聖域の正体
静寂と冷気が辺りに満ちている。
何かを落とせばその音は洞窟内に反響し、それはどこまでも響いていくように思われた。
石灰岩で作られた壁と粘土質の赤茶けた地面が、この洞窟を形成している。
さらに山から滲み出してきた雨水がそれらに光沢を持たせていた。
もしかしたらそれは状況によっては人に“奇麗”と思わせるに足る光景なのかもしれない。
だが、現在この洞窟内を出口を求めてさまよう者たちには、そのような感傷に浸っている余裕は与えられていなかった。
陽子は、宮木と半藤とともにこの暗闇をゆっくりと、周囲に耳をひそませながら進んでいた。
脚がまだ痛む。
骨には問題なさそうであったが、よほど強く打ちつけたようだ。
だが、全身にひんやりとした洞窟の冷気にあてられて歩くうち、何とか平静さだけは取り戻しつつあった。
「宮木君、早くここから出て山小屋の田辺君のところまで行きましょう。もしかしたらあそこに皆いるかも」
「うん、とりあえずベースキャンプで今後を考えよう。奥村さんがいてくれたらいいんだけど……」
撮影隊の実質的な指揮官という人物は、ディレクターの奥村だった。
だから、宮木としては早く奥村と合流して指示を仰ぎたかった。
おそらく他の面々も同様に考えているに違いない。
山小屋へ、向かいたい。
──でも、たどり着けるだろうか。
という不安が陽子の頭をよぎる。
洞窟内は、その入り口の狭さとは反比例して広く、そして複雑だった。
現在自分たちが洞窟内のどのあたりにいるのか、まったく見当がつかない。
これは陽子たちにとって、意外な事実だった。
ところが猟師半藤は、「黙ってついてこい」、と言うのである。
半藤は、この洞窟について何かを知っているようだった。
彼は猟銃を両手で抱えて、歩みを進めている。
その足取りは決して軽やかではないが、
まるで動揺を感じさせず、一歩一歩洞窟の地面に足跡を刻んでいる。
現在のところ、最も頼りになる人物は、この少壮の猟師だった。
良く日焼けした顔に、白いものの混じった髭をうかせたこの男が、どっしりと銃を担いで先頭を歩んでいる。
それを陽子と宮木が追う形で、三人は出口を目指していた。
「あれは……何かしら?」
陽子の目が地面に落ちている何かを捉えた。
通路の先、地面に何か鈍く光る物が落ちている。
陽子がそれを摘み上げると、それは暗闇に満ちた洞窟内にはおよそ似つかわしくない、
金色にデコレーションされた派手派手しいジャケットだった。
「これは……坂田さんのだよね」
陽子が宮木の方を振り返り、問いかけた。
「ああ、確かそれはあの人がいつも出演するときに着てる衣裳だよ」
地面に落ちていたものは、坂田の衣装である派手なジャケットだった。
良く見ると、袖が少し破れている。
血が付いていないところをみると、誰かに襲われて破られたのではなく、洞窟内を逃走中に壁に引っ掛けたのだろうか。
よほど慌てていたらしい。
ところどころに土と泥も付着し、彼自慢の衣裳が台無しであった。
陽子は何か使える物が入っていないかと気づき、坂田のジャケットのポケットへと手を入れてまさぐった。
しかし、出てきたのは安物のボールペンが一本と、ハンカチ、そして胃薬のような錠剤が一粒入っていただけだった。
「胃でも悪のかな。あの人らしいね」
宮木がそれを見て、ふっと笑った。
お笑い芸人「ゲッティー坂田」。
ブームの過ぎてからの彼の生活というものは、まさに転落人生そのものだった。
一時期は映画出演の依頼がやってくるほど、彼の人気はあった。
だがやがて風船がはじけるように突然に大衆の彼への興味は薄れ、
風船の中に詰まっていたメディアの中の彼という存在は、どこか知らない場所へと飛散して消えてしまった。
彼自身は若手だったころからいた自らの巣穴、
