現実の始まり
林道を三十分も歩いただろうか。
陽子たち撮影隊は、森の木々の隙間から次の目標地点であるベースキャンプの姿を見た。
ベースキャンプは粗末な山小屋をそのまま利用していた。
元々はこの辺りで林業を営んでいた住民が使用していたのだろう、山小屋の室内には鋸や鉈など、木々の伐採に使用する道具が吊るされている。
ここで洞窟での作業を終えた先発隊と合流する予定だった。
しかし、小屋にはこちらを待っているはずの先発隊の面々の姿は無かった。
「田辺、宮木に連絡はついたか」
奥村が問いかけたが、
田辺は「いいえ」とトランシーバーを見つめ溜息をつくばかりだった。
到着した撮影隊の面々が各自の荷物や機材を室内の床に置き、小屋の内部を見回している。
室内にブルーシートが敷かれ、いくつかの箱が置いてあった。
それは午前中に先発隊が置いて行った食料であり、中身はコンビニのおにぎりだった。
奥村は考えた。
先発隊はここに一度は来たらしい。
予定では彼らは山小屋にベースキャンプを設営し、洞窟内の撮影環境を整えた後、
再びここに戻って本隊の到着を待つ手筈になっている。
──洞窟での作業が思ったより手間取っているのか。
「仕方ない。とりあえずここで休憩をとりましょう」
どうやら先発隊は作業に手間取っているようだが、連中はいずれ洞窟内の整備を終えてここにやって来るだろう。
出演者たちに食事をとらせるなら今のうちだ。
奥村の指示で一行は室内で腰を下ろし始めた。
「君、飲み物はないのかね」
道明寺が田辺に慇懃に尋ねた。
「…すみません、バスの中でお渡しした分しか用意していなかったんです」
すると道明寺は「ふう」、と溜息をついてダンボールに近づき、箱の中のおにぎりを手に取ってパッケージを開け始めた。
「そういえば、初島さんそろそろ戻ってきたんじゃないのか」
奥村が思い出したように言った。
山の入口に一行が到着したとき、撮影隊を現地に届けたドライバーの初島は飲料の買い出しに再び長野市内へと車を走らせている。
そろそろ戻ってきてもいいはずだった。
初島の仕事は、あくまで撮影隊を山の入口までバスで運ぶことにある。
それが済んだらドライバーは撮影が終わるまで基本的に自由だ。
ほとんどの場合到着した場所で、バスの中でいびきをかいている。
だから、ドライバーである彼はバスで入ることのできない山奥の道のりは知らされていない。
つまり自力でこの山小屋まで、新たに調達した飲料等を運んでくる事は彼にはできない。
だから、おそらく飲料をしこたま買って、再び山の入口でいびきをかいているであろう彼の元まで誰かが行って、品物を受け取って来なければならない。
“誰か迎えによこしてくれりゃいいや”
そう言った初島の言葉が、室内の撮影隊の面々の脳裏に浮かんだ。
当然一同の視線はこの中で一番の下っ端である田辺に集まったが、これに首を振ったのは奥村だった。
「田辺、お前は残ってないとまずいな」
奥村の言った事は、的を得ている。
田辺はこの撮影スタッフたちの中で一人しかいない「雑用係」であった。
局のアナウンサーである陽子はともかく、他の出演者たちの身辺の世話をし続けなければならない。
加えて、本隊の中で撮影スケジュールを最も把握しているのも田辺だった。
現場で最も便利で重宝する男は、実はこの田辺である。
その為、奥村は田辺が現場を離れることには賛成ではなかった。
「あの…」
と言い出したのは、坂田のマネージャーの後藤だった。
「よかったら私が行ってきますよ」
後藤は奥村に向ってそう申し出た。
「いや、しかし。マネージャーの方にそんなことをお願いするわけには」
「いいんですよ。私はこの現場じゃ他に何もお役に立てないですし。それにほら、今は特に暇ですから」
後藤はそう言って、にこりと笑っている。
本来ならば坂田のフォローやケアで現場でも多忙な後藤であったが、今回のロケではそれは無かった。
控え室の無い山中での撮影に、先発隊の遅れによるこの空き時間。
現状では後藤にできる仕事はほとんど無かった。
そのため内心この後藤の申し出に、奥村はほっとしていた。
