もう一度
海岸で手近な岩に腰掛け、風に吹かれていた。ここから見える景色は大きく変わることはないが、寒さは和らぎ、春の足音が聞こえて来そうだ。
しかし勿論私はなにも物思いに耽ろうと来た訳ではない。日が昇る頃にここで山からの使者をお迎えに上がることになっていたのだ。ところが日が顔を出して暫く経っても一向に山からの使者が現れる気配はない。
さてどうしたものか。そろそろ月夜様に何かご存知ないか伺っても良いだろうか。
そのとき、目の前の水面が不自然に波紋を立てた。
「月夜様っ」
すぐさま水面に手を翳す。これは月夜様からのご連絡の合図なのだ。
「空月ね。聞こえる?」
「はい。山からの使者の件でしょうか」
「当たり。ここ最近ましになってた狩りがまた増えてきたみたいで… 。海側の源山の麓を時々源山の動物が通るのを嗅ぎ付けて今ずっと人間が張り込んでるそうなの。それで出るに出られなくなったって」
「そのようなことが…」
それ以上、月夜様は何も仰らなかった。この状況は、申し上げても良いのだろうか。迷いと緊張でなかなか言い出せない。声を発する為だけに心臓の拍動を長々と聞かなければならなかった。
「あの…。私が、また源山まで行けば良いのではないでしょうか」
はぁ、と溜息が聞こえた。
「まぁそう言うわよね。ほんとは、遣りたくないんだけど…」
私のことを心配して下さっているのが伝わって来る。申し訳ございません、月夜様。
「ですが、代替案は未だございません」
私は、もう一度白百合に会いたいのです。
「あなたはもうそれを、必要としていないようだけど?」
目の前に姿はない月夜様を見るように、ばっと顔を上げた。
「そんなことは…」
まさか全て解っておられるのだろうか。彼女が少し笑ったように聞こえた。
「別に責めてないわよ。…人間は好き?」
「…はい」
「そう。私もよ」
真意を図りかねて次の言葉を待った。彼女の考えていることは時々よくわからない。私の知らない空白の時間がそうさせるのだろうか。これでも解るようにはなったほうなのだが。
でも、と月夜様が口を開いた。
「あなたは人間のせいで酷い目に会ったでしょう。もう一度行くのは怖くはないの?」
まただ。とても強い人なのに、その声がなんだか酷く弱く見せる。
「えぇ。そもそもの原因は私があまりに無知で未熟過ぎたところにございました。私はもう、陸での己の弱さも、人間の護身の技も十分知っています。また敵襲があったとしても、再び醜態を晒すことは決してございません」
心配させることのないよう、実際よりも自信があるように申し上げたが、嘘は無い。
「あなたが大丈夫と言うのなら大丈夫なんでしょうね」
「はい。ご心配には及びません」
それから、ふと頭の中に浮かんだある考えを口に出すか迷って黙った。その考えというのが、私の欲によるもので彼女にとっては喜ばしくないものだったから だ。
私に言いたいことがあるのを月夜様はお察しなのか、彼女は何も言ってこない。意を決して前を向いた。そこに彼女のお姿は無いが、まるで目の前にいるような気に囚われる。
「あの、月夜様。またあの術を使ってお届けしても宜しいでしょうか?あのときは既に弱っていた上に初めての術で長時間の発動になってしまいましたが、今回はそのようなこともございません」
対する言葉はすぐには返って来なかった。
「…どうして?…どうしてわざわざ危険のあるほうを選ぶの?」
淡々として感情のわからない声だ。それが反って不安になる。
「…申し訳ございません。大変勝手なのは解っていますが、先日お世話になった方々と、少しでも長く一緒に過ごしたいのです。どうかお許し下さい」
もうだいぶ黒くなった髪が風に揺れる。緊張して答えを待った。
「ちょっと待ってて」
すっと彼女の気配が途絶えた。手を腿の上に下ろす。声だけを届けていた水の穴は閉じられたようだ。
少しして、水中に渦が出来たかと思うと、大きめの穴が現れた。美しい金髪と細い指、その指に持たれた見覚えのある紺と灰の衣が覗いた。あの時、また必要だろうからと白百合に預けていたただいたものだ。
「月夜様!」
はっとして思わず声を上げた。
「半月あげる。また何かあってそれまでに帰って来られなかったら、次は本当に私が行くから」
その声は少し笑っているように聞こえた。
「…っ!わかりました!有難うございます!」
自分でもわかるくらい独りでに上がっていく口の両端をそのままに、差し出された衣を受け取った。衣から彼女の指が離れたのを認めてから、少しだけ不安になる。ここは浅いから彼女の顔までは拝見することが出来ない。私は勿論嬉しいのだが、彼女はどうお思いなのだろうか。
「何?また私が寂しがるとか言うつもり?」
う、近い…。思わずえっと息を吸ってしまう。
「言っとくけど、あなたが来たのなんてつい最近なんだから、半月くらい何も変わんないわよ」
月夜様は当たり前だと言いたげに軽く笑って仰った。本当にそうでしょうか。此方からは見えないその瞳が少しだけ俯いているような気がした。それでも言及すべきではないと考えて顔を笑みの形にする。
「そうですよね。これはご無礼を」
彼女には声だけでも表情が大体知られてしまうのだ。
「ほら、早くしないと人間動き出しちゃうんじゃない?」
「はい。では行って参ります」
穴に向かって深く礼をする。月夜様はいつの間にか地に肘を着いてうつ伏せになり、此方を覗いておられた。その顔は寂しいというよりもどこか嬉しそうに見えた。
「行ってらっしゃい」