撮影当日の朝
早朝。
新宿アルタ前の通りは、世間の人々が想像するような活気には未だ包まれていない。
大都会の中心部にあるこの場所は、朝の通勤時間を皮切りに多くのサラリーマンや商業施設を利用するための人々で深夜に至るまで賑わう。
しかし、まだ朝の五時を回ったばかりという現在の時間帯では、この街の様相は非常に閑散としており、ときおり背広姿の早出のサラリーマンや、バス停で長距離バスを待つ大きな荷物を持った人々が目につく程度である。
その中に、中型から大型のほぼ似たような車種の車両が、やはり同じ方向を向いて道路にほとんど間隔を持たせずに密集している地帯があった。
それらはこれからロケに向かうためのテレビ各局の車両である。
まるで小川の淵に群れる魚たちのように、道に沿って並んでいる。
これらの車両は“ロケバス”と呼ばれ、これからドラマや報道、バラエティ番組の撮影のためのクルーや一部の出演者の到着を待つためにそこにいる。
各々の車両のそばに、腰にウエストポーチや背にリュックサックを身に付けた若い者が立って、まだ眠たそうな眼を辺りに向けてきょろきょろとせわしなく動かしている。
彼らはアシスタントディレクター、あるいは助監督、制作進行などと呼ばれる職種の者たちであり、それは一般に撮影隊の中では底辺に位置する者たちで、つまりは最も肉体的に過酷な環境に置かれている者たちである。
事実、今この早朝の新宿の路上に佇む彼らの容貌は、手入れをする暇もなかったのだろう、伸び放題の髭や少々不潔さも感じさせるほどに乱れた髪をそのままの状態で立っている。
浮浪者と見まがうばかりの燦々たる姿の者も中にはいた。
皆眠たそうな目ではあるが、ある種の緊張感を体から発してそこに立っている。
帝都テレビ所属アナウンサー、里見陽子がそのロケバスの群れに近づくと、その浮浪者と見まがう者たちの中の一人がこちらに気づいたようだ。
男は陽子に会釈をすると、少し慌てた様子で彼女にバスに乗るようにと促した。
「おはようございます、里見さん」
「おはよう、遅くなってごめんなさい」
男はADの田辺という者だった。
まだ若い。
彼がよく現場で怒鳴られて、顔中に冷や汗を垂らしながら慌てふためいているのを陽子は見たことがある。
つまり彼はこの業界の中でまだまだ駆け出しの人間であり、その様子は普段の調子からも見て取れた。
田辺がロケバスのドアを開け、その中へ入るようにと陽子へ促す。
陽子が乗り込むと、車内の視線が集まった。
「お、間に合ったな、里見ちゃん」
その中で奥村というディレクターが、座席にもたれさせていた大きな体をこちらに向けて、にやりと笑って言った。
「すみません、遅くなりました」
陽子が車内を見渡すと、自分以外のメンバーはすでに揃っているようだった。
ディレクターの奥村、カメラマンの的場、二人ともまだ眠そうな目をこちらに向けている。
音声の久保谷にいたっては陽子の訪れに気がつかず口を開けて眠りこけていた。
元気なのはドライバーの初島くらいに思える。
初島はこれから自身が運転するロケバスの運転席で足を前に投げ出して、手に持った地図を眺めている。
「坂田さんは現直だったっけ?」
ディレクターの奥村の問いかけに、ADの田辺が「はい、そうです」と答えた。
“現直”とは、つまり『ロケバスに乗らず、独自の手段で現地に直行する』の意である。
今回のロケの主役ともいえる、ゲッティ―坂田というお笑い芸人は、ロケバスとは別に自身の所有する乗用車で撮影場所に向かう手筈になっていた。
さらにもう一人の出演者がいたが、その人物も“現直”の予定になっている。
そのため彼らとの合流は撮影現場にほど近い長野県内のホテルということになっていた。