つまり繁華街の外れにある小さな地下の劇場で、客が飲む酒の「おまけ」として芸をする日々に戻っていた。
この衣裳は、自分が駆け出しのころから愛用しているのだと、陽子は彼から聞いた事があった。
金色のメッキをふんだんに使用した衣裳は、
あまりに使い込まれているため磨り減って輝きを曇らせ、かえって貧乏臭さを主張させていた。
実際のところ、かなりの苦悩があるに違いない。
湿った地下の劇場の明かりは、スタジオの華やかなスポットライトを浴びたあとに戻るには暗すぎたのかもしれない。
坂田は、無事なのだろうか。
陽子は彼の幸薄な顔を思いかべながら、
彼のジャケットから取り出した物を、自分のスラックスのポケットにしまいこんだ。
せめてこれくらいは後で渡してあげようと思っていた。
もちろん、彼が無事であるならば、だが。
三人は再び歩き始めた。
静寂中で三人の足音だけが、洞窟内に等間隔で響いていく。
「ユメガミサマというのはね」
半藤が唐突に口を開いた。
「農業神とか、ましてやあんたらの言う怨霊の住処なんてものじゃないんだよ」
と、あくまで前を向いたまま、半藤は独り言でも呟くかのように言う。
「どういうことですか」
陽子は半藤の背中に向かって尋ねた。
「見てみれば、わかるさ」
そう言って半藤は再び口を閉じて前を向いて歩き始めた。
宮木は半藤が語った言葉の内容に、興味を失っている様子だった。
彼はそっぽを向いて、サバイバルナイフを持った右手を、しばしばくねらせている。
確かにそれどころではない、と陽子も思う。
『落ち武者の怨念』、『ユメガミサマの怪』。
それをカメラにおさめるために自分たちは東京からやってきた。
だが、撮影中の起きた事件ですでに死人が出ている。
もはや仕事の目的の達成など、重要なものではなくなっていた。
──いかに無事にこの事態を外界へ知らせるか。
これが現在の自分たちが共有している唯一の感情だった。
あるいは「事件」ではなく、「事故」なのかもしれない。
という考えが、陽子の中に芽生え始めている。
それは、論理的な思考力を持っているという彼女の自己に対する認識とは対極をなす考え方であり、陽子自身としては到底許容しがたい概念ではあったが、
──ユメガミサマの祟り。
という言葉が、不快な残響のようにいつまでもしつこく頭にこびりついている。
さらに三十分ほど洞窟内を歩いた。
すると通路の曲がり角を過ぎたとき、穏やかな明かりが三人の目に入ってきた。
陽子は一瞬出口に着いたのだと錯覚したが、それは違った。
ひらけた空間が目の前に広がっている。
そして、五メートルほどの高さにある洞窟の天井に、ぽっかりと穴が開いている。
その穴の直径は一メートルにも満たないが、明かりの正体はそこから降り注ぐ太陽の光だった。
わずかに射し込む穏やかな太陽光は、その下に広がる空間を幻想的な印象に仕立て上げている。
あそこから脱出できないだろうか。
天井に開いた小さな穴を見て陽子は考えたが、とても天井まで手が届きそうにはない。
踏み台に出来るような物も無かった。
天井から降り注ぐ光に遮られて、奥に何かの建造物が見える。
その建造物は、「隠れている」と言ってもいいくらいに存在感を示さず、小さくこの空間の最奥にあった。
「あれが、ユメガミサマだよ」
半藤がまったく興味が無さそうに、ぽつりと言った。
この薄明かり差し込む空間の最も奥、その壁に沿って小さな社があった。
それはとても神様などありがたい存在などいそうにも無い、朽ち果てた木で組み立てられたただの造形物だった。
が、それを見た陽子は背筋を冷たい手でなでられるかのような嫌な寒気を感じていた。
この洞窟内に満ちている冷気は、まるでその社から放たれているかのような錯覚を受けた。