実際、今の状況で居ても居なくても変わらないのはこの後藤である。
「そうですか…わかりました。申し訳ないですが、お願いしてもよろしいですか」
奥村は申し訳なさそうな表情を作り、後藤に頭を下げた。
「ええもちろんです、私にも働かせてください。では、できるだけ早く戻りますので。坂田さん、ちょっと行ってきますね」
そう言って後藤は小屋の戸を開けて、山を降りて行った。
さほど広くない山小屋の中で一行の間で交わされていた会話はいつの間にか途絶え、どこかで鳴いている鳥の声と木々の擦れ合う音だけが室内に聞こえてくる。
結論から言うと、後藤は帰ってこなかった。
すでに彼が出て行ってから二時間は経過している。
後藤は撮影資料に記載された地図を持って出て行ったはずだから、途中で迷ったということはあまり考えられない。
そもそも、麓までは林道を道なりに下るだけなのだ。
それなのに、いつまで待っても初島から受け取った荷物を抱えて帰って来るはずの後藤は戻って来なかった。
そのため撮影隊は、相変わらずこの山中のベースキャンプで足止めを食っていた。
「あの、トイレはありますか」
室内の沈黙を破ったのは坂田だった。
坂田が立ち上がり、少し恥ずかしそうに言った。
「ああ、外にありますよ。美術チームが設置した簡易式のものですが」
奥村はそこで自分の声に苛立ちが含まれていることに気づき、
「すみません、快適とは言えないトイレですが」
と付け加え、笑顔を作った。
「いや、構いませんよ」
坂田が笑いながら手を顔の前で振って外に出て行った。
……苛立ちがこの山小屋にの中に少しずつ広がっている。
音声の久保谷は床に座り込んで目をつぶったまま動かないし、
カメラマンの的場などは、一人で窓の外を眺め、床につけた足をコツコツと鳴らしている。
無論奥村も例外ではない。
先発隊の宮木らと連絡が取れない上に、この足止めである。
奥村は苛立ちを抑えようと、腕を組んで宙を見つめた。
宙を見つめた目に浮かんだのは、先発隊の指揮を任せたチーフAD宮木の顔だった。
──宮木の間抜けめ。トランシーバーが通じないなら代替の連絡方法くらい考えておけよ。
田辺にしても、腹が立つ。
この新米のバカは、ど素人に毛の生えた程度の腕しかもっていないくせに、いっぱしの業界人気取りの態度だ。
飯と飲み物も満足に用意できない無能のせいで、俺たちはここにずっと座ってなければならない。
里見陽子もそうだ。
この女、新入りのころから俺が誘ってやっても、曖昧な笑顔でごまかすだけで、まったく乗ってこない。
読書家で海外旅行好き。
蓄えた知識と経験が売りの国際派アナというが、たかがしれているだろう。
海外旅行と言っても、どうせ男でも漁りに行ったに違いない。
この女の知識と経験なんてものは、世界各国の男たちの性器の大きさの比較データくらいのものだ。
そうに違いない。くそったれ。さすがは国際派アナだ。
この、頭の軽い売女同然の女に、俺は今まであしらわれてきたのか。
そもそも、なんで俺がこんなくそ田舎で枯れ果てた芸人と、
得体の知れない霊能力者とやらと一緒に登山なんてしなければならないのか。
まったく、おかしい。
まったく──。
「──さん」
「奥村さん」
奥村がいつの間にか没頭していた空想から我にかえって、振り向いた。
振り向くと、陽子がすぐそばにいた。
「戻って来ませんね、後藤さん」
──わかってる。
そんなことは、かりきっている。
何を、いまさら、このバカ女は。
奥村は口から出ようとした苛立ちをかろうじて抑え込んだ。
体が熱を持ったように熱く、それがイライラを加速させている感覚を感じている。
だが、ここは抑えなければならない。
「そうだね。後藤さんには悪いけど、そろそろ洞窟に向かった方がいいかもしれない」
と、奥村は努めて冷静に答えた。
すると坂田が小屋の戸を開け、戻ってきた。
そして、
「いやぁ、蚊がすごい! はははッ」
と一人でケタケタと笑っている。
──このバカが。
奥村は思わず、この坂田という、のんきで貧相な小男を殺してやりたい衝動に駆られた。
衝動に駆られた自分に驚いた。
──どうした? どうしてこんなに自分は苛立っているのだ?
