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闇を、呑む



──どうすればいいのか。


陽子は途方に暮れた思いで洞窟を歩き続けた。


すでに懐中電灯は無い。


ほとんど手探りのような状態で、濡れた壁に手をあてて慎重に歩く。


途中、道明寺と三田村の死体が地面に転がっていた。


陽子らがあの時、事件を目撃した時そのままの姿で彼らは横たわっていた。


彼らが向けるうつろな視線は、お前もじきに俺達の仲間になるのだと、そう言っている気がした。




そうはならない。

何とか脱出する手段はあるはずだ。


そう思って、陽子は彼らから向けられる死者の目線を歯を噛みしめて無視した。




「確か、もうひとつ出口があるはず……」


陽子は先に宮木と共に脱出した際に使った、天井の抜け穴を思い出していた。


「ユメガミサマ」が祭られているとされた社のすぐそば、身体一つ通すのがやっとな大きさの天井にできた小さな穴だ。


その小さな穴から降り注ぐ夕陽の明かりが、あの時は希望の光に見えた。


その光の姿が、今の陽子にもわずかな希望を与えている。


今はその時一緒にいた宮木も半藤も、おそらくこの世にはいない。


自分だけがこの暗闇に取り残されてしまったという感覚が、滲み出る湧水のように陽子の胸にこみあがってくる。



もう一度、あの場所へ。

すがるような気持ちで、陽子は歩を進めた。




天井に空いた穴は、やはり一人で登るには高すぎた。


どのくらい歩いただろうか、すでに日は落ち、薄い月明かりが射しこむその天井を見つけた時、

陽子が抱いたわずかな希望も打ち砕かれたように感じられた。



「だめだ……やっぱり出られない……」


天井に空いた脱出路を、愕然とした思いで陽子は見上げた。


そして、射しこむ月明かりに浮かび上がるようにして現れた物があった。


「ユメガミサマ」が祭られているという小さな社──


その、残骸と言ってよかった。

社は半藤によってほぼその形を留めないほどに破壊されていた。


祈る神がいるのなら、祈りすがってでもここから帰りたいという願いが陽子にはあった。


が、目の前で朽ちた神の祭壇は、到底願いを聞き届けてくれるような代物ではないということが、陽子をさらに失望させた。




ふと、誰かの視線を感じたような気がした。


ほぼ反射的に背後を振り向くが、誰もいない。

だが、確かに何者かの気配を感じている。


思えば、「それ」は、初めてこの洞窟に足を踏み入れた瞬間から、感じていたのかもしれない。


どこまでも地の底へ続いているかのような暗闇の中に、かすかに感じる違和感。


──この違和感は、なんだろう。


陽子はしばしばそれについて思考を巡らしていた。


しかし、それに対して論理的な解答を導くことができないでいた。


ふと、洞窟内に流れる冷気に乗るようにして、細く冷たい声が聞こえた気がした。




──おいで。


それは、そう聞こえたように思えた。





それとは別に、声が聞こえた。


男性の声だ。


男性が呻く声が、どこからか聞こえる。



「……誰? 誰かいるの?」



陽子が辺りを見回すと、視界の中に何か蠢くものがある。



「そこにいるのは、誰……?」


その“蠢くもの”は、こちらが気づいた事を知ると、なおも陽子の注意を引こうと体を激しく揺らし、呻き声を大きくした。



陽子がそれにゆっくりと身構えながら近寄っていく。


やがて薄暗い洞窟の中で、見なれた薄汚れたカーキ色の作業服が目に映った。



