋を砦のようにして立てこもり、
建造物の内部にいることを利用して奥村を牽制、できれば撃退して朝を待つ。
この小さな古びた山小屋はとても朝までもちそうになかったし、進入口は奥村次第で無限に作られそうだった。
奥村が穴から覗かせていた顔を離すと、すぐに二撃目が来た。
壁を構成している木の板が悲鳴をあげてきしみ、砕ける。
血塗られた角材の先端が、槍のように壁を突き破り、
はじめはこぶしのような大きさだった穴が、どんどん広がっていく。
この間、二人は呆然とそれを眺めていた。
思考が、止まる。
やがて、陽子が何かに気がついたように立ち上がり、窓へと駆け寄った。
そして、窓を塞いでいたバリケードの一部、
木製のテーブルの端を手で持ち、動かそうとしている。
──そうだ。
宮木もようやく我に返り、陽子に手を貸してその大きなテーブルを動かす。
そしてそれを倒し、広げられつつある壁の穴に自身の体ごと押し付ける。
すぐに凄まじい衝撃が背中を襲った。
テーブルを突き続けるガツン、という硬い音と、
脳震盪を起こしそうなほどの振動が、何度も何度もやってきた。
が、突き出された角材は老朽化した小屋の壁を突き破ることは出来ても、
この分厚い樫で出来たテーブルを突き破る事はできなかった。
奥村のうなり声が聞こえる。
しかし、二人は夢中でテーブルを背で押して穴を塞ぎ続けた。
「ちっ」
という舌打ちが外で聞こえると、やがて背を襲う打撃がやんだ。
奥村の荒い吐息と、地面を踏みしめる音が遠ざかっていく。
室内の二人はその音を眺めるように、壁越しに目線を送っていた。
この程度で諦めるはずがない。
二人ははっきりとそう確信していた。
それはすぐに証明された。
次に奥村が狙ってきたのは、入口──山小屋の正面入り口のドアだった。
大きな音と共にドアが激しく軋む。
ドスン、という音を立てて何かがぶつかる音が響き、
衣服の擦れる音、肉食獣のように湿った荒い息使いが隙間から室内に流れ込む。
入口のドアを破ろうとしている。
奥村は全身を使った体当たりを、規則的な間隔でドアに向かって放っていた。
奥村の巨体が勢いに乗って叩きつけられる。
その度に、老朽化した木製のドアは悲鳴をあげた。
少しずつ、奥村の体が衝突する鈍く重い音に、
バキッという木が砕ける音が混じり始める。
宮木と陽子は、一番もろく侵入されやすい屋内の窓に重点を置いてバリケードを設置していた。
バリケードは外部からの侵入者から二人を守るが、同時に彼らのいざという時の逃走路も塞いでいた。
そのため入口のドアが破られ、そこを背に奥村に立たれれば室内の二人に逃げる道は無くなる。
完全に追い詰められた格好になってしまう。
が、宮木はこのドアが破られるのを待っていた。
それも、できるだけ勢いよく。
ドアには宮木が施した細工があった。
もし破られた場合に、相手を撃退するための罠が。
それは現状の宮木らに与えられた最大の破壊力を持つ仕掛けだった。
部屋の内部。
入口のすぐそばの壁、その上方に簡易式カセットコンロから取り外したガスボンベが備え付けられている。
筒状のガスボンベの表面は、片面をよく叩かれて平らにされていた。
そして、ドアの内側の上部には小屋内で手に入れた釘が三本、束ねて取り付けてある。
最後に、ドアノブにはビニール紐が巻きつけられており、その紐の先にはライターが仕掛けられていた。
「──来い。燃やしてやる。来い」
宮木はこの小さな砦の門に仕掛けられた罠を見つめ、つぶやいた。