車外にいた田辺が手に持った資料に目を通し、本日の乗車人数の確認をしてから自らも乗り込んでロケバスのドアを閉めた。
「それじゃ、よろしくお願いします。初島さん」
田辺がそう言うと、初島は「おう」と答え、車を発進させた。
『怪奇!長野の心霊スポット!ユメガミサマの怪』
という企画が彼らの局で持ち上がった時、担当のプロデューサーはさして興味を示さなかった。
ただ、夏という季節からいわゆる「お約束」のネタとして必要だろうという、ほぼそれだけの理由でこの企画が採用された。
──長野県の山奥。そこに付近の住民が祟りを恐れ、誰も近寄らない「聖域」が存在する。
その『聖域』では“ユメガミサマ”と呼ばれる神が祭られている。
しかし、月日が経つにつれ住民のユメガミサマへの信仰は薄れ、それによって怒ったユメガミサマはいつしか災厄をもたらす『祟り神』へと変貌した。
やがてユメガミサマが祭られている付近の山地は、幽霊の目撃談や様々な怪奇現象が報告されている。
それを調査するべく、自他ともに認める小心者のゲッティ―坂田と、美人レポーター里見陽子が特別ゲストである霊能力者の力を借りて、勇気をもってこの聖域に踏む込む。
というのが、この企画を担当した構成作家が提出した筋書きの一部だ。
実際には、ロケ地に選定された長野県南木曽山付近の一帯は、心霊スポットなどと呼ばれた事は無い。
少なくとも付近の住民はそう思っており、この番組のスタッフもそれを知っていた。
ごくありふれた森林の奥に洞窟があり、そこに小さな社が一つポツンと置かれている。
それだけが事実であった。
地元の伝承によると、その社に祭られている神は、本当のところは作物の豊作を祈願する農業神の一種であるらしい。
確かに戦国期の飢饉のころに、このような社が全国各地に数多く建てられている。
だからそれを知った構成作家は、ただちにこれを書き換えた。
──伝承によると、遠い昔の戦国期、この付近に戦に敗れ命からがら逃げてきた武者たちがいた。
武者たちは傷ついた身体を癒し、空ききった腹を満たそうと、藁にもすがる気持ちである村を訪ねた。
落ち武者たちは村人から手厚い看護と食事を振舞われる。
しかし、これは村人たちが仕組んだ罠だった。
すっかり武者たちが村人たちの厚意に甘え、油断しきったときを見計らって、村人たちは彼らに襲いかかった。
彼らは落ち武者狩りに遭ったのだ。
こうしてその村は土地の大名から褒美を受けたが、ある日を境に村に不可解な現象が起きるようになった。
農地へ向かったまま行方不明になる者、謎の病にかかる者、いつまでも子供を授からない者が続出した。
村人たちはこれを、「落ち武者の祟り」だと恐れた。
そのため、村はずれの洞窟の中に小さな社を建て、無念の死を遂げた武者の霊を懸命に鎮めようとした。
…しかし現代になり、その社に祈りを捧げるものが絶え、この一帯に再び怪奇現象が起こるようになったのだ。
と、構成作家は彼の番組と自身のその生活のための物語を作った。
その物語をプロデューサーが承認し、ディレクターが承諾し、アシスタントディレクターがその要求を実現するロケプランを提案した。
そのような経緯で、今日の撮影隊は組織されていた。
ロケバスが動き出してから三十分も経過したころ、陽子がふと車内を見回すと、起きているのは自分とドライバーの初島だけだった。
実際、日々のハードワークによる睡眠不足を補うためには、このようなわずかな移動時間でさえも睡眠に充てなければやっていけないのだろう。
陽子もウトウトとしかけていたところだった。
ふと、ロケバスのドライバーである初島が、運転席から前を見つめたまま話しかけてきた。
「大変だねぇ。坂田さんとロケなんて」
