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回帰 終宴


陽子は、薄い月明かりに照らし出されるように、その空間に立っていた。


視界は全てが鮮明であり、見ようと望む物ははっきりと目に捉える事ができた。


強い不快感と突き上げるような苛立ちは通り過ぎ、今は水の中に浮いているかのような心地よい感覚が脳を支配している。




何も、怖くなかった。

この暗闇に支配された空間において、全てが自分の味方だった。


隣で横たわる死者たちも、自分を励ましてくれていた。



不幸な、事件だった。

今日の予定は、ただのバラエティ番組、その中のさらに一企画という小さな撮影を行うだけのはずだった。



散々な出来事といえた。


最悪の一日になったといえる。



──今日の出来事は、何のために自分へやってきたのだろう。



そのように考える事は、例えば幽霊がいるかどうかということや、

目の前の器に注がれた水は「神の加護を受けた聖水」なのか、それともただの「H2O」と呼ばれる液状の物質なのかを考えるということと同義であり、客観的には無意味な時間の浪費といえた。


要するに自己陶酔の一種なのであろう。


陽子はこれまでそう考えてきた。


陽子は自己啓発本というものを読んだこともないし、その手のセミナーに通った経験もない。


したがって今日という一日に、常に何らかの意味があるかどうかなどと考えたこともないが、

それでも一連の、今日自分に襲いかかってきた災厄に対して、“なぜ、自分が”と、問いかけてみたくなった。



やはりそう思考することは、目的となった疑問へ結論をだすという意味ではただの時間の浪費にすぎなかった。

が、考えることで自己の意識をそちらの方へ向け、“あるもの”から背けることはできた。


自身の目の前に徐々に迫って来る壁のような恐怖と暗黒に対して。



今は、気にならない。



自分が、自分自身がそれらと同化してしまったためだ。

恐怖の対象に自ら飲み込まれて目線を共にしているからだ。



だから、怖くなかった。



陽子は、すでに青紫色の死斑の浮かび始めた宮木の顔を、そっと撫でた。


すると宮木はにっこりと微笑みを返してくれた。



「あと少しだよ、頑張って、陽子ちゃん」


その宮木の諧謔味満ちた笑顔に陽子は顔をほころばせ、答える。



「うん、頑張るよ、宮木君」




帰ったら、一緒に食事なんて、どうだろう。

もちろん、社員食堂でも構わない。


そうだね、一度ゆっくり、お話してみたいね。


陽子はにっこりと、瞳孔の開ききった宮木の目を見つめて、笑った。


その笑い声は、暗闇が抱きとめてくれた。



そして、陽子は視線を宮木から地面へと移した。


黒く乾燥した物体が転がっていた。


『御神体』、つまりアヘンだった。


陽子はそれを両手で丁寧に持ち上げ、崩れかけた社へと運んでいった。


そして、アヘンを社の中へと戻し、跪いた。

小さな社の前で跪き、陽子は両手を合わせて祈った。




ふと誰かの手が、陽子の顔を撫でた気がした。

それはとても冷たい手だった。


その冷たさが、とても心地よく感じられた。



陽子がその心地よさに陶酔したかのような表情を社へと向けると、何かが小さな社から出てきた。



それはゆっくりと、もやのように姿を現す。


そして、濃霧のようにこの空間へと広がっていくようだった。


そうやって何かが空間に満ちていくのを、まるで高貴で神聖な物でも見るかのように、陽子は潤んだ目で見つめる。



「きれいだなぁ……」


陽子は湿った唇と開け、ぽつりと呟いた。




背後で音がした。


──あれ? 何か光ったな。




それが、陽子の最期の意識だった。





「は、はははっ! はははは! やった、やったぞ」


空間の入口に、後藤が立っていた。


手に持たれた猟銃からは、煙が立ち昇っている。


猟銃から放たれた弾丸は、正確に陽子の頭部に命中し、それを吹き飛ばしていた。



「ざまあみろ! わかっていたことだ! ははっ最初から!」


後藤は誰もいなくなったその場所で、高らかに笑った。




勝者。

俺が、勝者だ。



「手こずらせやがって、無駄なあがきだとわからなかったのか」


後藤は興奮する気持ちを抑えようともせず、倒れた陽子へと近づき、生死を確かめた。


確かめるまでも無かった。

頭部を破壊されて生きている人間などいない。


例え、薬物で強化されていようと。



陽子は完全に絶命していた。




