猟師
猟師半藤は、ようやくの事で森の中へと脱出していた。
重たい猟銃を肩に担ぎ、ときおり頭部に手をあてる。
出血がひどかった。
洞窟内で、あのテレビ局の二人を外へ逃がしてやったあと、突如背後から激痛に襲われた。
半藤はそれをすぐに「敵」だと認識し、
銃口を向けようとしたが、相手はすでに自分の懐に飛び込んできていた。
もみ合いになる内、自分に殺意に満ちた目で襲ってきた相手が、
相沢と呼ばれた撮影スタッフの一人だということがわかった。
気がつけば猟銃の引き金を引いていた。
相沢の短い断末魔を耳にして、半藤は自分の置かれたこの異常な状況に改めて溜息をついた。
「ったく、どうなってるんだ……」
“異常”な状況だった。
猟師である半藤は、熊や鹿を撃った事は当然ある。
しかし、人を撃ったのは今日が初めてだった。
──それも一日に二人だ。
「異常だよ……やってられんな」
現状が未だによく把握できない。
何が原因でこのような事が起こっているのか、それがわからない。
ただ身に降りかかってくる火の粉を半藤は払い続けてここまできていた。
やがて洞窟を脱し、森の中へ出て山を降り始める。
「まったく、ついとらんな…」
猟師といっても本業ではない。
半藤の本業は市内にある商店街の金物屋の主人だった。
地元猟友会に所属しており、そこからの要請で今回のロケに随行することになった。
元々半藤はこの話にあまり乗り気では無かった。
テレビのロケに随行するなどど言う話は、自分の普段の日常とはかけ離れた出来事だったからだ。
そして自分自身もそういった“冒険”や“新たな体験”に興味をさほど持っていない。
そういう歳でも無いと思っていた。
面倒だから、と一度は断ったのだが、猟友会の会長のどうしてもという頼みを断りきれず、しぶしぶ引き受けた。
──やはり断っておけばよかった。
そう半藤は、頭部の痛みに歯を噛みしめつつ後悔し始めていた。
半藤は森の外を目指して歩いていた。
出血のせいで白髪の一部が赤く染められている。
致命傷ではないが、なるべく早めに処置を施したかった。
ときおりため息をつきながら森の中を進む半藤の目に、突如「異物」の姿が映った。
紺色の上下のスーツを着た、男の姿だった。
その服装と雰囲気は明らかにテレビ局のスタッフたちとは異相であり、広い肩幅と太い腕が特に異彩を放っていた。
男は、おそらくこの森の中にいる人間たちが誰もが「森の外へ」と思っているはずであるのに対し、ただひとりふもとの方から山を登ってきている。
その様子は、この狂騒にまみれた森の中で「異物」と言ってよかった。
少なくとも猟師として森の中で出くわす存在を見極める能力に長けた半藤には、そのように思えた。
「誰だ、あいつは」
半藤は姿勢を低くし、男の視界に入らぬよう慎重に男を観察した。
男はときおり立ち止まり、辺りを見回しながら森を進んでいく。
半藤は相手に悟られぬように、男の後を追った。
足音はほとんど立てない。
半藤の意識は猟をするときのそれにすでになっていた。
頭に負った傷が激しく痛む。
早く山を降りたいという気持ちが半藤にもあった。
が、今この「異物」から目を離したらまずい、という思いが全身を支配している。
逃げたい。
生き残りたいからこそ、こいつから目を離しては危険だという勘が働いた。
“違和感の対象の居所を見失ってはいけない”
恐怖の対象に背を向ける事ほど、怖ろしいものはない。
それは猟師として、常に一定の危険の中に身を投じてきた半藤ならではの直感だった。
しかし、太い樹木に身を隠して頭部の痛みに一瞬の間をとられているうちに、男の姿を見失ってしまった。
「どこだ……」
半藤は姿勢を低く保ち、辺りを見回す。
「どこに行った……」
が、やはり先ほどまであった男の姿はなくなっている。
周囲に自らへの視線がないことを慎重に確認しつつ、半藤は身を起こす。
そして、先ほどまで男がいた場所を見た。
足跡があった。
そしてそれは森のさらに奥へと続いている。
「森の奥へ進んだか。何が目的だ……?」
半藤は猟銃を構えて男の足跡をたどった。
異常を察知したのは数分も経たないうちだった。
足跡は道の半ばで突如霧散してしまったかのように途絶えていたのだ。
その足跡の切れ目に半藤が立ちつくした時、電撃のような戦慄が走った。
──『戻り足』だ。
熊が、自らを追跡してくる猟師に対して使う罠だ。
自分の足跡を追跡されていることを知りながら、あえて足跡をつけ続ける。
やがてころ合いを見計らって立ち止まり、自分の足跡を踏んで後退する。
そして側面や後方に回り込んで伏せ、自分を追ってきた猟師を襲う。
追う者と追われる者との立場が一瞬にして入れ替わり、ライオンの首を一撃でへし折ると言われる熊の一撃が猟師をその死角から襲うのだ。
かつて何人ものベテランの猟師たちがこの罠にかかって殺されたという事実を半藤は知っている。
半藤自身はその『戻り足』を実際に目のあたりにしたことはなかったが、
この不自然な足跡の途絶え方は狩猟仲間から聞くそれに似ていた。
だが、それを人間に使用されるだろうという事を、半藤は予測できなかった。
「──気付かれていたかッ」
猟銃を構え周囲を警戒しようとした刹那、側面の茂みがわずかに揺れた。
そこへ照準を向けるよりも早く、紺色の物体が笑みをたたえて目の前に来ていた。
すでに手遅れだった。