時
足だけ付けた水がすっと体の熱を奪っていく。衣は既に畳んで岸に置いた。その場にかがんでなるべく多くの部分が水に浸かるようにすると目を閉じる。
これから挑むのは難度の高い術だ。慣れない身体で出来る自信は正直ない。身体が青白い光に包まれ、見慣れた青い髪が広がる。これで人間に馴染んだ身体は一旦おしまいだ。きっと今の自分は両目とも青いだろう。そして水を変化させて身に付けた衣は人間のそれではなく、普段海で身に付けているもの。山の民にとっては見たことのない衣装で、軽くどよめきが起こった。海でも普段過ごすのはこの人間の姿を使っていたので自分は慣れているが、今まで彼らに会うときだけは、変化させていない、真の姿で会っていたので知らないのも当然だ。
目を開く。
さぁ、時は来た。
「私は、この術を完成させたことが御座いません。恥ずかしながら余裕が無く、途中で声をかけて頂いてもお応え出来ないかと存じます。また、時間をかけてしまいますが、朝の日の光でこの身が再び人間になるまでは諦めないつもりでいます。御迷惑をおかけ致しますが、どうか未熟な私をお許し下さい」
最低限伝えなければならないことはこのくらいだろうか。此方を見て聞いていた者たちの中から長が歩み出て来る。
「そう気にされるな。我らの木の実の準備は整った。あとは黙って君に託すのみだ」
そこまで言うと長は数拍置いて真剣な眼差しを私に向けた。
「我らの未来を、この里の未来を、どうかお頼み申し上げる」
長が頭を下げると、他の者も似たような趣旨の言葉を口々に言うと頭を下げた。その光景に背筋が伸びる。
「尽力致します…!」
あとは、月夜様の元への道が開けたら此方から声をかけるということを伝え、滝のほうに身体を向けた。滝の前の辺りでも最も深いと思われる所に正座する。水は腰まである。滝にそっと手のひらで触れ、目を閉じた。力をこめると、滝を流れる水量がぐんと増した。
『一、届け先を強く思い浮かべる、鮮明に』
月夜様、何処にいらっしゃいますか。これは海水なのだから必ず彼女のもとに繋がっている。脳裏に見慣れた光景が浮かぶ。日々変わり行く景色をつまらなそうに、でもどこか楽しそうに眺める姿。視線の先は…ゆらゆらと揺れる海藻で出たり入ったりしてはしゃいでいるたつのおとしごの兄弟。そして、ふと此方を振り返る。
「ねぇ空月、あれ楽しいのかしら」
……違う。私はいないのだからその光景は存在しない。存在するのは…ふと振り返ってそっと俯く彼女の姿。普段は素っ気ない様子だが、月夜様は私を心配して下さっているだろう。それに、私が思うに、寂しい思いをなさっている。月夜様はぽつりと呟かれる。
「…遅い……」
申し訳ありません、なるべく早く参りますね。
手応えは十分。水の勢いが明らかに増している。
『二、届ける物が届く様子を強く想像して掴む、目の前に真っ直ぐ道が開くような』
こっちはいつになっても手応えが得られなかった。この滝に穴が開いてそのまま真っ直ぐ月夜様の元へ繋がっている道を想像しようとするのだが、なんとなく頭に浮かんでも目の前に現れない。瞼の裏に創り出そうとすると途端に自分のいる場所はただの暗闇に戻ってしまう。
どうすれば良い。月夜様を見てきた年月はこれまで生きてきたうちの半分以上にもなるだろう。だが、目の前の滝に穴が開いてその先に主がいらっしゃる光景など、誰が見たことがあろうか。
…もう良い。滝も無い、月夜様もいらっしゃらない暗闇で手を伸ばす。この暗闇、砕いてしまおうか。伸ばした手のひらに力をこめ、周りの水を叩きつける。叩きつけて終わりではない。その勢いのまま進め、希はくはあの郷まで。岩が砕けるような低く大きな音が鳴った。暗闇に亀裂が入り、光が差し込む。
「月夜様!」
暗闇に開いた穴から驚いたように此方を見つめておられる。その感覚を持ったままぱっと目を開ける。この目に滝は映っているはずだが、見ているのは未だ先程見た光景だ。私には今も月夜様が見えている。滝が激しく鳴動する。
『それでもう一息って所まで来たらあとは気持ちね』
月夜様。どうかお姿をお見せください。ここで出逢った人間たちに恩を返したい。初めて知ったこの素晴らしい里を守りたい。信じ続けると言ってくださったあの方の笑顔を、守りたい。目的の為ならばこの力、使い果たしても構わない。全ての力をかけようと息を吸った。
「…月夜様っ!!」