──当然だ。

後藤はにやける顔をそのままにして、陽子の衣服のポケットをまさぐった。


そして、ICレコーダーを取り出して、それを見つめた。




「残念だったな、俺の勝ちだ」


そう言って、思い切りICレコーダーを壁に向かって叩きつけた。


レコーダーは、パキィッという音を立てて、ばらばらに砕けた。



勝った。


予定通りの勝利。


だが、悪くない。

気分は悪くないぞ。


後藤はバラバラに砕けたICレコーダーの残骸に向かって銃を向け、引き金を引いた。


レコーダーの残骸は完全に粉砕された。


もはやどのような人間でもあれから記録された音声を取り出すことはできないだろう。




後藤は静寂を取り戻した周囲を見回した。



死者しかいなかった。

自分の他には。



自分だけが、唯一の生者。



「はははは! ハァハァ…… はははッ!」


後藤は荒い息を吐きつつ、勝利の余韻を味わった。



さあ、あとは入口を塞いで、戻ろう。


おっと、「事故」の通報もしなくてはな。


まったく、今日は本当に忙しかった。


しばらくは大人していよう。

なに、仕事などいくらでも見つかるさ。


この事故での話題性を生かして本でも書いてみるものいいかもしれない。


俺は悲劇の生還者だ。

それを利用してひと儲けするのもいいじゃないか。



「くっく……」


後藤はこみ上げてくる笑いを自重することができなくなっていた。



まぁ、とにかく、帰ってからゆっくりと考えるとしよう。


まだ店じまいの作業が残っているのだから。


後藤は猟銃の指紋を丁寧に拭き取り、それを陽子の死体に握らせた。


そして、月明かりの射しこむその空間を後に、笑顔をたたえて去った。







──誰もいなくなった空間で、何かが蠢いていた。


人ではない。

死者でもなかった。


それは空気の中に散乱しているようでもあり、影のように地を這っているようでもあった。


暗闇に蠢くモノは、初めからこの場所に居た。

それも長い時間の間、ここから動いていない。


「時代」というものが何度も転換する長い間、ここに居続けている。


見える者と、そうでない者がいるらしい。

あるいはその中間的な、“感じられる者”もいた。


ともかくそういった者が幾度かこの場所にやってきた。


やってくると、彼らは何かを始め、とても幸せそうな顔をして時が流れる様を楽しむのである。


こちらの存在に気づき、何事かをし始めた者もいた。


が、それに対して何かをして答えたことはない。


それなのに彼らはこの場所に小さな社を立て、まるで自分がそこにいるかのように祀った。


そして掌を合わせ、祈るのである。



「暗闇に蠢くモノ」は、そうやってやってきた人間たちが祈りを捧げる様や、自分の目の前で狂態を演じてきた様子をただ黙って見続けてきた。



そうするうちに、どうやらそれが、そういった光景が目の前で日々続けられていくことが、自分にとっての日常だと学んだ。


“思い出した”とも言えたかもしれない。



ただ、稀に、目の前で狂態を演じ続ける人間たちの中で、まるで目を覚ましたかのように別の行動を取り始める個体がいることがあった。


すると目の前の他の人間たちは、その個体に対して騒ぎ立てる。



「暗闇に蠢くモノ」はその様子を興味深げに眺めていたが、どうやらその個体は“和を乱す者”らしいということを理解した。


だから、自らの“日常”を保つために、そういった個体に対してちょっとした作用をかけてやる事があった。


「暗闇に蠢くモノ」にとって、それが自らが意識を持ち始めてからの唯一の能動的な行動だった。


日常を守る事。


この洞窟と呼ばれる空間で日々おこなわれてきた光景を守ること。


「暗闇に蠢くモノ」は、それが自身の存在意義だと定義付けた。


それ以外の事は、これまで何もしていない。


これからもそれ以外の事をするつもりはなかった。


それがこれからも自身が「在り続ける」ということだと認識していた。


そして、「暗闇に蠢くモノ」は今、死者の世界から抜け出そうとする一人の生者の足音を、湿った眼で見つめていた。





後藤は暗闇の中を光を探して歩いていた。


月明かり降り注ぐ外へ。

しかし、その光はいつまで経っても自分の視界に見えてこない。



──焦る必要は無い。


気持ちがまだ落ち着いていないだけだ。


興奮がまだ冷めていないだけだ。


道を間違えただけだ。


だが、それはただの願望に過ぎなかったことを、後藤はすぐに思い知ることになった。