と、初島はため息をつきながら言った。
「どういうことですか?」
「いやさ、最近色々と苦労してるっていうじゃない? カレ」
──ああ。と陽子は思った。
ゲッティー坂田というお笑い芸人は、長い下積み生活を経て、
彼が苦心の末に編み出した、両手の人差し指をカメラに向けて、「ゲッティー!」と叫ぶ「芸」で、およそ二年ほど前にブレイクした。
そのため彼は薄暗い地下のショー芸人の地位から、一躍として「時の人」になった。
数々の出演依頼が殺到し、ほぼ毎日のようにテレビの画面には彼の顔が映っていた時期があった。
グッズの販売も行われたし、映画への出演依頼もやってきていたそうだ。
が、長くは続かなかった。
ブレイクからおよそ一年で、各局のプロデューサーたちは彼の“賞味期限”は切れたものと判断したようだった。
だから、彼は再び暗い劇場の地下へと戻らなければならなくなった。
ある日を彼の姿はテレビの画面からはすっかり消えていた。
人々も彼の話をしなくなっていた。
──今まで毎日のように存在を主張していた人間がある日、“ある日”とはいったいいつなのか誰にも記憶されることなく忽然と姿を消す。
それは客観的に見れば不気味な現象だったかもしれない。
しかしこの業界では日常茶飯事ともいっていいものであったし、陽子も幾度となく蒸発するかの様に忽然と姿を消す「時の人」を間近で見てきた。
それはテレビを見る視聴者にとっても見慣れた光景だった。
脳裏からいつの間にか一人のスターの存在がなくなってしまうのである。
そして居なくなった事にほとんどの人間が気がつかない。
だから陽子も特別に感傷を抱いていたわけでは無いし、今回のロケも陽子にとってはいつも通りの仕事と大して変わらなかった。
「坂田さんも今回がきっかけで復活するといいですね」
そう陽子は初島に答えたが、内心はおそらくそう簡単ではないだろうと思っていた。
蒸発してしまった「時の人」の一人であるゲッティー坂田に、今回テレビ番組への起用の話がやってきたのは急遽決定されたことだったらしい。
といっても、スターの再誕ではなくて、季節モノ心霊番組の一コーナーのレポーターとしてだったが。
だから今回の企画で改めてスターの舞台へ復活を遂げることは難しいように思われた。
陽子自身はテレビ局所属のアナウンサー、いわゆる「局アナ」であったが、
彼、ゲッティー坂田がレポーターとしての技量を心配されているため、陽子も今回の撮影にレポーターととして同行し、彼をアシストすることになっていた。
初島のいう「大変だねぇ」という言葉は、そういった事情から出ている。
『頼みの主役がブームの過ぎた芸人じゃ、今日のロケは盛り上げるのが大変だ』という意味である。
もっとも陽子自身は、大学を卒業し局のアナウンス部に配属されて数々のバラエティ番組の司会アシスタントを務める中で、この手の状況には慣れていた。
彼女は望んで今の仕事についたのではなかった。
正確には、望んでいた仕事を手に入れたと思って喜んでその手の中を覗いてみたら、違うものが握られていた。
テレビ局の社員の中で、もっとも華やかと言われるアナウンス部にいながら、
彼女が時おり溜息を吐いた理由は、そのアナウンサーという職種にあった。
記者に、なりたかった。
テレビ局の報道記者になることが陽子の長年の夢だった。
そのため、陽子は学生時代から政治、経済、社会、歴史といった多くの学問を、積極的に学んできた。
そればかりか海外へも深く関心を持ち、時間と資金さえあれば渡航もよくしていた。。
彼女が渡航した先の海外で見たものは、貧困であった。
それは、ごく普通の日本の会社員を父に持ち、
ごく普通に大学まで進んできた陽子が、これまで見たことも無い現実だった。