しかし、奇妙な感覚は自分だけが感じているようだった。
宮木などは社に一瞥をくれただけで、
天井に開いた穴を物欲しそうに見上げている。
半藤が宮木の前を横切って社にずかずかと近づいていく。
陽子と宮木が半藤の様子を目で追い、そして仰天した。
半藤はいきなりその朽ち果てた「神の住む場所」に向かって思い切り蹴りを入れ始めたのだ。
驚いた陽子が、「何をしているんですか!?」と聞いたが、
半藤は「見ての通りだよ」と答えたまま社を蹴り続けている。
社を構成していた朽ちた材木は、
突然の半藤の暴力によってバリバリという音を立てて折れ、辺りに散らばっていく。
もしここに神がいたのなら、この光景に怒りを通り越して呆れたに違いない。
それほどに突然で、無遠慮だった。
陽子と宮木も半ば呆れてこの様子を眺めていた。
やがて半藤は、無残にも崩れかけた社の中に手を突っ込み、何かを取り出した。
半藤の手に持ち上げられたのは、古びた小さな木箱だった。
その木箱の蓋に半藤は手をかけ、力を込めて開けた。
木箱はいとも簡単に埃を撒き散らして開いた。
そして蓋をぶっきらぼうに投げ捨てると、箱の中から何かを取り出して、手に取った物を陽子らに見せた。
「これが、ご神体さ」
ご神体と呼ばれたものは、どす黒い色をした粘土のような、こぶし大の物体だった。
「何ですか、それは」
陽子が取り出された物を見つめて言った。
どこかで見たことがあるような気がする物だ。
経年のためかすっかり乾燥し、ところどころひび割れている。
インターネットでも見たような気がするし、海外に渡航した際にこれを見かけた事もある気がする。
これは、何だっただろうか──
「アヘンだよ」
半藤はさらりと言ってのけた。
「ここに神様なんていやしないって言っただろう。ここは昔、アヘン窟だったんだ。これは、その当時の残り物さ」
そう言って手に持った黒い物体に半藤は目を落とした。
突然の告白に陽子はもちろん、宮木も驚き、半藤を凝視した。
アヘンとは、古くから使用されてきた薬品である。
その歴史は古く、紀元前から使われてきた。
アルカロイド系の成分を多量に含んでおり、医薬品として扱われた時代もあったが、
中毒性が強く過度の吸引による幻覚作用と、
それによる風紀の退廃に危険を感じて、世界的に法的な禁止令が出された。
そのため、現在では沈静作用による快楽を利用した麻薬という認識の方がはるかに多い。
これの貿易をめぐって勃発した「アヘン戦争」で有名だろう。
現在の日本では、吸引のための道具を所持していただけでも刑罰の対象になる。
それほどに、影響と危険性の強い薬物である。
そしてアヘン窟とは、そういった快楽主義者たちの狂宴の場のことであった。
「この洞窟は──」
と、半藤が鬱病患者のツアーガイドのような重たい口調で語り始めた。
「この洞窟はな、かつてはただの山の中に作られた空洞だったんだ。
その空洞に人が頻繁に出入りし始めたのは、江戸時代の後期のころだったらしい。
山に広がる森の木々に身を隠して、どこかで栽培されたケシの実や樹液を持ち込む人々が現れ始めた。
その連中はこの洞窟をアヘンの精製工場に仕立てあげたのさ。もちろん、自分たち自身が楽しむためにな」
「じゃあユメガミサマっていうのは……」
「だから言ったろ、ここに神様も怨念もいない。カモフラージュさ。山奥に『聖域』を作って外部の人間が寄り付かないようにしたんだよ」
半藤は陽子の問いに答え、自身の記憶をたどるように言葉を話続けた。
「稀に外部から付近にやってきて、この洞窟の存在について興味を示した者がいれば、
ここでアヘンに関わっていた連中はこう言うのさ、『あれは村の大切な農業の神様がいる場所だ』とな。
するとどうなる?
