虚構の終わり
車内の揺れが激しくなった。
道がアスファルトから舗装されていない砂利道に変わったのだ。
やがて周囲の風景ががらりと変わった。
ロケバスが南木曽山付近の林道へと入ったためだ。
もちろん、変わりゆく風景を楽しんでいるような者は車内には一人もいない。
新たに合流した坂田と後藤は手渡された撮影資料に目を通しているし、道明寺は何やら目を瞑って先ほどから微動だにしていない。
加えてディレクターの奥村や音声の久保谷、カメラマンの的場は相変わらずいびきをかいているし、
田辺は先ほどの失態で焦っているのか何やら考え込んでいる様子だった。
陽子は窓の外を見ていたが、景色を見て楽しんでいるのではない。
ただ窓の外へ目線を投げているだけで、意識は自分の中にあった。
陽子にとってこのようなバラエティ番組の仕事というのはまさに「虚構」であって、
自身が渇望する“リアリティのある事実の報道”とはおよそかけ離れたものだ。
だから陽子は窓の外を見ながら、自身の今後の進退についてそれとなく考えを巡らせていたのだった。
さらに十五分ほど車に揺られていると、最初の撮影地点である山の麓にロケバスは到着した。
バスが停まると同時に田辺がいち早くドアを開け「到着です。よろしくお願いします」と車内へ呼びかける。
そしてすぐに積み込んだ撮影機材を下ろし始めた。
カメラマンの的場が田辺から機材を受け取り、撮影準備に入る。
的場は三十代後半にさしかかるカメラマンだった。
よく日焼けした顔に、短く刈り上げた髪。
報道カメラマンとして世界中を周った経験も持ち、十分にベテランの部類に入るだろう。
仕事の幅は広く、人手の状況によって所属する会社から今回のような番組に回されてくることもあった。
音声の久保谷も商売道具であるガンマイクを持ち、用意を整え始めた。
彼も的場と同じく三十代の男である。
やや長めの髪を茶に染めており、優男のような風貌をしている。
的場と違い仕事は国内専門だったが、バラエティの他にドラマの撮影にも音声として随行している。
出演者たちはこの間、順番にバスの中で各々の衣装に着替えている。
衣装は、通常は局にある衣装部からそれぞれ持ち出してきた物を使用するケースが多いが、今回は坂田、道明寺ともに自前で衣装を用意してきた。
陽子はあくまでアナウンサーであり、今回はレポーターとしての出演であるため、わずかに髪を整えたのみで服装はスーツのままだ。
ただし、登山になるということでスカートではなく、黒のスラックスを履いていた。
うっすらと茶色に染めた髪を後ろで束ね、やや大きめな二重の目をしている。
しかし愛嬌を感じさせる大きな瞳、というよりはどちらかというと知性を感じさせる若い美貌を持っていた。
彼女のこれまでの学生時代からの経験や知識がそう感じさせるのだろう。
あるいは自らそう見せようとしている部分もあった。
陽子は小柄ではあるが細身であり、この様な現場ではスカートよりもズボンの方が彼女の知性をより際だせていた。
にわかに周囲が活気づき始める。
田辺がたくさんのトランシーバーを抱え、それぞれのスタッフたちに配っていた。
撮影現場での連絡のやり取りはこれを用いる。
通常は無線機本体にイヤホンを差し込み、それを耳につけている。
そうしてPPTスイッチを切り替えて音声を送受信することで、音を外に漏らさずに、つまり久保谷が持つガンマイクに音を拾われずに会話のやり取りをすることができる。
もちろん、イヤホンを外せば受信した音声は本体に取り付けられたスピーカーから流れる。
そして先発隊もこれを持っていた。
「田辺、先発隊に連絡はついたか」
奥村が手渡されたトランシーバーのイヤホンを耳に詰め込みながら言った。
「さっきから送信しているんですが、どうも届いていないみたいです」
「この森の中だからな、思ったより電波が届かないのかもしれない」
先発隊は、現在奥村らがいる地点と社のある洞窟の中間地点にある「ベースキャンプ」にいるはずだった。
そこで一度本隊と連絡を取り、本隊がこの山の麓での撮影を終えた後、ベースキャンプで合流する予定になっていた。
しかし、現在その先発隊と連絡がつかない。
「まあ仕方がない。さっさと麓のシーンを撮っちまって、ベースキャンプに行こう」
と、奥村は言った。