だから、記者になりたかった。
記者になり、その貧困の現実を日本の多くの人々に、
あるいは世界へ、映像という手段を使って鮮明にリアルな存在感を持たせて訴えたかった。
自分ならば、それを『映像の中の世界』としてではなく、『世界の中の現実』として伝えられる。
それが若い陽子の持った自信でもあり、希望でもあった。
その自信がたとえ若さゆえの虚構であったとしても、学生時代の陽子自身の原動力となってきたのは間違いなかった。
しかし、大学を出た陽子を採用したテレビ局が与えたものは、報道部の記者としてのペンではなく、アナウンス部の原稿だった。
陽子はせめて報道番組に起用してほしいと要望したが、
与えられたのはバラエティ番組の司会のアシスタントだった。
『勉強のためだから、とりあえず』
とか、
『華やかでうらやましい』
と、上司や周囲には言われた。
確かにそうかもしれない。
だがこの世界の華やかさは、自分の生涯をかけてまでして得るものではないと、陽子自身は感じていた。
『勉強のためだから』
そう言われてすでに四年も経つが、陽子を取り巻く環境は四年前と何も変わっていなかった。
「まあ、まだ長野に着くまで時間あるから、寝てなよ」
初島のその声で、陽子は我に返った。
「ありがとうございます」
そう言って、陽子はシートにもたれて目を閉じた。
──今日もいつも通りの仕事が始まるのだ。
そう思う陽子の気持ちは、高揚も落胆もなく、ただ平坦であった。
──長野県南木曽山、山中。
チーフAD宮木直哉は、狼狽しきっていた。
「どうですか」
宮木は苛立ちをあえて声に含んで言った。
「どうですかも、何も」
美術班の男が、苦々しげな表情で答える。
「こんなものがあるなんて、聞いてませんよ」
そう言って、軍手をはめた手で目の前の鉄格子を指差した。
この番組企画のメインとなる“ユメガミサマ”が居るとされる社は、山中深くの洞窟の中にある。
社とは、神仏を祭るための建造物のことを指す。
そして宮木が実際に事前調査で訪れてみると、洞窟の入口は、“ほら穴”との区別が難しそうなほど狭いものだった。
だが、狭い入り口を越えると内部には中々の規模の空洞が存在するらしい。
存在するはずだった。
というのは、彼らが事前に調査した時には無かった物が撮影当日の今日、目の前に突如として存在していたのだった。
狭い洞窟の入口に鉄格子がはめられている。
それが、撮影のための下組みを作るべく、本隊より先行して現地に向かった宮木ら先発隊を足止めしていた。
──冗談ではない。
宮木は狼狽していた。
この洞窟内を通り、ユメガミサマとやらが居るという社を撮影することが、この企画のメインなのだ。
その社が撮影できなければ、何のためのこの山中行軍なのかわからない。
しかし社へとたどり着くための入口が、事前調査では無かった鉄格子によって塞がれている。
宮木が局の美術班と共に先発隊としてこの山中に到着して、かなりの時間が経つ。
撮影のために必要な準備を先行して進めるために、本隊に先んじてこの場所にやってきている。
だからいずれディレクターの奥村含む本隊がやってきたとき、まだ撮影準備が整っていないとなれば、宮木は直属の上司である奥村に何をされるかわかったものではない。
いや、最悪の場合撮影そのものが中止になる可能性もある。
事前調査の結果を報告したのは宮木自身だったのだから、反省文どころでは済まない可能性もあった。
ここまで順調に下準備を進めてきた先発隊の前に、突如としてそのようなイレギュラーな事態が発生し、宮木はこの小さな洞窟の入り口で美術班の面々と共に腕を組んで立ち尽くしていた。
「地主に撮影許可はもらってるんだよね?」