「……半藤さん!」


月明かり射し込む空間の隅にいたのは、猟師半藤だった。


両手両足を縄で縛られており、口にも布が当てられた姿で地面に横たわっている。


意識ははっきりとしているようで、もごもごと何事かを言いながら、しきりに体をバタつかせている。



「待ってて! 今ほどいてあげるから」


陽子が縛られた半藤に駆け寄り、彼の手首と両足に巻きつけられた縄をほどき始める。


縛りは硬い。

が、何とか道具を必要としなくてもほどくことができそうだった。


半藤はかなり負傷している様子だった。

頭部からは血が流れている。

が、これは負ってからだいぶ時間が経過しているようで、すでにそこからの出血は止まり、血は乾燥していた。


それとは別に、顔面や腕に打撲のような痕が無数にあった。

おそらく服の下にもあるのだろう。

誰かに襲われ、ここに閉じ込められていたのだろうか。


誰か、と言っても陽子の脳裏には後藤の姿しか映らなかったが。


半藤はかなり衰弱した様子で、頭をぐったりと垂れながら、陽子に身を任せている。



「……ほどけましたッ、半藤さん、大丈夫ですか? 動けますか?」


手足の縄をほどかれ、轡を外された半藤は、陽子を見あげると目を細めて言った。



「すまん……すまんな」


そう言って半藤はゆっくりと立ち上がった。



「いえ、無事でよかった……本当に」


「……」


「……半藤さん?」


「すまんな、俺は……」


縄から解放された半藤の腕が、ゆっくりと地面へ座りこんだ陽子の首へと回されていく。

それは正確に陽子の首を捉えると、半藤は大きく息を吸い込んだ。



「は、半藤さん!?」


「すまん……」


大きく息を吐き出すようにしてそう言った半藤は、突然陽子の首にかけた両手に力を込めて締めあげ始めた。



「──なッ!? は、はんど……うさんッッ」


「すまん、こうするしか、無いんだ」


半藤は顔面に汗を浮かべながら、必死の形相で陽子を見ていた。

首を絞める力がさらに増してゆく。



──本気だ。


半藤は本気で首を締めにかかってきている。

本気で自分を殺そうとしてきている。


しかし、半藤はひどくつらそうな顔を浮かべていた。


全身に負った傷のためか、込められる力にむらがある。

咄嗟に、陽子は首を絞める圧力から逃れるため半藤の下腹部を蹴りあげた。



「──グウッ!」


という呻き声をあげて半藤がよろめく。

首に掛けられていた半藤の両手から解放されて、陽子が激しく咳き込む。


そして半藤の方を見た。


満身創痍、といった様相だった。


半藤は荒い息をつきながらふらふらと再びこちらに向かってこようとしている。

全身が傷だらけだった。

自分よりもはるかに重傷のように見える。



──半藤も薬物に?


陽子が疑問を思い浮かべたが、それを口にするまでもなく、半藤が自らそれに答えた。



「言っておくが、『正常』だよ。俺は」


「そ、それじゃ、どうして……?」


「仕方ないんだ。解放されるためには、あんたを殺すしかない」


「え……それって、どういうことなんですか」


「わからなくていい、もうあまりしゃべらないでくれ、頼む」



「……後藤さんですね? 坂田さんのマネージャーの。あの人から脅迫されているんですね? 生きて解放することを条件に」


「……」


「だったら、だったら! 二人で協力しましょう! 二人でここから出る方法を考えましょう。彼のいいなりになることはないじゃないですかッ。さっきまで……さっきまで私たちは一緒に行動していたのに……」