はるばる外の村からやってきて、ここの村人たちが崇める「聖域」へ踏み込んで、
洞窟奥深くの農業神へお参りに行こうなどという酔狂な者はいやしない。
全てはこのアヘン窟にしていた連中の思い通りにいったのさ」
「江戸時代のころ……ですか」
「はっきりとはわからんがね、大体そのころの話だそうだ。
大昔の話なもんで、今じゃ本当にここの社が『農業の神様』だと思ってる連中も付近にはいるがな。
が、実際は昔の犯罪者たちのお楽しみの場だったって事だ。
それもいつから途絶えたのか知らないが、今はこのありさまだがね」
そう言って半藤は洞窟内を見渡した。
破壊された小さな社と、天井から差し込む明かり以外に何も存在しない空間が広がっているだけだった。
確かに今でも人が出入りしている様子は見受けられない。
過去に人がいたのだろうという残骸だけが残っている、
この場所は農業の神様という作られた伝承、聖域、さらに山深くの洞窟のその奥にあるという条件を利用して、
大昔の快楽主義者たちが隠れて狂宴を開くための恰好のカムフラージュとなっていたのだった。
そういう意味で、アヘンに没頭する人々にとってここは確かに「聖域」と言えたのかもしれない。
誰にも邪魔されることもなく、自身の快楽に身を任せることができる場所だったのだから。
「半藤さんはどうしてそんなことを知っているんですか?」
陽子が問いかけると、半藤はにやりと口を歪ませただけで、それっきり黙ってしまった。
長野市内に住むこの少壮の猟師の過去と血統には、もしかしたらこの場所と縁を持っていたのかもしれない。
結局のところ半藤の語る事が事実ならば、ユメガミサマとは大昔の付近の農民たちが作り上げた朽ち果てたカーテンにすぎなかったのだった。
本当にそうだろうか。
という思いが陽子を支配しつつある。
それは半藤や宮木にはどこか恥ずかしさがあって悟られたくない感情だった。
漠然としてはだがこの洞窟へ足を踏み入れてからというもの、陽子は何か不可思議な存在の影を感じている。
が、それは冷静に考えれば辺りに満ちた暗闇のせいかもしれない。
しかし、光の無い世界で、なぜ影が存在するのだろうか。
と、そのような思いの葛藤が陽子の中にあった。
「早く、出口に向かいましょうよ」
宮木が苛立ちを含んだ声をあげる。
彼にとっては、もはやユメガミサマの正体などは大した関心事ではなかった。
早く最初に入ってきた入口──現在ではこの洞窟の出口へと向かいたがっていた。
そもそも、ここにやってくるときから「ユメガミサマ自身」に興味など持っていない。
落ち武者たちの怨念が集まる場所。
という構成作家の描いた情景を思わせる映像を撮って、それを局へと持ち帰る。
これが彼がこの場所にいる唯一の動機であった。
宮木自身はスピリチュアリストでも宗教家でもない。
一人の職業人としての性格が自身の思考を常に動かしている。
それが、現在は妙な事件に巻き込まれている。
ならば、宮木の思考を支配していることは、「いかにして無事にこの異常な世界から帰還を果たすか」、
ということのみであるのは当然だった。
その点は、陽子も同様である。
しかし、何か気がかりな部分が芽生え始めていたのだ。
それについてじっくりと考えてみたい衝動に駆られているのだが、現在の状況はそれを許してくれなかった。
陽子たちの周囲には常に危険がどこかに潜んでいた。
「出口だよ」
といって、半藤が天井を指差す。
穏やかな光がこぼれている天井の穴だった。
穴の先に木々の枝が見えている。
そこが地上へ繋がっているのはわかっていた。
だが、
「どうやって?」
と陽子が言った。
改めて見ても、天井の穴まで五メートルは高さがあるだろう。
いくらとび跳ねてみたところでその穴の縁に手をかけることは不可能だろうし、踏み台にできるようなものも存在しない。
すると半藤は、手で自身の肩をぽんぽん、と叩いて、
「乗れ。上へあげてやる」
と言った。
「半藤さんはどうするんですか」
陽子が問いかける。
確かに誰か一人が洞窟内に残って、