美術班のリーダーである三田村が宮木に言った。
「もちろんです。でも、下見の段階ではこんなもの無かったんですけどね」
この辺り一帯の地主には当然撮影許可を取っていた。
そのための謝礼も支払うことになっている。
「じゃあどうするの。入口撮ってはい終わりってわけにはいかないでしょ。地主に連絡は取ったの?」
三田村にそう言われても、ここは山中奥深くである。
携帯の電波は当然ここまで届いていない。
地主に今から連絡を取る事は困難だった。
唯一の連絡手段として先発隊と本隊それぞれ数機のトランシーバーを持っていたが、
それでも地主のいる長野市内まではむろん届かない。
そして本隊はすでにこちらに向かっている。
今から山を降りて地主に確認を取る余裕もなかった。
宮木は腕を組み、思考を巡らせ、
「開けますか」
と、ぽつりと言った。
「それは器物破損じゃないの? 責任は取れないよ? 俺は」
「やむを得ません」
宮木は三田村に対してというより、自分自身に対して納得させるように、
「地主には洞窟内部の撮影をする許可を取ってありますから。
それに大した鉄格子ではないですし、撮影後に局が修理費を持つということで」
と言った。
厳密に言えばたかがチーフAD、ディレクターとアシスタントディレクターの中間の地位にいる宮木に、修理費の負担うんぬんを決める権限は持たされていない。
だが、このままでは今回のロケ自体が崩壊することは目に見えており、
予測不能な事態が発生した以上、事情を説明すればうまくやれるかもしれない。
宮木はそう考え、美術班へ鉄格子をこじ開けるよう指示を出した。
美術班は三田村がリーダーとしてまとめているが、「班」と言っても三人しかない。
若槻、相沢、そして三田村の三人が今回のロケに美術班として先発隊の中に宮木の元へ随行している。
彼らは撮影のために必要な下準備を整えたり、
あるいは現場で物理的な障害が発生した場合、持前の技術でこれを解決する役割を担っている。
それら美術班の男たちが、鉄格子の解錠に取り掛かった。
鉄格子自体は人や動物の侵入を妨げるに十分な強度を持つものであったが、
大きさは縦も横も一メートルあるかないかという洞窟の入口に沿ったものであり、鍵もごく普通の南京錠で閉じられていた。
三十分も経たないうちに南京錠は外され、
鉄格子はヒステリックな金属音を立てて開いた。
「開いたはいいけど、これ雰囲気ぶち壊しだねぇ」
三田村が開いた鉄格子を見ながらつぶやいた。
確かに、視聴者に「捨てられた聖地」を想像させるには、この真新しすぎる銀の光沢を持つ鉄格子は明らかな異物であった。
「何とかできませんか、こう、錆が浮いてる感じに」
宮木に言われ三田村はなるほど、と頷いた。
「まあ鉄格子を完全に取り払っちゃうってのもアリだが、それをやると後が面倒になるだろうしな」
「お願いします。うまく古ぼけて朽ちたペイントができれば、かえって不気味な雰囲気が出せるかもしれません」
宮木には、この洞窟を封印するかの様に閉じられた鉄格子を見て、怖がり慌てるゲッティ―坂田の姿が目に浮かんでいた。
──これならば奥村から叱責を受けずに済むかもしれない。
宮木はそう閃いて、奥村の巨体を思い浮かべていた。
このような行為を、彼らは“仕込み”と呼ぶ。
よく一般では「やらせ」と混同されがちであるが、この手の番組には必要な下準備と工夫だった。
幽霊が出るという場所に出演者をキャスティングして、さらにスタッフとカメラを連れて行って『何もありませんでした』では済まないからである。
「了解」
と、三田村はごく短い言葉で答えて、部下の男たちに指示を出し始めた。
美術チームはただちに、鉄格子の「メイク」を始めた。