「あの、飲み物の件なんだけどさ」
初島が会話に割り込んできた。
「俺がこれから市内まで車走らせて、仕入れてくるよ。
もし次の現場への移動までに戻ってこれなかったら、誰か一人こっちに取りに来させてくれりゃいいや」
「わかりました」
奥村は頷き、「お前が悪いんだぞ」と言いたげに田辺の方を睨んだ。
田辺は、
「すみません……」
と頭を下げ、「よろしくお願いします」と付け加えた。
「いやぁ、はは、お待たせしました」
ゲッティ―坂田が派手な衣装に身を包み、バスから降りてきて言った。
彼の小柄で貧相とも言える身体とは対照的に白地に金の装飾が施された目立つ衣装で、それがかえって本人自身の見た目とのギャップの滑稽さを生みだしていて、それを見る人の印象を強めているようにも感じる。
つまるところ、まったく似合っていない。
それが彼の計算であるらしかった。
他の出演者たちも用意が整っているようだった。
陽子と道明寺も並んで佇んでいる。
「それじゃ、始めましょうか。よおぉぉしッ」
奥村が全体に大声で呼びかけた。
山の麓での撮影が始まろうとしている。
森の入り口から陽子が、坂田と道明寺と共に今回の企画内容について視聴者に向けて簡単に説明しながら、さらに森の奥へと進んで行くまでのシーンだった。
カメラ、音声がスタンバイを終えた旨を知らせる。
それを受けたディレクターが「本番」を告げる。
「では、よろしくお願いします。
・・・・・・はい、本番ッ! 3、2、1、スタートッ!」
奥村が大音声の合図と共に指を振る。
合図を受けて三人の出演者たちが林道を歩き始めた。
的場のカメラと久保谷のガンマイクがそれを追う。
初めに陽子がカメラに向かって口を開いた。
「というわけで、今、長野県南木曽山にやってきております。
この付近には昔、村人に騙されて惨殺された落ち武者たちの霊が未だに彷徨っているという噂が絶えません」
陽子がカメラの方を向きながら森を進んでいく。
「まだ昼間なのに、すごく嫌な雰囲気ですよ…」
坂田が大げさに肩を震わせて辺りを見回す。
「この南木曽山の奥地のどこかにあるという洞窟に、
落ち武者たちの怨念を鎮めるために建てられた社があると言われております。
その社に祭られている『ユメガミサマ』と呼ばれる御神体をカメラに収めることが、今回の目的です」
「怨念って…そんなのに襲われたらどうするんですか。
洞窟だってこの森のどこにあるか、わからないんでしょ?
せっかく久々にテレビに出れたと思ったら、これだもんなぁ」
坂田が泣きそうな顔で溜息をつく。
「心配いりません坂田さん。今日は頼もしい助っ人がいるんですから」
「助っ人?」
「はい、知る人ぞ知る霊能力者、道明寺浄雲先生です!」
陽子が差し出した手の動きに合わせて、カメラが振り向く。
「・・・・・・初めまして、みなさん」
と、道明寺は不機嫌にも見える表情で陽子に向かって会釈をした。
カメラは仰々しい衣裳を纏った道明寺と、そこへマイクを向ける陽子のツーショットを映す。
「先生、いかがですか、何か感じますでしょうか」
陽子が道明寺へマイクを向ける。
「うむ……まだ漠然としておりますが、どうも、嫌な空気が流れていますね」
「それは……霊が近くにいるということでしょうか」
「まだわかりませんね。ですが、何者かに見られている気配がする」
ええええ、と坂田が慌てて辺りを見回す。
それに合わせて的場も、担いだカメラを周囲に向けて振った。
視界の狭い深々と生い茂った木々がカメラに映される。
どこか遠くで鳥の鳴き声がしたが、姿は見えない。
カメラはその様子が“不気味に見えるように”撮影しながら、再び向きを沈黙する三人の出演者へと変えた。
この時、AD田辺は出演者たちとカメラには見えないように、草むらの中に伏せていた。
手にはICレコーダーが握られている。
そしてこれには「男のうめき声」があらかじめ録音されている。
奥村の合図でレコーダーの再生スイッチを押す手はずになっていた。
これによって陽子と坂田がさらに慌てる様子をカメラに収める、という算段である。
そのため、田辺は林道脇の茂みに伏せながら奥村の合図を待っていた。
出演者三人が伏せた田辺の目の前を通りかかるのを見計らい、奥村が右手を上げ、田辺を見る。
そして手が振り下ろされ、すなわち「キュー」が発せられた。