その罠は一度きりしか使えず、しかも発動してしまったならば立て篭もる宮木と陽子にも危険が及ぶ可能性のあるものだった。
だからそれは二人に残された一か八かの賭けであり、最後の手段だった。
ひときわ激しい音が起こり、ドアが断末魔の悲鳴をあげて傾く。
ドアに施錠された鍵は、すでにひしゃげて変形している。
その一方的な暴力によって生みだされた隙間から、
夕陽の暖かい光と、奥村の歪んだ狂相がのぞいた。
「楽しそうじゃないか、宮木。俺も混ぜてくれよ」
そう言って、奥村は大きく息を吸い込み、
渾身の力を込めて、崩れかけた城門へ最後の破壊槌を打ちこんだ。
ガァン、という音とともに、ついに城門は開け放たれた。
開け放たれた力をそのまま利用し、ドアの上部に備え付けられた三本の釘が、
長槍を構えた歩兵の槍衾のように、壁に設置されたガスボンベに襲いかかる。
釘の束は、平面にされたボンベの腹を、深々と貫いた。
ガスボンベは、まるで血を吐き出すように、その内容物を勢いよく噴き出し始めた。
同時に、ドアノブから壁に向かって直線に張られたビニール紐が、
釘と同じ勢いを借りて折れ、
ガスボンベの真下に設置されたライターの着火スイッチを、押し込む──
押し込まなかった。
ドアと共に勢いよく折れる張りつめたビニール紐は、
その折点にあるライターの着火スイッチの表面をわずかにこすっただけで、むなしく通り過ぎた。
「ウーン? なんだ? 宮木、その顔は。何かがっかりするようなことでもあったのか?」
奥村はにたにたと笑いながら、血ぬられた角材を片手に部屋の明かりのスイッチを点けた。
天井に備え付けられた照明が、暖かみを帯びた優しい光で二人の絶望に満ちた表情を照らし出した。
「うん? この臭い、なんだ?」
室内に踏み込んだ奥村が、ドアの裏へと顔をのぞかせる。
「ガスか──」
「うわああああッッ!!」
突如、宮木がそばに落ちていた的場のカメラを手に取り、叫んだ。
そして、それを明々とした天井の照明──その電球へ目掛けて投げつけた。
空中へ勢いよく投げだされたカメラは、その電球を粉々に吹き飛ばした。
「伏せろ!陽子ちゃん!」
そう言って宮木が陽子に覆いかぶさった。
電球が割られると同時に、弾けるように一筋の火花が散った。
刹那、奥村は自身の顔に、熱と光を感じた気がした。
それの正体を認識しようと顔を振った瞬間、目の前に爆音と共に襲いかかる火を見た。
奥村が獣のような声をあげて叫ぶ。
そして顔面と左半身を炎に包まれながら、自身がやってきたドアから外へと転げ出た。
釘の束の刺突によってボンベから吐き出されたガスは、電球の破壊される火花によって引火し、付近にいた奥村の半身を一瞬で炎に包んでいた。
が、火をつけるタイミングがやや遅かった。
そのため、ガスが予想よりも部屋に広がり、
陽子にかぶさる宮木の後頭部を炎が薙ぎ、わずかに焼いた。
宮木は半ば放心した状態で、陽子を見おろしている。
陽子が彼を見上げると、彼の頭髪に火が移っているのが見えた。
「……宮木君!あ、頭!」
その声でようやく宮木は自身の髪を焦がしているものに気がついた。
「う……うわっ」
宮木は慌てて手を振りまわし、火を消す。
そして、入口を見た。
山小屋の外で奥村の凄まじい絶叫が続いている。
──撃退したはずだ。少なくとも人間ならばこれで戦意を保てるはずがない。
これでもしダメなら。これでもダメならば、もう──。