スプレー缶を何種類も取り出しそれを何重にも吹きかけ始める。
さらにドライヤーで乾かさせ、乾いた塗料の表面にドライバーでがりがりと傷を入れる。
さらに幾分かスプレーを吹きかけ調整し、
やがて見事な『錆びて朽ちた鉄格子』が出来上がった。
──思ったより時間はかかったが、何とかなったか。
宮木はほっと胸をなでおろした。
あとは、洞窟内を確認し、
山の麓との間にあるベースキャンプで本隊の到着を待てばいい。
本隊が山の麓まで来たときに、
ベースキャンプでトランシーバーによる連絡を受け取る段取りになっていた。
──やっと、自分の仕事はほぼ無事に済みそうだ、念のために洞窟の内部も確認しておくか。
──グシャ。
宮木が安堵のため息を吐きかけたその時、背後で音がした。
土に何かが叩きつけられた音。
「おい、どうしたッ!」
三田村が怒鳴る。
宮木が驚いて振り返ると、美術班の男の一人が、倒れていた。
相沢という若い男だ。
「なんだ、大丈夫か? ぼけっとしてんなよッ」
三田村が相沢という部下に駆け寄り、足でつついて言った。
「だい……じょうぶ……です」
相沢はそう答るが、顔色がひどく悪い。
もう一人の美術班のメンバーである若槻も、その様子に驚いたのかその場に立ち尽くしている。
「ったく、仕方ねえな」
三田村はそう言って相沢のそばにしゃがみ、
宮木に対し「俺はこいつを看ているから、念のため洞窟の奥の社を見てきてくれ」と頼んだ。
「わかりました、確認してきます」
宮木はそう言うと、先ほどからずっと後ろで様子を窺うように立っている男を手招いた。
「半藤さんも、よろしければお願いします」
半藤と呼ばれた男は、猟師らしく無愛想な表情をまったく変えずに、頷いた。
肩には猟銃を一丁担いでいる。
長野県では、山菜取りなどで山中に入った住民がヒグマに襲われる事件が、ごく稀にであるが発生している。
そのため、万が一のために、ということで局側が長野市内で手配した人物だった。
年齢は四十代の後半か、五十代くらいであろうか。
白髪混じりの頭髪と薄く頬に生えた髭、細い目と日焼けした顔が、彼が老練な猟師であることを感じさせる。
二人が覗き込む洞窟の入口はひどく狭い。
宮木たちはライトをつけ、しゃがみこんで洞窟内へ入った。
細い通路が続いている。
ひんやりとした空気が辺りを漂い、壁や足元は水で濡れていた。
半藤は、無言で宮木の後ろをのっそりととした動作でついてくる。
やがて、やや広い空間に出た。
宮木たちはそこでようやく真っ直ぐに立つことができた。
どうやら目的の社はもう少し奥にあるようだ。
宮木はパンパン、と服についた汚れを払った。
「参ったな。出演者たちが文句をたれるぞ」
今回の出演者たち、ゲッティー坂田ともう一人用意された“霊能力者”は各自で衣装を用意してきている。
それらが汚れると、面倒なことになる。
局アナである陽子はともかくとして、きっと彼らは不満を口にするだろう。
この狭い入口を通過すれば、泥と湿気で彼らの衣装はまず、ひどいことになる。
宮木は恐らく自身に向けられるであろうその苦情を想像しながら、苦い顔を作った。
──まあ、田辺に対応させればいいか、そこは。
その時だった。
凄まじい叫び声が聞こえた。
驚いて宮木と半藤が振り返ると、悲鳴は洞窟の入口の方から聞こえてくる。
それは、豚が下手な屠殺係に殺される際の悲鳴のように、
狂に満ちていた。
洞窟内の通路に反響して届く甲高い狂声が、事態が尋常では無い事を物語っている。
悲鳴は長く突き上げるように続いた後、断続的なモノに変わり、
やがて弱々しくなって、そして途絶えた。
少なくとも宮木らがいる洞窟内部に悲鳴は聞こえなくなった。
宮木は、その間立ち尽くしていた。
──事故か?