田辺は予定通りICレコーダーの再生ボタンを押す。
ICレコーダーの再生ランプが緑色に点灯し、そのスピーカーからあらかじめ用意した「男のうめき声」が流れる──
「男のうめき声」は、流れなかった。
田辺はもう一度再生ボタンを押す。
しかし、レコーダーは沈黙したままだ。
奥村が、「どうした」という表情で田辺を見る。
田辺は伏せたまま首をかしげて、「わからない」と表情で答える。
焦った田辺がもう一度再生ボタンを押そうとしたとき、
「──…いで、お…で」
という声が、レコーダーから流れ始めた。
何だ……? この声は……。
田辺は突如として流れ始めた予想外の音声に驚き、自身の手に握らられているICレコーダーを凝視する。
そしてICレコーダーは、
「──おいで」
という恐ろしく低い何者かの声を、スピーカーから周囲に発した。
その何者かの音声は、林道を進む三人にもはっきりと聞こえていた。
「きゃっ」
陽子がびくっと反応し、声が聞こえた茂みの方向を見る。
「うわぁ、何ですか! いたずらはやめてくださいよ!」
と、坂田があからさまに狼狽する。
道明寺がすかさず音のあった方向へ手を合わせ、
呪文のような祝詞のような言葉を唱え始めた。
陽子と坂田はすっかりその場に硬直し、
突如として発生した事態に慌てる様子を“演じて”、すがるように道明寺を見つめていた。
怯える坂田と陽子の視線を集めた道明寺は神妙な面持ちで口を開き、誰に向けてでもなく森の中へ言った。
「霊が我々誘い込みたいようです。自らの巣穴へと」
その言葉に坂田がまたオーバーに狼狽を示す。
そして道明寺は掌を合わせて何事かを再び唱え始めた。
陽子は自分にカメラが向いていないことを確認して、奥村に目線を送った。
奥村はそれに「うん」と頷いて、林道の先を指差した。
それを受けて陽子が再び話し始める。
「今、奇妙な現象が起きました。落ち武者の霊たちが、我々を彼らの世界へと招きいれようとしているのでしょうか」
陽子はカメラに向かって問いかけ、
「しかし、我々はここで引き返すわけにはいきません。
勇気を振り絞って、『ユメガミサマ』の正体をつかみたいと思います」
と、そのように締めくくった。
「はい、カット!」
奥村が全体へ向け大声で叫ぶ。
即座にカメラマンの的場と音声の久保谷が機材をたたみ、移動の用意を整え始める。
「いやぁさっきの不気味な声、すごく雰囲気出てたよ。本当に驚いたなぁ」
坂田が草むらから這い出てきた田辺に向かって言った。
「いやまあ、はは」
田辺は曖昧な笑顔でそう答えたが、内心は狼狽していた。
坂田は、「ほどほどにしてくれよ」と田辺に向って笑って、「飲み物ちょうだい」と言いながら後藤の元へ歩いていった。
坂田が離れたのを見計らって、奥村が近づいてきて田辺に尋ねた。
「お前、あんな声入れてたのか?」
「いえ、入れた覚えはありません…」
田辺が若干顔をこわばらせて答えた。
「徹夜で寝ぼけてたんじゃないのか?……まあいい。とにかくベースキャンプまで行くぞ、先発隊には連絡を送り続けろよ」
奥村はそう言い残して林道の先へと歩き始めた。
撮影隊一行は、先発隊が洞窟付近にある山小屋に設置したベースキャンプを目指し、再び移動を始めた。
──暗闇の中をろくに視界も確保できずに、頬をつたう冷や汗を拭う余裕も無く走り続けている。
チーフAD宮木は今、ただ一人で洞窟の内部を駆けていた。
肩から血を流し、ときおりそれを地面にポタポタとしたたらせている。
洞窟の中は入口の狭さに比べ、思ったより広かった。
そのおかげでこうして何とか転ばずに逃走できているし、そのおかげで向かうべき洞窟の出口を見失っていた。
──すぐに本隊に合流しなければ。
「大変なことになったぞ」と、宮木は思った。
すぐに本隊と合流して報告しなければならない。
だが肩の傷が突き上げるような痛みを訴えてくる。
息も上がり、口の中が乾いてくる。
そして、洞窟の出口にたどり着けない。
──畜生。畜生。畜生。
宮木は歯を食いしばり、ひたすらに駆けた。
とにかく、今は逃げなければならない。
“あいつ”が俺を追いかけてきている。
わけがわからない。
だが、捕まればおそらく殺される。
「出口は、どこだよ……」
そう宮木は呟いた言葉は、洞窟内の暗闇に吸い込まれていった。