予定外の出来事が起きたとはいえ、まだ致命的な遅れにはなっていない。
これから洞窟に向かい、「ユメガミサマ」とやらをカメラに納めて、今日中に局に戻るのはまだ十分可能だ。
そうだ、大丈夫だ。
十分間に合うじゃないか。
──落ちつけ。
奥村は深く息を吸い込み、身体を支配しつつある熱を苛立ちを鎮めようと、リュックから取り出したペットボトル飲料をぐいっと飲み干した。
おかげで彼の飲み物はすっかりなくなってしまった。
「……そろそろ、再開しましょう」
奥村は空になったペットボトルを部屋の隅に乱暴に置き、一同に言った。
「後藤さんを待たなくてもいいんですか」
という陽子の疑問は、当然のものであった。
しかし、予定がいくら致命的な遅れになっていないとはいえ、
これ以上の足止めは避けたかった。
それに、先発隊の様子も気になる。
「田辺をここに残すよ」
この奥村の判断は本末転倒といえた。
現場で最も重宝すべきこの雑用係を手元に置いておくために、後藤に山を降りさせた。
それがその後藤の帰りを待つために彼を残すのだ。
──仕方ない。ここは撮影が優先だ。
奥村はそのように心に思って自分自身に対して頷いた。
すると田辺が同意を示し、
「わかりました。後藤さんと連絡が取れ次第、僕たちも洞窟に向かいます」
「飲み物を担いで」、と田辺は肩に荷物を担いでいる仕草をして笑った。
その仕草にまたこみあげてくるものを、奥村はかろうじて飲み込んだ。
田辺としては落ち込んだ現場の雰囲気を取り戻そうと小さな機転を利かしたつもりだったのだろうが、なぜか奥村にはそれが妙に癇に障った。
その自身の異常にわずかな自覚を感じていた奥村だったが、すぐに思考を撮影の事へと切り替え始めた。
田辺を一人べースキャンプの山小屋に残して、一行は森の奥にあるはずの洞窟へと向かい始めた。
山小屋から洞窟までの道のりは、距離にしてはさほどのものではない。
しかし、この辺りから山の斜面が傾斜が険しくなってきており、道もより悪路になっている。
ほとんど獣道といってもいい状態で、そのため一行は貴重な飲料を片手に息を切らせて進んでいる。
陽がまだ落ちていないせいもあって皆汗をダラダラと垂れ流しており、前を進む者の汗でグッショリと濡れたシャツが目につく。
これらの様子も無論撮影しながらなのだから、特に的場、久保谷の技術スタッフが負う苦労は相当なものだっただろう。
もっとも彼らの胸中はどうあれ、その苦労が報われることは無かったのだが。
一方彼らの中で、陽子だけは平気な顔をしている。
彼女にとってこの日本の国内にある南木曽山は、かつて自身が登山に挑戦した南米チャカルタヤ山やヒマラヤなどに比べれば山というより木々の生えた丘のようなもので、この程度の登山はハイキング程度にしか感じられなかった。
他の面々とは逆に、むしろ汗をかくことで気持ちが高揚していくのを感じている。
学生時代に経験した様々な渡航経験が、彼女の肉体と精神を確実に高めていた。
ときおり肌を突く木々の細い枝を振り払って斜面を登り切ると、再びなだらかな林道が続いた。
そしてそれをさらに進むと、やがて小さな洞窟の入口が見えてきた。
「ご覧ください、見えてきました。あれが『ユメガミサマ』が祭られているという洞窟なのでしょうか」