「……」


半藤は陽子の必死に呼びかけに悲痛な顔を浮かべている。

やはり後藤に捕縛され、ここから生きて帰すことを条件に半藤は自分を殺すように命じられたのだ。


陽子はそう確信した。



「……どうやって?」


陽子の問いかけに半藤が反応を示した。


「また、天井の穴から抜け出しましょう。大丈夫です、これを見てください」


そう陽子はそれまで半藤の手足を縛っていた縄を指差した。


「最初はさっきと同じ要領で一人が上にあがって、これを使って上から下にいるもう一人を引っ張り上げるんです。そうすれば二人ともここから出られます」


「……なるほど。なるほどな……」


そう言うと、「はぁ」、と半藤が深くため息をついた。



「すまなかった。どうかしていたよ。本当に、すまなかった……」


そう半藤は陽子に謝罪した。



「いえ……さっきのことは忘れましょう。二人で、ここから脱出しましょう」


「わかった」


半藤が頷く。



──説得が通じてよかった。


危うく、味方であった半藤に殺されるところだった。

それも薬物のせいではなく。

後藤が自分をここに閉じ込める際に言った、『楽しんでください』とは、こういう意味だったのか。


ともあれ、これで二人とも脱出できる手段が見つかった。


あとは後藤に気づかれないうちにここを出るだけだ。



「先に半藤さんが上にあがって下さい。私が半藤さんを押し上げます。半藤さんは上へあがったら、この縄をどこか木の幹に巻きつけて、こちらに垂らしてください」


うん、と半藤がそれに頷いた。


陽子は天井に開いた穴の真下に立ち、上を見上げる。


月明かりがぼんやりと穴から射し込んできて、陽子の顔を薄く照らす。


半藤が縄を手に持ち、しゃがみこんだ陽子の両肩に足をかけた。



「準備はできた、頼む」


「いきますよ、いち、に、さんッ!」


タイミング合わせて陽子が半藤の両足を全力で押し上げる。


半藤の体は勢いを受けて持ち上がり、最後に自らの両足で陽子の肩を蹴って天井の穴を目指して跳躍する。


半藤の両手が天井の穴の淵を掴んだ。



「……ぐ、うッ!」


全身に負わされた怪我が痛むのだろう、半藤は苦しそうな呻き声をあげて穴をよじ登った。



時間はかかったが、何とか半藤はもがくようにして穴を這いあがることができた。



「……よし、大丈夫だ。待っててくれ、今この縄を巻きつけるところを探してくる」


半藤は穴の上から陽子を覗き込んで言うと、周囲を見渡して縄を結びつけられる樹木を探し始めた。


陽子の頭上、天井に開いた穴の先で、半藤が草木を踏む足音が聞こえる。


息を整えながら、陽子は半藤が縄を穴から垂らすのを待った。


これで、何とか洞窟からは出られそうだ。


あとは後藤に気づかれずに森を抜けられるかどうかだ。


森を無事に抜けたら、すぐに警察に連絡を取ろう。


山を降りさえすれば、携帯電話も使用できるようになるはずだ。


陽子の脳裏に自身が生き残る方法と、後藤への報復の手段が徐々に浮かび上がり始めてきた。




──突如、何かが激しくぶつかる音が聞こえた。



「……半藤さん?」


返事はない。


「どうしたんですか? 何かあったんですか? 半藤さん?」


半藤はそれに答えない。



穴から射し込む月明かりが遮られたかと思うと、何かが降ってきた。


ドサッという音をたてて穴から落ちてきたものは、半藤の体だった。



「──!? 半藤さん! 大丈夫ですか!?」



陽子が突如として降ってきた半藤に駆け寄り、その様子を確かめた。


半藤は、宙を見上げたまま動かない。


胸に手を当てて心臓の鼓動を確かめる。


鼓動は、止まっていた。


半藤は、絶命していた。



──何が、何が起こったの……?


陽子が突如降ってきた半藤の遺体を見つめ、動転しかけた意識を集中させようとしていた瞬間、頭上からはっきりした声が聞こえた。



「よう」


それは後藤の声では無かった。

だが、聞き覚えのある声だった。


天井にあいた穴から、月明かりとともに、男が顔を覗かせている。


陽子は顔を見上げ、それを凝視した。



「……初島さん」


ドライバーの初島だった。

彼は、てかてかと脂を浮かせた丸い顔と細い眼を崩して、こちらを見おろしていた。


一瞬、初島が自分を助けに来てくれたのではないか、陽子はそう思いかけた。


だが、それは次の彼の一言で、もろくも崩れ去った。



「まだ生きてたのかい。ちょっと、意外だったなぁ。ハハハハハハハ」


アハハハハハ、ハハアハアハ、ハハハハ。


陽子の絶望に染まっていく表情を見おろしながら、

初島はまるでお菓子を片手に喜劇を見るかのように、ごく快活に笑った。



「初島さん……あなたが半藤さんを」


「いやぁ。協力プレーには驚いたよ。危うく逃げられるところだった。そうしたら怒られちゃうからね、俺。それにしても、世の中には悪いやつがいるってことだよ、陽子ちゃん」