宮木はドアの外の様子を高鳴る鼓動を抑えきれずに見つめていた。
突如発生した火炎は、木で造られた山小屋に燃え移り、ドアの周辺を焦がし始めていた。
「──消さないと!」
陽子が上着のジャケットのボタンを外し、ドアに駆け寄る。
そしてドアを焦がす炎にジャケットをかぶせようと、腕をあげた。
陽子がその動作を途中で止めた。
そして、ゆっくりと後ずさる。
その陽子の背を、宮木は見ていた。
嫌な予感がしていた。
宮木はそれを否定したい衝動に駆られていたが、無情にもそれは不可能な望みだった。
やがて後ずさる陽子の向こうに、ゆらりと人影を見た。
「み……やき……ッ貴様アアア!」
荒い息をつきながら、殺意を顔中いっぱいにたたえた奥村が、ゆっくりと姿を現した。
奥村の頭部全体と、左半身はもはや正視できないほどに焼けただれていた。
頭髪などはほとんど完全に炎の熱によって焦げ、室内に異臭を放ち始めている。
赤黒く焼けただれた皮膚と対照的に、剥きだされた白い歯と、
狂気に染まった目が、彼の顔に浮かびあがるように見えた。
「陽子ちゃんッ! 俺の後ろに下がって!」
宮木は汗ばむ右手でサバイバルナイフを握りしめ、陽子に促す。
武器はもうこのナイフ一本しか残されていない。
「……うん」
陽子は正面の奥村から目を離さずに、ゆっくりと後退した。
夕陽の光が射しこむ屋内で、再び宮木が奥村と対峙する。
……ダメージは与えているはずだ。
宮木は明らかに常態とは異なる人間を目の前にして、そう思った。
いくら薬物によって異常分泌されたアドレナリンが彼の身体能力と攻撃性を強化し、
痛みを鈍化させていたとしても、与えられる肉体へのダメージは変わらないはずだった。
それに奥村の手には、すでに角材は無い。
……やれるはずだ。やってやる。倒す。奥村を、倒す。
宮木は全神経を自身の目の前に立つ男へと集中させていった。
もはや撃退などど言っていられる余裕は無い。
──殺さなければ。
目の前で自分たちに執拗に殺意を向けてくる相手の息の根を止めない限り、自分たちは生き残れない。
宮木の中には覚悟ができあがっていた。
鼓動が高鳴っていく。
生ぬるい汗が額を伝う。
奥村が間合いに入った。
宮木は瞬時に足を踏み込み、右手に握ったナイフを、
奥村の左胸めがけて突き出した。
刹那、視界がぐるんと回転した。
まるで高速で通り過ぎていく電車を目で追うように視界が転回し、
彼の両目はバリケードで塞がれた窓を見ていた。
「?」
と、感じた瞬間に後頭部へ凄まじい痛撃がやってきた。
──何が起こった?
宮木が放った一撃はかわされ、奥村の左手が宮木の首を捉え、
そのまま彼を壁に叩きつけていた。
その素早い攻撃に、宮木は自身の状態を自覚することすらできず直撃を受けていた。
「……ガ…ハッ……!」
鋭い痛みと首を締め付ける力が宮木を襲った。
奥村の放つ肉の焦げる異臭が宮木の鼻をつく。
ナイフを持って突き出した宮木の腕は奥村にかわされ、
カウンターをもらう形で首を掴まれてそのまま壁に叩きつけられたのだった。
「宮木君!」
陽子が悲鳴をあげたのが聞こえた。
首を絞めつける力が強くなっていく。
──反撃。すぐに、反撃しないと……!
宮木は右手に握られたナイフを、
自身の首を絞めつけている奥村の腕へと、突き刺そうとした。
が、宮木の拳はコツンと奥村の腕を叩いただけだった。
ナイフは、先ほどの衝撃でどこかに行ってしまっていた。
──ナイフ……!ナイフ。ナイ…フ……ッ!
