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『天国への招待状』


急な斜面に足をとられないよう、慎重に降りる。

生い茂った雑草、あるいは乾いた土が自身を踏みしだこうとする足を滑らせる。



ときおり宮木が後ろの陽子を振り返り、「大丈夫?」と手を貸してきた。


「ありがとう」と答え、陽子はその手を握り、ゆっくりと一歩ずつ足を斜面の下へと動かしていく。



陽は、すでに傾きかけていた。

上空の木々の枝葉からこぼれる太陽の光は、茜色を含み周囲の色彩を変え始めている。



洞窟の天井から這いだし辺りを見回すと、ちょうど高地の上から周囲を見下ろすような格好になった。


周囲を眺め回すと、やや離れた場所に山小屋の姿が見えた。


──ベースキャンプだ。


「あそこにまでいけば、田辺くんと他のみんながいるかもしれないね」


宮木は目標を再確認するように陽子へ向かってささやいた。


それに対して陽子も頷く。

ここから見える限りでは、ベースキャンプは来た時と同じままの姿でそこに建っている。



背丈の高い雑草を両手で振りはらいつつ、二人はベースキャンプを目指し進んだ。


陽子も宮木もまだこの南木曾山に到着して半日を少し過ぎた程度だというのに、重い疲労感を感じ始めていた。


とにかくどこか安全名場所で、一度休みたい。


それに考えをまとめる時間がほしい。


だから今はあの古びた山小屋でも、休息と思考をまとめる為には十分役に立ちそうだった。



ようやく斜面を降りきりると、今度は平坦な獣道を歩くことになった。

歩く度に伸びた植物の先端が二人の肌の露出部分を刺激してくる。


最初こそそれは不快感を毎回感じさせるものだったが、今となっては些細な事に感じられた。



宮木がしばしば腰に装着したトランシーバーのPTTスイッチを入れ、呼びかける。


「もしもし、宮木です。誰か聞こえますか? 田辺、聞こえているか?」



山小屋にいるはずの田辺がこの通信に気づくことを期待していた。


しかし、田辺はもちろん誰からも応答はなかった。


はぁ、と宮木が深々と嘆息を吐く。


トランシーバーから発せられる無線の伝達を妨害する、この密生した樹木たちが呪わしく思えた。


やがてその木々も数を減らし、その隙間から人工的に作られた建造物が見えてきた。



「着いた、山小屋だ」


と、宮木が顔に安堵の表情を見せて言った。


結局、ここにたどり着くまで誰にも連絡がつかなかった。


何度も呼びかけたのに誰からの応答がないという事は、この山小屋の中にも実は誰もいないのではないかという不安が二人に芽生えていた。


だとすれば、この山小屋で待機を命じられていた田辺はどこへ行ったのだろう。



二人は山小屋の周囲に立ち、外から中の様子をうかがった。


窓から内部をのぞきこむ。


人の気配はない。


ただし、内部は相当に荒れた様子であった。


その様子に陽子と宮木の間に緊張が走る。


「……何かあったのかもしれないね」


陽子が言葉に出して言った。


「うん……気をつけて中を見てみよう」



ドアを開け山小屋の内部へ慎重に足を踏み入れると、二人の目にまず飛び込んできたのは、部屋の奥にある半壊した別室への扉だった。


何かで突き破られたように、ところどころに穴が開いている。


一際大きな穴からは、別室の内部までが覗いて見えた。


「なんだろう、この臭い」


と、宮木は言ってみたものの、それが血生臭さだということをはっきりと感じていた。


別室のドアに開いた穴から生臭い嫌な臭いが流れ出てきている。


その臭いの発生源を確かめるべく、宮木が別室へと向かって行った。



宮木はドアに乱暴に開いた穴から顔を覗かせて内部の様子を探る。


そしてすぐに陽子の方を青ざめた顔で振り返り、「来ない方がいい」と首を振った。


陽子は宮木の制止を聞かずに中を覗いた。

臭いの発生源が“何から発生しているのか”ある程度予測できていたためだった。


そして心配していたことが的中してしまった。