そう言って、初島は丸い顔に浮いた汗をぬぐった。



「そらっ、もっとあるぞ。感動のご対面だ」


初島は顔を引っ込めた。

陽子がしばらく呆然と天井を眺めていると、何かが穴から降ってきた。


草木の破片、土──そして、人だった。


死体、だった。


宮木だった。



「宮木君!? いやあぁぁぁ!!」


陽子の悲鳴が薄暗い光に照らされた洞窟内にこだまする。


宮木は、鬱血して青黒くなった顔面に、何の感情も見せない表情を浮かべて、その視線を天井へと向けていた。


「そんな…宮木君…宮木君…」


陽子はあふれ出る涙の中に、宮木の生前の顔を思い浮かべていた。




もし勇気を出して自分も闘っていれば、こうなら無かったかもしれない。


恐怖に負け、彼を置いて逃げたことを陽子は悔やんだ。


俺だって生きたいのに。

宮木がぼろきれのようになった身体で、そう呟いた気がした。


その宮木の死体に覆いかぶさるように、何かがまた降ってきた。


赤黒く焼けただれた顔面、腹部に大きく開いた穴。


かつて奥村という名のテレビディレクターだった者の残骸が落ちてきた。


「まだまだあるぞ」


天井に開いた穴から、初島が次々に死体を洞窟内へと放り込んできた。


田辺、的場、久保谷──


かつて共に過ごし、共に語った者たちの無残ななれの果てだった。


ここにいない者たちの遺体は、未だ洞窟内にあるのだろう。



横たわった犠牲者たちを見下ろすように、後藤が初島の脇からそのよく日に焼けた顔を、天井から覗かせた。



「あなたで最後ですよ、里見さん」


「あなたたち、グルだったの……?」


「そういうことです。一人ではほら、大変でしょう」


そう言って、後藤は洞窟内に横たわる犠牲者たちを指差した。



「……私をどうするつもり?」


「別にどうもしませんよ。ここで大人しくしていてください。干からびるまでね」


「なんですって!?」


「入口は塞がせてもらうので。言っておきますが、助けなんて来ませんよ。

ここは忘れられた聖地ですから」


後藤はあくまでもにこにことした微笑みを絶やさずに言った。



「まあ、運がなかったんだよ。いや、運が良かったから最後まで生き残れたのかな」


初島が後藤とともに穴の下の陽子を覗き込む。



「でも、これでさようならだ」


二人の暗い笑みを浴びて、陽子は血の気が引いていくのを感じた。


──だめだ、このままでは閉じ込められてしまう。


この暗闇に満ちた洞窟で、武器も無く取り残されては、あとは死ぬのを待つしかない。


何か手はないだろうか。何か──




「ちょっと待って」


陽子は口を開いた。


有った。

彼らの注意をこちらに引き付ける方法が。


このまま彼らを立ち去らせずに済む方法が。



「これを見て」


そう言って掲げられた陽子の手を、後藤と初島は目を細めて注視した。


彼らの表情は次第に曇っていった。


なぜならば、陽子の手に握られていたものが、ICレコーダーだったからだ。


陽子は山小屋で入手した田辺の所持品であるICレコーダーを、自分の懐に入れていた。


そして、それの再生スイッチを押した。

辺りにノイズ混じりの電子音が響く。





《驚天動地! 山中の洞窟で密かに行われた危険な薬物パーティ!》


《撮影スタッフたちによる退廃的な狂宴。起きてしまった事件。

そしてそこに何も知らずに巻き込まれるものの、奇跡の生還を遂げるゲッティー坂田ッ!》


それは、後藤の声ではっきりと記録されていた。