下から持ち上げてやれば、何とか天井の穴のふちに手が届くかもしれない。
しかし、上から手を伸ばしても到底下にいる人間を持ち上げることはできそうにない。
だから、半藤だけが洞窟内に取り残されることになる。
「ロープのようなものがあれば」、と陽子は考えたが、
あいにくそのようなものは誰も持っていなかったし、洞窟内にも転がっていない。
「俺は、平気さ」
半藤はそう言って自身の手に持たれた猟銃を見つめ、それから背後の通路を指差した。
自分は最初に入ってきた入口から外に出るよ。
という意味なのだろう。
確かに、銃を持ち猟師として熊とも闘った経験のあるこの男ならば、可能だろう。
むしろ、単独で行動できたほうがやりやすいに違いない。
この男にとって、素人でしかも負傷している陽子と宮木は、足手まといでしかないのは事実だった。
二人は半藤の提案を受け入れることにした。
はじめに、宮木が上に登った。
半藤の両肩にしっかりと足を置き、半藤はこれに両手を下から支える。
そしてタイミングを合わせて半藤は両手を勢いよく押し上げた。
宮木の身体はその勢いにのって、ぐんっと上に向かって上昇し、天井にあいた穴のふちをしっかりと両手でつかんだ。
「ぐッ……ううッ……!」
宮木は呻き声を漏らして両腕に力を込め、穴を這い上がる。
肩に受けた傷が痛んだが、それをこらえて両腕に力を込め、上へと這い上がった。
宮木が這いあがった穴から、下にいる陽子を見下ろして手招いた。
続いて陽子が半藤の力を借りて登り始める。
宮木の場合と同じ要領で、天井の穴へと這い上がろうとする。
半藤に足を押し上げられる際、膝の傷が痛んだ。
なんとか穴のふちへと手をかけることに成功したが、
宮木より背丈と腕力に劣る分、大変だった。
「陽子ちゃん、手を出して」
宮木が手を差し出してきた。
「ありがとう」
陽子はそれを握り、宮木に引き上げられることで、ようやく穴から地上の世界へと戻ることができた。
「……ふう」
外界を見て思わず陽子の口からため息が漏れた。
久しぶりに太陽の光を全身に浴びた気がする。
目が突然の光量の変化にまだ対応できていない。
が、ともかくあの岩と深い暗闇だけの世界から脱出できたことに、陽子は安堵を感じた。
ふと、自身が這い上がってきた穴を見ると、
やはりそこから不気味な霊気のような、何者かの冷たい吐息を感じる。
……何かが、潜んでいる。
そう陽子は漠然とした影の正体に思いを巡らせる。
怨霊などというものを信じたくないという自分もいるが、その影の存在に興味と畏れを抱き始めている自分もいた。
陽子が穴の中を覗き込むと、半藤が猟銃を肩に担いでこちらを見上げていた。
やはり、そのような漠然とした影はいない。
いない代わりに、人間がもう一人いた。
半藤の背後に、金槌を持った血まみれの男が立っていた。
相沢だった。
「……半藤さんッ! 後ろッ!!」
陽子が叫ぶ。
半藤が後ろを振り向くと同時に、相沢は彼に襲いかかった。
ガツッという音が響く。
陽子の視界の外に二人の男の身体がもみ合うように転がっていった。
すでに二人の姿は小さな天井に開いた穴から洞窟へと降りそそぐ光の外へ消えて行ってしまい、
二匹の動物が激しく唸るような声だけが聞こえていたが、穴の上からはそれ以上の様子が見えない。
「半藤さん! 大丈夫ですか!? 半藤さんッ!」
陽子は何度も半藤の名を呼び続けている。
宮木も穴に近づいて中の様子を探っていた。
二人で穴の下の様子を窺っている。
突如、轟音が聞こえた。
──猟銃の発砲音。
と二人は瞬時に理解したが、その銃声は一度だけ鳴ったきりで、再び穴の下は静寂に包まれた。
「半藤さん! 無事ですか!?」
何度もそう呼びかけたが、それに答える者はいなかった。
それでもしばらく二人は穴の中の様子をうかがっていたが、
穴の下の空間は今まで自分たちがいた暗闇と静寂が広がるばかりで、半藤の姿はついに現れなかった。
「…行こう」
と、宮木が陽子の肩を叩いて言った。
「でも…」
「ここにいても仕方がない。半藤さんは銃を持ってるし、大丈夫さ。