別室の内部を見た陽子の目の前に広がっていたのは、思わず胃液がこみ上げてくるような光景だった。



田辺の死体はすでに血が乾燥し始めていた。

うつ伏せに倒れているため表情が見えないのが幸いだった。


「田辺くん、そんな……」


「……誰が田辺を殺したんだ」


相沢が先回りしてここにやって来たのだろうか。

だとすればここも危険かもしれない。


しかし周囲に他者の気配はまるで感じられなかった。

田辺を殺した犯人はどうやら他へ移動したらしい。



陽子の足に何かが触れた。


田辺が持っていたICレコーダーが落ちていた。


「陽子ちゃん、こっち」


と宮木が背後から手招いたので、陽子は心の中で田辺の遺体へ黙とうを捧げ、別室の扉をしめた。



「的場さんと久保谷さんがいたらしい」


宮木は室内に無造作に置かれている的場と久保谷のリュックを指差した。



「どうして置いたままに……?」


陽子が疑問に思い、辺りを見回す。


室内で争った形跡がある。

壁には大きく掘られたような傷がついているし、よく見れば血痕が床を点々としていた。



二人の間で何かあったのだろうか。

あるいは、別の第三者に襲われたのか。


とにかく、何か怖ろしい事がここで起こり、

荷物を手に取る余裕もなかったのだろうということは、推測できた。



的場の持っていたカメラが、落ちていた。

陽子はしゃがみこみ、それを手に取った。


中にはDVテープがセットされたままになっていた。

テープは市販されているごく普通の物で、

画質は業務用の物には及ばないが携帯性が高く価格も安いため、このようなロケでは使用されることが多い。


陽子はそのテープを、カメラの再生機能を使って再生させてみた。


カメラに備え付けられた小型のモニターに、森を進む撮影隊一行が映し出される。


今回のロケの概要をカメラに向かって説明している自分の姿と、怯える坂田、そして神妙な面持ちで歩く道明寺が写されていた。


やがて洞窟にたどり着き、相沢が突如として道明寺に襲いかかってきて、辺りがパニックに陥った場面で映像は途切れていた。



──カメラマンである彼がこれを置いていくとは、

よほどの事が起こったに違いない。


カメラマンという職業にある人間が持つ独特の価値観という物を陽子は理解しているつもりだった。


それがここに置かれたままになっているということは、的場の身によほどの危険な出来事が起こったということだった。


陽子は彼の身に起こった出来事を想像したが、自信の持てる回答は浮かばなかった。


──相沢か、あるいは他の第三者か。


それは田辺を殺した人間と同一の人間なのだろうか……。



「おにぎりあるけど」


と、宮木が部屋にあるダンボールの中から、

おにぎりを二つ取り出して、陽子に見せた。



「……そんな気分じゃないよね」


宮木はそう言って、陽子の返事を待たずにそれを再びダンボールの中へと放り投げた。



腹は確かに空いていた。

しかし、隣の部屋に死体があることを思うと、とてもそのような気分にはなれなかった。


二人は山小屋の中で並んでしゃがみこみ、「はぁ」と溜息をついた。


急に身体から力が抜けていった。

今まで、暗闇の中をおびえながら逃げてきた自分たちに対して、

この小さな人工的な建造物がもたらす安堵感のせいだろう。


が、部屋の様子からここも安全ではなさそうだった。


それでも陽子と宮木にはここからすぐに移動しようという気が起らなかった。


それほどに疲労感が増してきていた。


動けない、というほどでは無かったが、一度どこかで息をつきたいという欲求が耐えられないほどに二人に込みあがってきていた。

その点この場所は、ある程度の安心感を得ることができていた。


別室の様子をできるだけ考えないようにすれば、周囲が人工的な建造物に囲まれているというだけで安心感を得ることができた。


この深い森の中に取り残されたように建っている山小屋の中で、

できるだけ周囲の状況に目を向けないようにして、二人は言葉を交わし始めた。


それは例えばテレビ局へ入社試験を受けた際の思い出とか、新人の頃の厳しい研修、職場の奇妙な人物の話。