「どういうことだ……」


散々に歩き回った後藤の目の前に再び現れたのは、積み重なった死体と、小さな社だった。


後藤は周囲を見回す。


この空間に通路は一つしかない。


去って行った道を再び戻らない限り、ここにやってくるはずが無かった。




──自分は確かに出口に向かっていたはずだ。



おかしい。



もう一度、もう一度だ。

気を取り直して再び出口へと向かう。


しかし、現れた光景は、またしても天井から月明かりが射しこむ異様な空間だった。




疲労だけが、後藤の体内に蓄積されていく。

足取りも次第に重くなっていく。


「なんだ……? どうしたんだ、いったい……」


ふと、誰かが自分を笑う声がした。



「誰だ!? どこに隠れている!?」




しかし、誰もいない。

横たわった死者たちが、うつろな目線を宙へ投げかけているだけだった。


後藤は注意深く目を凝らした。


そして短く悲鳴をあげた。


突如横たわる死者たちの顔が、すべてこちらを向いて笑ったような気がしたのだ。



「う、うわッ」


驚いてよく見ると、やはり積み重なった死体は様々な方角を向いており、こちらを見てはいない。



──幻覚だ。疲れているんだ、俺は。


振り返り、再び出口へ向かおうとした。




その足首を、何かが掴んだ。


驚いて下へ目をやると、頭部の粉砕された里見陽子が、しがみついていた。




「うわあああああッッ」


反射的に足を振り上げ、しがみつく陽子の手を振り払った。


陽子の腕は空中に弧を描くように移動し、そのまま地面に落ちた。


そして仰向けになったまま、動かなくなった。




「なんだ、なんなんだよおおおッッ」


後藤は自らが捨てた猟銃を再び手に取り、それをひたすらに撃ちまくった。


弾が完全に底を尽くまで、周囲に転がる死体へむけて引き金を引き続けた。


その度に、まるで狼狽する後藤を嘲笑するように死者たちが体を跳ねさせた。


死者たちがダンスを踊って彼を嘲け笑っているようだった。


「くそ……ッくそッ……!」


やがて全ての弾薬を撃ちつくし、熱を持った銃身とそこから立ち上る硝煙の臭いを嗅ぎながら、後藤は立ち尽くしていた。




誰かが肩をぽん、と叩いた。



「ひッ」


思わず悲鳴をあげて後藤が振り向くと、男が立っていた。





初島だった。


「痛いじゃないか……後藤ちゃん……。お前さんのせいで、ほら」


と、初島は自身の腹に空いた大きな穴を両手で広げて見せた。



「どうしてくれんだい? ほら、これ。ははは、あはははハハはは」


「うわああああッッ」


後藤は弾の尽きた猟銃を、目の前で笑い続けている初島へ向かって振り下ろした。


そして、何度も何度も、動かなくなるまで打ちつけた。


初島は、ケタケタと笑いながらされるがままに打たれ続け、最後の短い笑いを発して倒れ、動かなくなった。


後藤はパニックを起こしかけていた。


もはや、目の前で起きている現象は、自身の許容量をはるかに超えていた。


理解できない現象が起きていた。





そして、静けさを取り戻したその空間で、ふと我に帰った。


今、呼吸をしているのは自分だけだった。


この閉じられた暗黒の空間で、存在する命は、自分一人だけだった。




だから、恐ろしかった。

全身を凍りつかせるような恐怖が、こみあげてきた。



孤独。


後藤は孤独を感じていた。


体中の体液という体液が、流れるのをやめたかのように、後藤の意識を冷やしていく。


静寂がそのまま恐怖へと変換されて後藤の全身にまとわりついてくる。




──早く、早く外へ。


もはや後藤は形振りなど気にしていなかった。


とにかく外へ。

追ってくる獣から全力で逃げるように、ひたすらに駆けた。


後ろを振り向くことなど、一度もなかった。


出口への道順を考える余裕も、東京へ戻った後のことも、何も考えることができなかった。


ただひたすらに、恐怖に追われ、駆けに駆けた。


やがて、息が切れ、再び顔をあげると、目の前に小さな社が佇んでいた。




「帰して……」


自分の声かと疑いたくなるほどのか細い声が、後藤の口から出た。


口の中がからからに渇いている。

息を吸い込む度に、冷たい冷気が喉を刺した。



後藤は社の前に跪き、もう一度、大きく叫んだ。


そう叫んだ後藤を、暗闇全体が笑いながら飲み込んだ。


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