「……もう一度聞かせてあげましょうか?」


陽子が挑発するように後藤へ向けてICレコーダーを突き付けて見せる。


すると後藤が表情を変えた。



「おい」


陽子の手元に握られたICレコーダーを見つめ、後藤は表情を消して呟いた。



「それを、よこせ」


「あなたのセリフ、そっくりそのままお返しするわ」


陽子は息を整えて、かつて後藤が言った言葉をそのまま口にした。



「これが新聞や週刊誌の紙面を飾ります、するとどうなりますか?」


「おい」


後藤は、言い終えると同時に、天井の穴から猟銃を覗かせた。

そしてためらわずその引き金を引いた。


陽子はとっさに身を動かし、銃口の死角へと潜り込んだ。


轟音と共に地面が爆ぜた。

再び穴から覗かせた後藤の顔には、先ほどまでの余裕が消えていた。


今は、親の仇を睨むような眼で、敵意をむき出しにしている。



「そこで待っていろ。今、それを受け取りに行く」


後藤は、陽子を睨みつけると、初島の肩を叩いて「来い」と言った。



「あ、ああ…。」


初島はあからさまに狼狽した様子で、後藤の後に続いて去って行った。



──成功だ。……なんとか。


彼らが去ったあと、洞窟内に再び静寂が戻った。


再び静けさを取り戻した洞窟の中で、陽子は目の前に横たわっている物言わぬ死者たちの姿を見た。


もはや宮木は、二度と強がりの笑みを見せることもない。


田辺が冷汗を垂らしながら現場を駆け回る姿を見ることもない。


そして奥村、的場、久保田、半藤──


彼らの虚空を睨むような虚ろな視線が、洞窟内を交差している。


だらりと伸びた四肢。

まどろんでいるかのような目線。



──アヘン窟さ。


そう言った半藤の顔が、陽子に頭に浮かんだ。


今、彼女の目の前に浮かんでいる光景は、まさにアヘン窟の退廃的な狂騒を連想させた。


そして、虚ろな目線を交差させる死者たちを背に、射しこむ月明かりに浮かび上がる『神様』の眠る小さな社。



なるほど、と陽子は思った。


疲れ果てた心と体でこの光景を目にしてみれば、確かにこの月明かりに照らされた小さな朽ちた社は、神が宿っているようにも見える。


祈れば通じるのなら、救いを乞いたい気持ちに駆られる。


事実、これから後藤と初島がここにやってきたとき、陽子には何の武器も残されていない。


挑発することには成功したものの、それからの生き残る手段が残されていない。


猟銃を手にした無傷の男二人を相手に、傷ついた自分が勝てる道理は無かった。


このままでは、ただ自分が殺される方法が変わるだけだった。


結局のところ、自分には絶望しか残されていないのだ。



──帰りたい。


生きて、帰りたい。


その思いが、小さな灯火のように陽子の心に残っていた。


やがてその炎は身を焦がすような熱をもって、彼女を刺激した。




生き残りたい。どんな手を使ってでも。





「──おいで」


その声は、はっきりと、陽子の目の前の崩れかけた小さな社から聞こえた。



「……あなたは……だれなの?」


さきほどから、いや、自分がこの洞窟にたどり着いてからしばしば自分の意識に映り込んできたその正体不明な存在に対して、陽子は問いかけた。


しかし陽子のその問いに、答える声は無かった。


代わりに、彼女の周囲を包む暗黒と横たわる死者たちが、陽子に語りかけてくる。




こちらへ、おいで。

そうすれば、怖くない。






“一緒になろう”