できるだけ今自分たちが置かれている状況を忘れられるような会話をしたかった。



陽子は思わず、ふふっと笑った。


“現在の状況を忘れられる話“といっても、二人の共通の話題といえば仕事の、つまりテレビの話しかないのだと気がついたからだ。



「そう言えば陽子ちゃんの私服姿、見たことないや」


宮木も同様のことを感じていたらしい、話題を変えてきた。


確かに、アナウンサーである陽子は普段からスーツで勤務しており、

私服で宮木と会ったことは無かった。


それ以前に、宮木とは仕事以外で会ったことが無かった。



「あら、私だって、色々お洒落するのよ。宮木君はいつも同じ格好ね」


そう言って、陽子は多分に諧謔味を含んだ顔を宮木に向けた。


宮木はといえば、入社式でスーツを着たのが最後で、

それからずっと動きやすいカジュアルな服装で勤務している。


ADとしては、Tシャツやジーパンなどといった服装が正装といえた。


それはチーフADに昇進した現在でも変わらないし、

おそらくディレクターに昇進しても変わらないだろう。


だから宮木の服装は陽子の目から見れば、「いつも同じ格好」になってしまうのだった。



宮木は入社式以来、自分が経験してきた様々な「悲劇」を語り始めた。


例えば、実に十日間も風呂に入れず、髭も剃れず、ホームレス同然の恰好でロケを行った話。


撮影場所に予定されていた公園が、実は深夜に暴走族の集会所になっており、

びくびくしながら彼らへ「お願い」をしに行った話。


それらは本人にとって悲劇ではあったが、聞く者にとっては喜劇といえた。

宮木はわざとそういう話を選んで陽子に話していた。


宮木の思惑通り陽子が笑い声で相槌をうった。



「結局」


と、宮木は話に一息つきながら、



「仕事の話しかないや」


そう言って頭をぽりぽりとかいた。



「でもできれば……」


と言葉の調子を変えて、


「仕事以外の話も、これからはできるようになりたいな。陽子ちゃんと」


そう言って、彼は眉をちょっと上にあげて笑った。



彼なりに自分を気遣ってくれているのだろう。

陽子はそれに対して微笑みで返し、「そうだね」と頷いた。



隣の部屋で眠っている田辺には申し訳なかったが、少し気分が落ち着いてきた。

たわいもない話のおかげで、この一時だけ陽子は現実を忘れることができた。

それは宮木も同様のようだった。



できればこのままこうしていたいが、そうもいかない。

陽子は再び現実へと思考を向け始めた。


今日一日で、様々な事が一度に起きた。

半藤は、無事だろうか。

他のメンバーたちは今どうしているのか。

そして、「正常」なのだろうか。


そもそも、なぜ、撮影クルーたちは豹変してしまったのだろうか。



「アヘンだよ」


半藤の言った言葉が、陽子の脳裏に浮かんだ。


──アヘン。


その実物を、陽子は見たことがあった。


学生時代の多くの海外渡航経験は、陽子に様々な知識と情景をもたらした。

その中で多くの人間が、薬物に身を任せている光景を目にしてきた。



貧困の中に身を置かねばならない彼らにとって、

「快楽」とは性交と、薬物による夢想の世界への逃避に他ならなかった。


そして人は貧しくあるほど快楽なしには生きられない存在なのだということも陽子は学んでいた。

それは経済的な意味でも、精神的な意味でも。


自然、陽子の中にも海外を知るうちに薬物に関する知識が、断片的にではあるが身についていった。




──薬物。


跳ね起きるように陽子は身を起こした。



「ど、どうしたの」


宮木が心配そうに声をかける。


しかし陽子は宮木に構わず、自分のスラックスのポケットへと手を入れてまさぐっている。


ボールペンが音を立てて床に転がった。


続いてハンカチが宙を舞った。


「あった……」


そう言って、陽子が何かをポケットから摘みだした。



一粒の白い錠剤だった。


「それは、坂田さんの胃薬じゃないか」


「違うの」


何が違うんだ、という顔をしている宮木をよそに、