陽子がカメラを向きつつ、木々と雑多な植物に包まれた山肌に、ぽっかりと開いた防空壕のような穴を指差した。
「なんとも薄気味悪いなぁ、あの中に入るの?」
坂田が「もう帰ろう」という素振りを見せて怯える。
「不気味な雰囲気が私たちを包んでいるように思えます。しかしここで引き返すことはできません、さらに奥へと踏み込んでみたいと思います」
「陽子ちゃんは勇敢だなぁ、僕はもう帰りたいよ……」
「大丈夫ですよ坂田さん。道明寺先生がついてますから」
マイクを持った陽子を先頭に、一行がさらに洞窟の様子を窺うように近づいていく。
「見てください、鉄格子です。朽ち果てた鉄格子が洞窟の入口を塞いでいます。相当な年月が経過している模様です」
「陽子ちゃん、あれは『入っちゃだめだ』、ってことなんじゃないの」
「わかりません。坂田さんの言う通り、この鉄格子は外から来る者を拒もうとして作られたのか、それとも中にいる『何か異常なモノ』を閉じ込めようとして作られたのでしょうか」
「せ、先生。大丈夫なんですか、ここは」
道明寺は坂田の問いには答えず、何かの気配を探るように目をつぶっている。
陽子はゆっくりと鉄格子に手をかけ、
「……この鉄格子、はたして開くのでしょうか……あっ」
手で押すと同時に、鉄格子は金属のこすれる音を立てて、いとも簡単に開いた。
「ご覧ください、南京錠でしょうか。
この感じ……何者かによって破壊されたのでしょうか。
こうして地面に落ちていました。中に入れるようです。」
地面には壊された南京錠が落ちていた。
陽子はそれを拾い上げ、カメラに向かって見せる。
カメラには小さな古ぼけた南京錠がアップで映し出される。
そのまま鉄格子で阻まれていいた先──洞窟の内部に陽子、坂田、道明寺の順で足を踏み入れる。
そしてカメラと音声がそれを追い、奥村は最後方について洞窟内部に入っていった。
洞窟の入り口はひどく狭い。
事前に情報が無ければ通り過ぎても気がつかないだろう。
中に入ったところでとても広い空間があるとは想像できないような入口だった。
その小さな入口に陽子ら撮影隊は身をかがめ、ゆっくりと入っていく。
坂田の自前の派手な衣装にはすでに土がついていた。
彼はそれをやや神経質な面持ちでパンパンと払いながら歩いている。
ひんやりとした洞窟内の冷気が、緊張で熱を持った撮影隊の頬を静めた。
進むほどに入口から届く太陽の光が弱くなり、視界を狭くした。
虚構に包まれた「作品」を作っているのだ、という意識を全員が持っての撮影ではあったが、洞窟内部に漂う冷気と不気味な雰囲気が撮影隊に自然と緊張感を与える。
ここで一行は各々で懐中電灯のスイッチを入れ始めた。
カチ、という音が洞窟内に反響し、手に持たれた懐中電灯がそれぞれ洞窟の濡れた壁や粘土質の地面を照らし出す。
突如、坂田が悲鳴を上げた。
「これ……見てよこれ!」
一同が坂田が指差したその先を見つめる。
カメラは叫ぶ坂田からが指す先にある水たまりのようなものを映した。
「……血じゃないですか!これ!」
確かに血のように見える赤い液体がライトに映し出されている。
よく見ると血液のような液体は、血だまりの様になっている場所から洞窟の奥の方へ、さらに点々と続いていた。
それはまるで誰かが死体を運んだかのような様相だった。