必死で手を暴れさせ辺りを探るが、その手はむなしく空を切った。
必死で手を暴れさせ辺りを探るが、その手はむなしく空を切った。
手足をいくらばたつかせても、奥村は圧倒的な力で宮木の首を絞めつけていった。
「……ッ!」
意識がぼんやりとし始める。
口の中が渇き、目の前の視界がぼやけていく。
──ダメか……畜生……。
そのぼやけた視界に黒いものが横切った。
陽子だった。
「離せ!…このッ!」
そう陽子の叫び声が聞こえた瞬間、首を絞めつけていた力が緩んだ。
ふと視線を投げると、奥村の腹に、深々とサバイバルナイフが突き刺さっていた。
「ぐああああああッ!」
奥村の絶叫がこだまする。
振り払われた奥村の左腕が、陽子の顔面を薙ぎ払う。
「あッ!」という短い悲鳴をあげて、陽子は吹き飛ばされた。
「……お……まえ、は、あとだ……」
奥村が口から湿った息を吐き出しながら言った。
再び陽子が立ち上がり、奥村へと体当たりを放った。
が、奥村は太い腕は、
彼女のその小さな身体を軽々と押さえ、はじき返した。
「いいから……おとなしくしてろ。……な?」
奥村の巨体に対し、陽子の体当たりなど子どものじゃれつきのようなものだった。
宮木はこの隙をついて反撃しなければ、と思った。
が、立ち上がろうとした自身の両脚は、
酔っ払いのそれのようにふらつき、再び床に尻もちをつかせた。
「に……げろ……陽子ちゃん」
宮木は朦朧とする意識の中、陽子に向かって言った。
自分たちの籠城は失敗した。
城門はすでに破壊され、仕掛けた罠をもってしても敵を撃退できず、
最後に放った武器もとどめを刺すには至らなかった。
あとはこの小さな砦には、武器を持たない怪我を負った人間が二人いるだけだった。
そして、目の前には理性を失った手負いの巨獣。
──だからせめて、陽子だけでも。
宮木の思考はすでに戦うことから、彼女を逃がすことへと移っていた。
「逃げろ……陽子ちゃん」
宮木が絞り出した声に、陽子はふるふると首を横に振って拒絶を示した。
「だめだ……逃げなきゃ……」
そのつぶやきに、陽子は目に涙を浮かべて再び首を振る。
「逃がさんぞ……お前も」
奥村が陽子へと注意を向けた。
「……こっちだッ!」
宮木は奥村の注意を引こうと叫んだ。
そして、ふらふらと立ち上がり、闘う姿勢を見せる。
「まず俺からなんだろう? かかってこい!」
そう力の限り叫んだ宮木を、奥村はにやりと笑って振りかえった。
そして自らの腹に突き刺さったナイフを、ふんっと気合いを入れて抜き去ると、それを部屋の奥へ向かって放り投げた。
血の流れだす自らの腹をポンポンと軽く叩き、奥村は言った。
「……さすがじゃないか、宮木。そのガッツだ。
そういう気持ちは、とても大切なものなんだぞ。
この世界でやっていくためにはなッ!」
奥村がそれを言い切る前に、その巨体が一つの大きな黒い塊のようにして宮木に向けて突進させてきた。
ほとんど一瞬で奥村の巨獣のような大きな体は、宮木の目の前までやってきていた。
「闘う」といっても、すでに宮木には自らの拳しか残されていなかった。
その最後の武器を振り上げた時、奥村の突進はすでに宮木の懐にまで達していた。
次の瞬間には宙を見上げて倒され、奥村が宮木の体に圧し掛かっていた。
宮木は再び拳を振り上げ、奥村の肩や顔を、力の限り殴った。
が、渾身の力を込めたはずのその拳は、
奥村の体をこつんこつん、と叩いただけだった。
「なんだ……宮木。何か不満でもあるのか」
そう赤黒い顔に白く光らせた目を向けて、奥村は言った。
「ハッハ……ハハハ、宮木、残念だったな。ハハハハハッ」
「逃げろおおおおおッッッ!!!」
宮木が力の限り声を絞り上げて叫んだ。
「……ごめん、ごめんね。宮木君。ごめんね」
そう言って、陽子が涙を顔いっぱいにたたえながら足を引きずって森へ消えていくのを、宮木は見た。
宮木は、ほっと安堵のため息をついた。
それを奥村の歪んだ狂相が遮った。
奥村の巨木のような両腕が宮木の細首にかけられ、力が込められる。
──確かに始末書どころじゃすまないだろうなぁ。
次第に濁ってゆく意識の中で、彼はこのロケが終わって局へ帰ったあとの事を考えていた。
──本当に、ADというのは、貧乏くじばかり引かされるなぁ。
……田舎に帰って、職を探しなおそうか。
最期にそう思って、
宮木の意識は暗闇の中へと自らの故郷を探しに向かって、消えた。