陽子は手に取った錠剤を包む包装を破り、中身を取り出してそれを裏返してみた。



錠剤に文字は何も書かれていない。


が、代わりに一つの模様が描かれている。



「なんだい、それは」


宮木がそれを覗き込む。


白い錠剤の裏側には、小さく、天使の羽のような模様が描かれていた。


「やっぱり……」


陽子の中に確信めいた思いが広がっていった。




自分はこれを知っている。

南米へ渡航した際の話だ。


コロンビアにある小さな村落を訪れた時、小さな小屋の周りに人だかりができているのを見かけた。


それを興味深げに眺めている陽子に、現地で雇ったガイド兼ボディガードの男が言った。


「あれは、自殺者が出たんですよ」


貧困のせいだろうか、と陽子は思ったが、それにしても不自然なほどの人だかりの多さだった。


その点をガイドの男に聞くと、彼は、


「“招待状“を使ったんですよ。それを使って自殺したんです。

あれを使うと本人は楽に死ねるけど、遺体はひどいことになるからね。

だから招待状を使った自殺者がでるとああやって見物人がたくさん出来るんですよ」


と、ガイドの男は「大した事じゃないよ」とでも言いたげな口調で陽子に説明した。


陽子はその“招待状”というものについて、詳しくガイドの男に尋ねた。


しかしガイドの男は首を振って、「それが麻薬だということしか知らない」と言うため、好奇心を刺激された陽子は現地でその“招待状”と呼ばれる麻薬について調べ始めた。


現地人の証言や書物を調べた結果、このような事がわかった。


“招待状”とは、正確には現地の言葉で、『天国への招待状』と呼ばれる麻薬だった。


この薬物のルーツは長く、十一世紀末ごろから南米一帯に栄えたインカ文明の中で、

戦士たちが決闘の際に用いた一種の興奮薬が原型になっている。


「ヤヒナ」と呼ばれるシダのような植物が春に作る種子を粉末にした物と、

「ムアルカ」という広葉樹の樹液を配合させ、それを乾燥することで精製できる。


これを基に現代において作り直された物が、

先に述べた「天国への招待状」と呼ばれる麻薬である。


かつて闘争用の興奮剤の一種だったこの麻薬は、現代は主に“自殺用”として用いられている。


この「招待状」は、体内に入ると通常一時間から三時間ほどかけて体内の血流に乗る。

そして脳へ到達すると、脳下垂体を強烈に刺激してアドレナリンの異常分泌を促す。


さらに、それら異常分泌されたアドレナリンが再び体内の血流にのって全身に回り、

理性を司る脳の前頭葉の機能を麻痺させる。


結果、興奮状態に陥り、破壊衝動と攻撃性が異常に強化され、アドレナリンの大量放出によって痛みに対する反応も鈍くなる。


だからかつては決闘の際の興奮薬として使用されていた。


しかし先にも述べたとおり、現在では自殺用として用いられている。






この「天国への招待状」は、

別名、「ノシベの友人」とも呼ばれていた。


これには由来がある。


ある日、ノシベという男が経営していた会社が倒産した。

彼はそれを苦に自殺を図ろうとしたが、何度もためらい、結局未遂に終わった。


そのため、彼は自宅の一室で自身の胴体を椅子に厳重に縛り付けて、右手にナイフを握りしめ、

そして神に祈りを捧げた。


やがてそれが済むと、白い一粒の錠剤を自らの胃に流し込んだ。

彼が飲み込んだのは、「天国への招待状」だった。



翌日、毎日彼の自宅へとやって来る郵便配達員が、ノシベの遺体を発見した。


彼は、自らの手に持ったナイフで椅子に縛り付けられた胴体や顔、そして首をめった刺しにして絶命していた。


それは凄まじい光景で、訪れた郵便配達員はあまりのショックで悲鳴をあげて逃げ出し、自身が目撃したものを町の人間に大声で騒いで回った。


ノシベの体は間違いなく自身の手によって破壊されていた。

その様子は“壊し尽くした”と言ってもよいくらいの凄惨さで、配達員は恐る恐る近づいてノシベが普段愛用しているアメジストの指輪が死体の左手の指にはめられているのに気づくまで、それがノシベだとわからなかったほどだった。