あるいは一度そこで死んだ人間が、再び起き上がり洞窟内へと歩いて行ったかの様な。
赤い点の続く先は暗闇が濃くてこの位置からではライトを照らしても見えない。
陽子は、ゴクリと隣の坂田が唾を飲む音を聞いた。
血だまりのような物を見た奥村は、思わず後ろを振り向いた。
「美術チームはこんなものを用意したのか?」と田辺に聞こうとしたのだが、彼に山小屋に残るように指示を出したのは自分だった。
舌打ちをしたい気持ちをこらえて、再び奥村は前を見た。
奥村の視界に道明寺の背が見えた。
「──感じる」
道明寺がおもむろに口を開いた。
「感じる。凄まじい怨念です。恨み、悲しみ、怒り。そういった思念がこの洞窟に満ちています」
「本当ですか、先生」
坂田が怯えきった様子で、すがるように道明寺を見つめる。
中々の演技といえた。
あるいは、本当に怯えていたのかもしれない。
道明寺は目をつぶって、何かを感じ取るように片手を洞窟内の暗闇に広げた。
まるで探知機のように差し出した掌を自身の正面に広がる空間へ向けてゆっくりと動かしている。
「はい。……これは」
一同が何かに気づいたような様子の道明寺を凝視して彼の次の言葉を待っている。
「……どうやら、我々はすでに彼らに見つかっているようです。このままでは、我々に災いをもたらすことになるでしょう」
坂田が、ええ、っと声をあげる。
「ど、どうすればいいんでしょうか」
「ユメガミサマが祭られている社へ行きましょう。
そこまでたどり着ければ、あとは私が祈祷を行い、怨念を鎮めてみます」
「もっと奥に行かないといけないんですか!? この洞窟の中を? ひええ……」
坂田が恐怖で歪んだ顔を洞窟の先の暗闇へと向けて言った。
──いいぞ。
そう奥村は思っていた。
現在までのところ、道明寺は局が期待した通りの働きをしている。
坂田はややでしゃばりすぎだ。
だが、まあこんなものだろう。
あとは、この二人に関心のない視聴者は、里見陽子の顔でも胸元でも見てればいい。
奥村はにやりと口を歪ませた。
……それにしても、この不快感はなんだろう。
洞窟内は太陽光が遮断され冷えきっているというのに、ひどく身体が暑い。
汗がグッショリとシャツの背を濡らしている。
……まったく、こういうくだらない仕事はこれで最後にしたい。
こんなろくでもない連中とも、これっきりにしたい。
奥村は自身に与えられた仕事について、そう考えた。
だいたい、『俺はゲッティ―坂田と番組をやってる』なんてそんな理由で、女が口説けるか。
冗談では無く真剣に、奥村はこの仕事を投げ出したい気持ちに駆られていた。
それは通常の自身ではありえない心境だったのだが、
今の奥村はその自身の異常な変化に気づくことはできなくなっていた。
道明寺が両手を合わせ呪文のような言葉を吐きながら、洞窟の内部をゆっくりと奥へ進んでいく。
陽子は道明寺の行き先にライトを照らしつつ後に続く。
洞窟内に響く彼らの遅く慎重な足音が、彼らの緊張の度合いを示していた。
「遅いじゃないですか」
誰かが言った。
一行はさらに奥へ進もうと、ゆっくりと足を進める。
坂田が、きゅっと唇を噛みしめて前を行く陽子と道明寺を追って歩く。
「遅いじゃないですか」
また誰かが言った。
──誰だろう?