そのとき、視界が光と水でいっぱいになった。滝の激しく流れる水の音で周りの一切の音が掻き消える。豪雨のごとく降り注ぐ水飛沫の中、月夜様と目が合った。
「空…月…!」
今度はただの幻ではない。山の民に伝えるまでもなく、滝のあまりの勢いに気付いた者たちが集まって来ていた。一匹が滝の側まで来て木の実の包みを差し出す。驚きと感動で回っていなかった思考が一気に引き戻される。
「此方が繋がっておりますので」
その山の民に向けて穴を示した右手が自分のものでないように重くて驚いた。山の民が月夜様に包みを手渡す。それは無事に月夜様に受け取られた。良かった、本当に繋がっている。
その途端、辺りを山の民たちの歓声が包んだ。
私に出来ることはやり遂げられたようだ。そう思うと身体に今まで忘れていた疲れがどっと降りかかる。黒いもやが邪魔をして視界がはっきりしない。
「空月!ありがとう、本当に良くやったわ。…ってその格好……。もうこれ以上無理しないで、あとは私に任せてゆっくり休みなさい」
「はい、有難う御座います。どうか…よろしくお願い…致します……」
言い終えたところで左手が落ちた。穴はみるみる不安定になっていく。目的は果たしたのでもう問題はないのだが。
月夜様が 「その格好」とおっしゃったのが気になって自分の姿を見下ろし、納得する。水を使って纏っていた衣装が維持できなくなっていたらしい。必要で纏っている部分の上に飾りのような目的で纏っている部分がある。その飾りの部分が水に戻ってしまい、必要な部分も一部は既に無い。維持する体力も残っていないということか。この体力は水と同じだ。残っているうちは残りが少なくなっても一定の量を流し続けられるが、流れる量が急に少なくなればそれは空に等しいようなときだ。
ああ、頭が重くて、まだこっちをご覧になっているであろう月夜様の姿を拝見出来ない。それでもなんとか頭をほんの少しだけ上げて目だけで前を見ると、彼女は心底心配そうなお顔をなさっていた。
「もう日が昇ってしまいます。どうか…お願い致します…」
「刻限が…? わかった、急ぐわ。お願いだからもう無理はしないで。今日はもう手伝いもしなくて良いから!」
月夜様の言葉を遮るように、揺らいでいた穴は消えた。滝の流れが突然弱くなる。申し訳ありません、月夜様。よく聞き取れませんでした。穴のせいと自分の体力の限界のせいだ。意識が朦朧としている。
今日はお手伝い、務められないかも知れません…。
穴が消えると使者様は身体が支え切れなくなったみたいに、手を地面についた。そして、大きくはないけれど、はぁはぁと息をしていた。よほどしんどかったのか、少しすると左手を近くの岩の上に変えて、その上に頭を置いた。こっちからは顔が見えなくて心配になる。そっちまで行こうとして足を止めた。
「使者様から…なんか出てる……」
使者様からなのか使者様の周りの水からなのかわからないけど、霧みたいな白いもやが空に上がっていく。使者様以外の皆が空を見ていた。
「雲ができてる…?」
やがて誰かが言った。
「ほんとだ!!」
それはどんどん分厚く灰色になって広がっていった。ふと使者様を見ると、その綺麗だった衣はどんどん無くなっていってて、そこから見える肌は色がないみたいに白かった。使者様が危ない!止めなきゃと思って水に足を入れたとき、長様の羽に捕まえられた。
「邪魔してはならん」
「でもこのままじゃ使者様が!」
「…彼のお陰で、雨が降るんだ」
そのまま長様は僕が行けないように羽で通せんぼしたままだった。使者様の身体は大事じゃないみたいな言い方をした長様は、ちょっと恐かった。
雲が届かない遠くの空がだいぶ白くなってきた。
朝が来る。
使者様が少し動いた。手を伸ばして滝の向こう側の岩の壁に手を掛けてゆっくりと立ち上がる。どうしたのかなと思ったとき…。
「雨だ!」
太陽が覗いたのと同時くらいに、空にきらきら光る雨があった。それは強すぎない、気持ちの良い、綺麗な雨だった。使者様もそれを眺めていた。わぁっと皆が声を出して、使者様のいる水のほうに行く。けど、誰かが使者様に届く前に、その身体はぐらりと傾いた。
「使者様!!」
皆がしんとする。あまり音をたてずに倒れた使者様の周りに次々に皆が集まっていく。
「おい!大丈夫か!!」
「しっかりして!!」
「使者様!使者様!!」
使者様は返事をしなかった。