何か事故が起きたらしい。
誰かけが人でも出たのだろうか。
──いや、しかしそれにしては異常な叫び声だったぞ。
半藤が、どうするのだ、という表情で宮木を見ている。
「と、とりあえず、戻りましょう。何かあったみたいだ」
宮木たちは急ぎ、洞窟の入口へと戻ろうとした。
細く天井の低い通路を再び引き返す。
事故だと。畜生。
もうすぐ本隊もやってくるというのに──。
──バスが速度を落とすのを感じた。
新宿を出た時とは違いすでに陽は十分に昇り、バスの窓から明るい光が射し込んでくる。
陽子が眩しさを感じて目を開くと、どうやらロケバスは長野市内に入ったようだった。
予定ではここで“現直”している予定のゲッティ―坂田と、
さらにもう一人、局が用意したという“霊能力者”と合流することになっていた。
市内はまだ午前中であるためか、
周囲は通勤のために歩く人や車、通学途中の学生などであふれていた。
やがてロケバスが比較的大きな建造物の駐車場に停められた。
するといつの間に目を覚ましていたAD田辺が、素早くバスのドアを開け、
「ホテルに到着です。よろしくお願いします」
と言い、バスを降りて駆けて行った。
スタッフの面々が眠そうな目をこすりながら降りると、お笑い芸人ゲッティ―坂田と、そのマネージャーの男が立っていた。
田辺が駆け足で彼らに近付き、
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」と挨拶をする。
マネージャーの男が「後藤です。本日はお世話になります」と笑顔で名乗り、
今回のロケの主役である坂田は「どうぞよろしくお願いします」と、一同に深々と頭を下げた。
ゲッティ―坂田は小柄で痩せた男だった。
その風貌は貧相で、どこかネズミのような小動物を思わせる。
緊張している、というより恐縮しているような印象を与える笑顔を見せて、撮影隊の到着を待っていた。
彼の恐縮したような挙動は、あるいはわざとなのかもしれない。
あえて自分を相手の目下におくことで、相手の好感を得ようとしているのかも知れなかった。
彼の芸歴の長さからして、十分にありえることだった。
そのあたりの知恵は身につけているだろう。
これに対し、彼のマネージャーである後藤はまるでプロレスラーを思わせるような堂々たる大男で、
その体格に似合わず顔には柔和な笑顔をたたえていた。
そのためにこの二人、坂田と後藤にはある種の滑稽さがあった。
貧相な主人と堂々たる従者、そのような印象を見る者に与えた。
彼らは予定通り昨夜からこのホテルに宿泊していたようだった。
すでに出発の準備は終えているようで、坂田のマネージャーである後藤は坂田の衣装など様々な荷物が入ったトランクを抱えている。
ゲッティー坂田一行とスタッフたちの挨拶が一段落したころ、ディレクターの奥村が辺りを見回し、
「あれ、先生はまだかな」
と言った。
「もう到着されているはずですが」
田辺がそう答えた時、ホテルの駐車場に停まっている一台の黒塗りの車のドアが開き、中から人影が現れた。
「どうも、お待ちしておりました」
と、車からは何やら仰々しい髭を蓄えた中年の男が出てきて、撮影隊に向かって挨拶をした。
きれいに頭髪を剃り、古ぼけた袈裟を身にまとった僧のような恰好の男だった。
「これは、道明寺先生。失礼いたしました」
奥村が巨体を揺らして駆け寄り、笑顔でお辞儀をする。
陽子はこの道明寺という人物を局内で見かけたことがある。
フルネーム──もちろん芸名であろうが、道明寺浄雲とかいう「霊能力者」だ。
今回のロケに出演者としてやってくることを聞かされていた。
この長野県の山中で怪奇事件を調査する内容の番組は、怯える坂田とそれをなだめる陽子、そして頼りになる霊能力者道明寺、この三人を出演者として企画されていた。
「本日はお世話になります。先生」
陽子は丁寧に挨拶をし、道明寺に頭を下げる。