とにかく今は、山小屋で田辺と合流しよう」
確かに、二人がこれ以上この場所にいても何もしようがなかった。
猟銃の放った轟音は、半藤によるものだろうか。
という疑念が残る。
相沢の不意打ちを受けて、彼が猟銃を手放したとも考えられた。
陽子が状況のわからない半藤の身を案じていると、
「山小屋にたどり着けば、他のみんなもいるかもしれない」
宮木はそう言って立ち上がった。
宮木の思考はすでに森の先にある山小屋へと向けられている。
陽子はそれに促され、途中意味のない行為だとわかっていても幾度か背後を振り返りつつ、宮木と共に山の中腹にあるベースキャンプを目指し歩き始めた。
……遠くで銃声が聞こえた。
それはこの暗い洞窟内に、ただ一度きりだけ響いた。
「ひィッ」
突然の爆裂音に、ゲッティ―坂田は身を痙攣させて反応した。
音の方へと首を向けるが、何も見えない。
洞窟の入口で起きた道明寺の死を目撃してから、坂田はただただ逃げ回っていた。
はじめはこれも「演出の一部かもしれない」と思い、
倒れた道明寺を見ながら、「恐怖に顔を引きつらせる自分」を演じようとしていた。
が、それはできなかったし、金槌で叩かれ続ける道明寺の頭部が音を立てて目の前で割れ、
その内容物を周囲にまき散らし始めたのを見て、彼のさほど頼りにならない平常心はいとも簡単に崩れ去った。
坂田は無我夢中で洞窟内を駆けた。
何が起こったのか理解できなかった。
いや、理解したから逃げ出していたのかもしれないが、少なくとも到底許容したくない現象を坂田は目の当たりにした。
初めにスタッフから持たされていた懐中電灯は、いつの間にか放り出していた。
この暗闇に満ちた巨大な生物の胃袋のような洞窟の中で、
それがどれほど致命的なミスであったかを、彼は今の今まで後悔し続けていた。
足もともろくに見えない闇の中で、坂田は何度か自分の肩や腕を得体の知れない怪物につかまれる錯覚を覚えた。
それは確かに錯覚で、怪物の正体は坂田自身が生み出した恐怖心だった。
狂して道明寺に襲いかかったあのスタッフの一人は、坂田を追ってはこなかった。
実際、怪物に持ち去られたと錯覚した自分の自慢の衣装は、洞窟の壁にできた突起が持ち去っていっただけだった。
気がつけば上着を失って土だらけのシャツとズボンの姿で、坂田は冷たい洞窟の地面にしゃがみこんで震えていた。
胸元につけた蝶ネクタイが惨めにも汚れ、傾いていた。
が、坂田はその位置を戻そうとすることもなく、ただ震え続けていた。
そこにどれほどいただろうか。
坂田の居場所はときおり地面を叩く水滴の音がするのみで、あとは完全な闇と静寂の世界だった。
その沈黙の時間を破ったのは、一発の銃声だった。
坂田は小さく悲鳴をあげて、
這うようにしてその怖ろしい音とは反対の方角へ、ほぼ小動物の本能のように逃げて行った。
夢中で再び駆け続ける中、気がつけば明かりが見えた。
久しぶりに目に映った太陽の明かりをみて、
刺すような痛みが目を襲ったが、彼は歓喜に顔を歪ませた。
最初に訪れた洞窟の入り口だった。
そばに人間が二人、倒れていた。
道明寺と、美術班の人間らしき死体だった。
坂田はできるだけそれに目をやらないように注意して駆けた。
洞窟の出口にさしかかり身をかがめて外の世界に出ようとするとき、何かの声を聞いた。
──おいで。
と聞こえたような気がした。
坂田はその声に、まるでリスかネズミのように丸い目を見開いて一度だけ振り向いたが、やはり暗闇がぽっかりと口を開けているのみで、誰の姿もなかった。
再び光の方を見ると、視界に深々と生えた森の木々が入った。
「外に出れる……外に……出れるッ!」
坂田は一度大きくため息をついてから、その光の射し込む方へと歩き始めた。
狭い洞窟の出口を抜けると、そこには深い森が広がっていた。
つい数時間か前に自分が見た光景と同じだった。
──誰か、誰かいないか。
そう思って周囲を見回すが、感じられたのは青々とした葉を生やした杉の木々の姿と、鳥の羽音だけだった。