薬物の効果によって異常に表面化した破壊衝動が、

物理的な拘束によって外部に発散させることができず、ついに自分の身体へと向けられたのだった。


そしてその衝動は一度自身へと向けられると、完全に絶命するか、もしくは凶器を持った手の神経が完全に分断されて“できなくなるか”するまで止まることは無い。


薬物の効果はいずれ切れる。

しかし効果が切れるまで生存していた“自殺志願者”は陽子が聞いた限りでは存在しなかった。


極度に放出されたアドレナリンによって痛みは少なかったのだろう、

椅子に縛られて座ったままのノシベの表情は、放心したような状態だったらしい。


彼は、彼の会社が倒産したことで、多くの部下と友人、そして妻を失った。

皆、全てを失った彼を疫病神のように扱い、遠ざかって行っていた。


だから、孤独の身となった彼の自殺を助け、彼の願いを叶えたこの白い錠剤に「ノシベの友人」という俗名がついた。


以来この白い錠剤は、自殺志願者のまさに「最後の友人」として、南米を中心に密かに流通していた。


そして、その白い錠剤の背面には、天使の羽の模様が描かれている。



ということが現地で陽子が取材して分かったことだった。




「大丈夫? 陽子ちゃん」


宮木が陽子の肩を軽く叩く。



「もしかしたら──」


と、陽子は自分の中に浮かんだ考えを彼に説明した。



「……だとしたら」


と、宮木が口を開く。



「そんなものがここにあったとして、それに侵された人間が薬物のせいで人を殺したのなら」




──どうやって、体内に入ったのだろう。


当然の疑問だった。




──食料。



自分たちが、ここに来て口にしたもの。


例えば弁当、おにぎり、ペットボトルの飲料水。




──ペットボトル。


陽子は這うようにして、目の前に転がっている二つのリュックサックを手元にたぐり寄せた。



的場と久保谷のものだった。


まず、的場のリュックから彼のペットボトル飲料を取り出した。


陽子は、まだ中身の残るそれを逆さまにすると、力を込めて握りしめた。


ポリエチレンでできたその柔らかい五百ミリリットル容量のペットボトルは、

ぼこん、という音を立てて外部から加えられた圧力に逆らった。


当然だった。

ペットボトルのキャップはきちんと閉められているのだから。




「何をしてるんだ? 陽子ちゃん」



宮木はわけがわからないという様子で、陽子を眺めている。


陽子はそれを無視して、今度は久保谷のリュックサックからまだ中身がわずかに残るペットボトルを取り出した。


取り出すと、的場の物と同様に、逆さまにして握りしめた。

その様子を二人は凝視する。





圧力が加えられたペットボトルの外面に、一粒の雫ができた。


陽子がさらに力を込めると、その雫はさらに大きくなり、

やがて細い線を吐き出すように放物線を描いて、

そのボトルの内容物を放出しはじめた。



「これだ……」


「まさか」


宮木もようやく感づいた様子だった。



「薬物は、みんなの飲み物の中に仕込まれていたの」


「でも、的場さんの物には入っていないじゃないか」


「たぶん、用意された飲み物の内、薬物が仕込まれた物とそうでない物がある…」


そう陽子が言い終わると、宮木と目が合った。


ほとんど同時にそれぞれのカバンやウェストポーチから、自分のペットボトルを取り出す。


そしてお互いに目の前でそれを握りしめた。




ペットボトルは、二つともぼこんという音を立てただけで、変化は無かった。


二人がほっと胸をなでおろした。




──撮影スタッフたちの豹変が薬物のせいであるとするならば、誰が仕組んだのだろうか。





ゲッティ―坂田。


陽子の脳裏にまずあの貧相な小男の顔が浮かんだ。


なぜなら、今彼女の手元にある白い天使の羽の描かれた錠剤は、

彼の自前の衣装から見つかったものだからだ。



だけど、どうやって?