皆一斉に辺りを見回し、お互いの顔を見た。
「自分ではない」、と全員が顔で語っている。
──ザリッ。
土を踏みしめる音をたてて目の前に黒い人影が現れた。
その場の全員が、びくっと体を硬直させる。
陽子が反射的に手に持った懐中電灯をその人影へと向ける。
黒い人影の輪郭が鮮明に一行の視界に浮かび上がった。
「……お前」
と、奥村が目を見開いて呟く。
「相沢……相沢じゃないか……?」
相沢という名の、三人の美術チームの一人だった。
編成された美術班は、相沢とそれより二年先輩の若槻を含めて、最年長の三田村がまとめている。
彼ら三人にチーフADの宮木と、万が一熊などの野生動物に遭遇した場合の猟師半藤を加え、
計五名が先発隊として本隊より先に現地に向かっていた。
その先発隊の一人、相沢という男が突如現れ、目の前に立っている。
が、一同が視線を集めたのは、相沢が突然現れたことよりも、その彼の容貌に対してだった。
相沢は全身が、血まみれだった。
血の入ったバケツを頭からかぶったかのように頭の先からつま先まで血だらけであり、
特に上半身を覆う彼のシャツはほとんど真っ赤に染められていた。
「……お前、どうした、その格好は。……大丈夫なのか?三田村たちはどこ──」
「仕事が遅いと、よく怒られるんです」
唖然とした表情で口を開いた奥村の言葉を遮るように、相沢がぽつりと言った。
「仕事は、早く、正確にしないといけないんだ」
相沢が、ゆっくりと近づいてくる。
その足取りは重く、ときおりふらついている。
呼吸は荒く、何やら興奮を抑えようと必死に耐えているような様子だった。
そして呆然とその様子を眺めている撮影隊の目の前にまでやってきて、相沢は言った。
「たとえば、このように、正確かつ迅速に、仕事はしなきゃだめなんだ」
言い終わると同時に、
相沢は腰に身につけていた金槌を取り出し、飛びかかるように俊敏に振り上げた。
一同が声をあげる間もなく、
その金槌は空間を勢いよく切り裂き、道明寺の頭部めがけて真っすぐに振り下ろされた。
金槌の衝撃と圧力は、何の抵抗の姿勢も見せていなかった道明寺の頭蓋を容易に砕き、
鈍い音を立てて砕かれた頭蓋の破片は瞬時に彼の脳内に深々と突き刺さった。
「うん?」
道明寺は、「何が起こったのだろう」という不思議そうな表情をしたまま、
切り倒された樹木のように地面に倒れた。
そして一度だけ身体を痙攣させ、そのまま動かなくなった。
──その場が、凍りついた。
その場にいる誰もが、倒れた道明寺を見つめている。
赤と灰色の混じった液体が、道明寺の頭部から染み出るように流れだしていた。
相沢は立ち尽くす一同の目線などまるで無関係だというばかりに倒れた道明寺に素早く馬乗りになって、さらに道明寺の頭部を金槌で叩き始める。
頭部を叩く鈍い音が規則正しく鳴らされる中で、時折、パキっと細い枝を折るような音が洞窟内の静寂に響いた。
金槌の奏でる音はやがて柔らかいものを潰す音に変わり、相沢の顔とシャツをさらに赤く染めていった。
それを一同は眼には映しているが、
なぜ自分が今このような光景を見ているのか、ということは誰も理解できてない様子だった。
全員がその場に呆けたように立ち尽くして相沢が目の前で行っている事を見つめていた。
坂田などは関心を持たないニュースを見るかのように口をだらしなく開けて、無表情な顔を向けている。
ガタン。
という音で全員が我に返った。
陽子が手に握っていた懐中電灯を落としたのだ。
陽子はそれを拾おうとして、気がついた。
地面に落ちたライトが照らす先に、顔があった。
もう一人、人がいた。
陽子はその顔を見た瞬間に、悲鳴を上げた。
その人は倒れていたし、顔が半分無かった。
死体、だろう。
顔半分が完全に潰され、完全に欠けていた。
残った片方の眼だけが、虚ろにこちらを見ていた。
──美術チームのリーダー、三田村だった。
「キャアアアアッッ!!」
陽子のあげた悲鳴がスタートを知らせるホイッスルのような役目を果たし、様々な者が悲鳴をあげて蜘蛛の子が散るように慌てて各々の方向へ走りだした。
それは“これは仕事上の演出ではない“という事実に全員が気がついた証拠の行動だった。