それを受けた道明寺は、陽子の顔から下半身にかけて一通り目線を走らせた後、
「うん、よろしく」
と、ごく淡白に答えた。
道明寺は僧が着る古い袈裟を身に纏い、足袋と草履を履いている“いかにも“といった出で立ちの男であり、全身からはわずかに香の匂いが漂ってくる。
本人いわく、霊視及び徐霊が可能であり、これまで幾度も霊に取りつかれた人を祈祷によって祓ったり、予知をしたこともあるという。
実際にその様子もいわゆる「心霊番組」で映像を通じて全国に流れた。
陽子は「霊能力」というものに対して懐疑的な考えを持ってはいたが、
そこはおそらく彼女の所属する局の人間たちも同様であった。
しかし、道明寺の持つ独特の雰囲気をいかにも格調高く見える古い袈裟や数珠が増幅させ、
視聴者に対してただ者ではないと思わせるに十分なインパクトを持たせていた。
確かに山奥で厳しい修業を積んだ山伏のようにも見えるし、俗世に戻った密教僧のようにも見える。
彼が何者であり、どのような経歴の持ち主なのかということは常に視聴者の関心事ではあったが、
それは番組の制作者たちにとっては、実のところさほど重要ではない。
事実、この道明寺浄雲という人物は、
十数年前までは売れない俳優志望者の一人であった。
それが僧形の出で立ちに「イメージチェンジ」し、テレビ番組のオーディションに『霊能力がある』とアピールして合格したことがきっかけで、いわゆる心霊番組に出演するようになった。
つまり、“霊能力者系キャラ”というわけだ。
要するに番組の制作者側としては、彼をこの手の番組に出演させて“それらしい”事ができるかどうかが重要なのであって、その能力の真意はさほど重要ではない。
その点、実際に使ってみたところ彼は十分な素質を持っていた。
視聴者の反応も上々だった。
だから今回の起用もそのような理由からであった。
もちろん、もしも彼の霊能力が偽物であるならば、「局」にはいざという時にいつでも「騙された被害者」になる用意ができていた。
視聴者の皆様を騙した責任はあくまで道明寺本人にあり、決して「局」ではない、という格好だった。
そのような事情は無論、陽子や坂田は勿論、奥村でさえも知らない。
「知らなくてもよい事」だった。
ADの田辺が大きなダンボールをバスに運び込んでいた。
撮影隊の食糧と飲料である。
先発隊はこのホテルに立ち寄り、すでにこのダンボールの中から各自の分を持ち出して現地へ向かっている。
その残り──つまり「本隊分」を田辺はロケバスに運び込んでいたのだ。
「準備できました。それでは、現地に向かいましょう」
田辺はダンボールを積み終えるとそう報告して呼びかけた。
合流した出演者たちと食料を乗せて、ロケバスは再び動き出した。
撮影隊はバスの車内で遅めの朝食をとった。
撮影は一日で全て終わらせる予定になっているため、次の食事は夕方に山中のベースキャンプに到着するまで、摂ることはできない事になっていた。
撮影隊と出演者たちは、各々揺れる車内の中で弁当の蓋をあけて中身を口に運び、ペットボトルの飲料にそのまま口をつけている。
ドライバーの初島が後ろを振り向き、田辺に言った。
「ところで食料って積み込んだ分しかないみたいだけど、これだけじゃ昼の分は足りなくならないかい? ベースキャンプに置いてあるの?」
「あれ……? ちゃんと二食分発注したはずですが」
「そう? 足りないみたいだけど」
田辺は慌てて積み込んだダンボールの中身を確認した。
そして、「しまった」という表情を浮かべ、
「ちょっと足りないかもしれません……。おにぎり程度は先発隊が洞窟前の山小屋に運んでいますが、飲み物は……」
「これしかないわけね」
初島はやれやれという顔をして、再び前を見た。
その様子を一部始終見ていた車内の面々は、飲みかけのペットボトルから口を離し、
無言で蓋をして各々のカバンやリュックに詰め込み始めた。
ごつん。
と、奥村が田辺の頭にげんこつを振り下ろした。