出演者である彼が、どうやって撮影スタッフ全員分の中から、

その中の一部にだけ薬物を仕込むことができたのだろうか。


それが最も可能なのは──。




田辺だ。


田辺はADとして、今回のロケに必要な食料のすべての発注と管理、運搬を任されている。


陽子の胸中にダンボールをせわしなくロケバスへと運びこむ田辺の姿が浮かんだ。


彼なら、可能だ。


しかし、彼は隣の部屋で後頭部にできた割れ目から血を噴き出して死んでいる。


彼が犯人なのだとしたら集団無理心中でも企まない限り、動機がわからない。



ではいったい誰が、そして何のために。


そう、何のためにこのような事をするのだろうか。


恨みを買うような人間なら、この撮影隊にはいくらでもいるだろう。


田辺は奥村から日々折檻を受けていたし、主演者の面々には現在に至るまでに後ろめたい過去の一つくらいあるだろう。


奥村自身や他の撮影スタッフも同様だ。

皆非常にストレスの多い環境を経験してきている。


だが、誰が企んだにせよ、あえてこのような方法を取る理由は何なのだろうか。


しかも特定の人物を殺すための犯行としては、薬物を飲料に仕込むという方法は不確実すぎる。




陽子の頭脳は、まるで探偵のような動きをし始めていた。


その思考を遮ったのは宮木だった。


宮木が腰につけたトランシーバーを慌てて取り出した。


受信を知らせるランプがあわただしく点灯していたためだった。


宮木はイヤホンを無線機本体から引き抜いて、その受信が陽子にも聞こえるようにした。






《聞こえるか、誰か、誰かいるか》


男の声だった。



「お、奥村さんですか」


宮木がマイクに向かって受信した音声に答える。



《その声、宮木か? 無事なのか?》


「はい、今のところ……。奥村さんこそ、大丈夫ですか?」


《ああ、何とかな。

くそ、ひどい目にあった。お前、連絡が全く取れなくて大変だったんだぞ》


「いや、そういう意味ではなく、その、身体の調子はどうですか」


《ああ? 何を言ってるんだ。そんなもん、散々に決まってるじゃないか》



「あの、ペットボトル、ありますか?」


《ペットボトル?》


「ええ……最初に田辺がみんなに配った、あれです」


《そんなもんどっか行っちまったよ。

ところでお前、どこにいるんだ》


「いや、その……」


《ああ!? はっきり言えよ、ったく》


奥村の荒い息使いと、森の枝葉を踏みしめる音がスピーカーから聞こえる。


陽子がふと、部屋の隅に転がっているペットボトルの存在に気がついた。


最初にこのベースキャンプにやってきたとき、奥村が捨て去った物だ。




陽子は飛びつくようにしてそれを拾い上げ、力を込めて握りしめた。



《どこにいるんだ、宮木。さっさと山を降りるぞ。

局に戻ったら、反省文なんかじゃ済まないけどな》




陽子によって握りしめられた奥村の空のペットボトルは、

キャップが閉められているにも関わらずブシュっという音を立てて、容器の中を漂う空気を外界へと吐き出した。



それを認めた瞬間、陽子は叫んだ。



「宮木君! だめ! 通信を切って!」


驚いた宮木が陽子の方を向いた瞬間、スピーカーからの声が響いた。





《なんだ、宮木、お前、女連れか?》


《俺たちがこんな大変な目に遭っているっていうのに、

お前は里見ちゃんと楽しんでるわけだ》


宮木がトランシーバーを床に放り出す。

そして床に捨てられた無線機を二人が凝視する。



《どこにいるんだ、宮木。そうか、山小屋だな? 

なるほど、山小屋でお楽しみ中か》


《臆病でデリケートなお前が、堂々とお外でデキるわけないもんな》


まるで独り言のように、奥村は坦々と話し続けている。



《待ってろよ、すぐに行くぞ。

里見ちゃん、楽しみにしててくれよ。パーティは皆で楽しまなくちゃな。クック……》


奥村は低く、卑屈な笑い声をたてた。



《そら、見えてきたぞ。

見えてきた。もうすぐだ。見えてきた》


スピーカーから流れる声が、先ほどよりさらに鮮明に、大きくなった。

本当にこの小屋のすぐ側までやってきているようだった。


宮木はすぐに床のトランシーバーを拾い上げると、電源を落とした。


落とす間際、奥村が言った。




《お前には、本当に期待してたんだけどな》


その言葉は、心底そう思っているかのように、宮木には聞こえた。



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