一緒にやつらを倒そう。






──自分は幻聴を聴いているのだ。


陽子はそう自覚していた。

もはや体力も精神力も尽きかけている。

事態は一人の女が背負うにはすでに大きすぎたのだ。


だから、その幻聴や幻覚に抱かれてしまいたいような錯覚を覚えていた。



今、陽子に残された恐怖を克服する方法は二つあった。


ひとつは、恐怖から逃げ、死ぬこと。

ひとつは、恐怖と同化し、味方につけること。



生のために暗闇を払しょくし、これから自身に襲いかかる災厄をも振り払えるような力は陽子には無かった。




考える。



何か、手段は残されていないか。




やがて陽子はゆっくりと息を吐き出した。


肺が萎み終えるのと同時に、一つの決心が出来上がっていた。


そして、右手をポケットに手を差し込んだ。


取り出された手には、小さな物が握られていた。




陽子はその白い錠剤を、神から与えられた聖水を浴びるかのごとく、自らの口に投じた。




──その瞬間、暗闇が陽子に微笑みを向けた気がした。


それはにやりとした湿った笑い。

悪魔からの祝福の声。



ようこそ、おめでとう。



──これで、君は我らの仲間だ。



暗闇の不可思議な存在は、そう陽子を祝福した気がした。



しばらくは、恐怖と沈黙だけの世界だった。


錠剤が喉を通り、胃にへと落ちていく感覚を感じながら、天井から射しこむ月明かりを呆然と眺めていた。


その光は、陽子にとって救いの光ではなかった。


手を伸ばしても決して届かない光。

ただ眺めるしかない絶望と羨望。



それを陽子はただ下から見上げながら、自身の心を闇へと堕としていった。


上を見上げながら、深海へと沈んでいくような気持ちだった。


やがて、目に映る光が徐々に存在感を失っていった。


胸を突き上げるように、鼓動が高まっていく。

異変は初めは少しずつ、やがて確かな違和感となって現れた。


不慣れなカメラのピントを合わせようとするように、視界が鮮明になっては、またぼやける。


陽子は、月明かりに照らし出された小さな社の前に、一人跪いていた。


「はぁッ…あ、ぐ……」


呼吸が荒くなっていく。

身体が、ときおりビクッっと大きく痙攣した。

その度に、得体のしれない何かが体内を泳いでいるようだった。


心臓から送り出された血液が、全身へ巡り、脳へと循環する。


悪魔を、運んで。




やがて陽子は、抵抗することを止めた。

まるで田舎の処女が伴侶との初夜を受け入れるかのように、体内を徐々に侵していくいく異物を受け入れた。



その心境は初めは絶望だった。

踏み越えてはならない一線を越えてしまった背徳、未知なる領域へ足を踏み入れた不安。


やがてその前途に見え始めてきたのは、希望の光ではなく、暗闇だった。


これまで恐怖の対象と不快感の源であった暗黒が、磁気によって引き寄せられる砂鉄のように陽子へと集まっていく。


陽子を包み込むように集まった暗黒は、身体にまとわりついて離れないだけでなく、内部へと浸透していくように思われた。



傷ついた脚と頭部の痛みが、じんわりとした熱とともに鈍化いていく。


唾液が口内に充満し、吸い込む息にときおり水気が混じる。


滴る唾液を抑えられなくなるとともに、陽子の中に潜んでいた狂気が姿を現し始める。


先ほどまでのぼやけた視界が、浸透していく狂気に染められていく。


そして、異様なほどの精彩さを陽子に与えた。


辺りを見回す。




──武器は、無い。


視界に映るものは、数多の死体と崩れかけた社。

他に、彼らの所持品が散乱している。


しかし、やはり武器になりそうなものは無い。


それらを陽子は瞳孔の広がった黒く深い瞳で、見つめていた。



暗闇の中にただ一本で、小さく非力な輝きを放つロウソクの灯りの心境は、どのようなものだろうか。


陽子はロウソクの灯りとなる事を拒絶し、闇と同化する事を選択した。


そうすることによって、暗闇の視線を避けることを望んだ。


今、闇の中の異物は、陽子と共に二人の侵入者を気配を見つめている。




陽子は、闇とともに眼だけを光らせて、クスクスと笑った。

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