人間じゃない
あまり来たことがないところまで来てしまった。今朝はいつもと何か違う感じがする。双子の弟も不安そうな様子を隠せていない。視線に気付いてこっちを向く。
「なに?こわいの?」
でも生意気なところはいつもと変わらない。
「そっちだって」
黙ると辺りがしんとなる。ちゃぷん。水の音がして顔を見合わせた。ゆっくり進んでいくと、はぁ、はぁ、と大きく息をするのが聞こえてきた。自分たちのじゃない。茂みからそっと覗くと池があった。そしてそこに人間みたいのが横たわっていた。その頭がゆっくりと動いてこっちを見たのでびくっとする。茂みの影にいるのに気付かれてるのかな。その目は明らかに僕らのほうを見ていた。片方はちょっとしか開いていなくて見えにくかったけど、見たことのない澄んだ青色の目が覗いていて、なんだか不思議な感じがした。
「大丈夫ですよ。怖がらせてしまって、申し訳ありません」
その人間は疲れてるみたいな、苦しそうな感じで笑顔を作って言った。その穏やかな声は優しくて、まるでどこかで知っているような…。
「ししゃさま…?」
隣で聞こえた弟の言葉に目を大きくした。そうだ、だから知ってるんだ。僕ら双子は今は迷子でどこにいるかわからないけど、普段は源山に住んでいる。最近はないけど、おさ様やとと様が池に行くときに何度も連れていってもらった。お喋りしてるのをたくさん聞いたし、僕も何回かお喋りしたことがある。会ったことはないけど、こんな優しい声だった。でも使者様は人間じゃない。海のひとだから。
「よくお気付きになられましたね、そのお声だと、あなたはつぐさ様でいらっしゃいますか」
良く知る口調でその人は弟の名を呼んだ。
「そうだよ」
弟は満足そうに笑う。視線は僕のほうに来た。
「となると、そちらはひう様でしょうか。賢い方ですからね…まだ警戒は解いて頂けませんか?」
そう言って少し困ったみたいに微笑んだ。悪い人には見えなかった。
「ほんとうに、ししゃさま?にんげんじゃない?」
そしたら今度は優しそうに笑ってくれた。
「ええ。人間の姿を使っているのでややこしいですが」
示し合わせた訳ではないけど、僕と弟は同時にわっと駆け寄った。泣きたくないけど涙が出てくる。なんだかんだ言ってきっと僕らは二人とも不安で堪らなかったんだ。やっと知っているひとに会えた。使者様は僕らが落ち着くまでしばらく撫でていてくれた。
「あ」
やがて目線を上にやって使者様が呟いた。その方向は使者様がこの林に入るときに通ったであろう方向で、それが簡単に分かる程そこの地面はたくさんの血で染まっていた。僕らは使者様が何に反応したのかわからなくて顔を見合わせた。使者様はすぐにそれに気付いて教えてくれる。
「おそらくもう暫くしたら人間の少女がいらっしゃいます」
「にんげん…っ」
逃げなきゃいけないと思った。どうして使者様は全然焦ってないの?その真意が知りたくて目をじっと見つめる。そしてはっとした。その目にはほとんど光がなくて、まるで開いているだけのような…。
「人間といっても、とても心優しく穏やかな方ですからそう不安にならなくても大丈夫ですよ」
すうっとまた光が入ってこっちを見ている。それでもまだ弱々しい。無理…してるよね。
「ごめんなさい」
使者様は優しいから、僕らに放っておいてくれなんて言わないんだ。僕が突然謝ったものだから、二人とも戸惑ったように僕を見た。
「ししゃさま、いっぱいけがしてるし、つかれててしんどいのにぼくらにつきあわせちゃった」
弟も慌てて僕に続いた。
「ししゃさま、むりさせてるのきづかなくてごめんなさい!もうやすんでいいからね」
使者様はびっくりしたみたいに目を大きく開けていた。
「お二人とも急にどうなさったんですか。私は大丈夫ですから、どうかそのようなお顔をなさらないでください」
優しい笑顔に、また誤魔化されそうになる。その手には乗らないよ。何も言わずに弟と二人で根気強く見つめた。違うでしょ?と言うみたいに。すると使者様はくすっと笑った。
「分かりました、ではお言葉に甘えましょうか。…実を言うと、先程からとてつもなく眠くて」
苦笑混じりに出た"眠い"という言葉にほっとして顔が緩んだ。しんどいんじゃなくて良かった。
「あなた方に、伝言をお願いしても良いですか?」
「「もちろん!」」
申し訳なく思っていたから少しでも力になりたくて、飛び付くように返事をする。
「先程言った人間の少女がいらっしゃったら、私は眠っているだけだから心配ないと伝えて頂きたいのですが。あ、でもくれぐれも私が人間でないことは内緒で」
「こわくないにんげんなんだよね?」
「らんぼうしない?」
やっぱり人間と聞くと怖くて、交互に尋ねた。
「とても優しい方ですよ。万が一何かあれば、遠慮なく叩き起こして下さい」
笑いながら言う姿に、なんだか簡単に安心させられてしまう。
「わかった。まかせて。おやすみなさい、ししゃさま」
「本当に有難うございます。一刻程眠らせて頂きます。おやすみなさい」
言いながら丁寧に僕らの頭を撫でた。両方を撫でると、その手がぽとりと落ちた。あまりに突然眠ってしまったので驚いて目をぱちくりさせる。そんなに眠かったのかな。
言ってた人間はなかなか来なかった。