最後の日
雲一つ無い空の下、左目にかかった包帯を取って髪を全て後ろで束ねる。明るく鮮明になった草原が目に飛び込んでくる。準備ができたのを確認した義父上は木刀を構え、私を真っ直ぐに見た。
「いつでもかかって来なさい」
私も目の前に木刀をやって一瞬動きを止める。
「では、遠慮なく!」
言いながら地を蹴った。二本の木刀が踊って、気持ちの良い乾いた音が不規則に響く。早いもので、こうして手合わせさせて頂くのもこれが最後だ。最初は、武器を用いることにも、それを利き手とは逆の右手で扱うことにも慣れず戸惑ったが、回数を重ねると共にこれは楽しい時間となっていった。
「っ!」
突然目の前に飛び込んで来た刀に、反射的に跳び退る。やはり関係のないことを考えている余裕はないようだ。
「どうした空月、もう疲れたか?」
「まさか」
少しだけ勢いを弛める義父上に軽く笑いかけて前進した。刀の動きだけに集中する。最後なんだ。思いきりやらなければ勿体ない。
やがて音が途切れ、目を見張った。
ずっと、ぶつかっては離れてを繰り返していた刀が一本だけになり、木の音も高く澄んだものが一つだけ快晴に伸びていた。また負けてしまったのかと思ったが、木刀が自分の右手に握られているをの認め、慌てて義父上の喉に刀を向けた。顎をつたって汗が落ちる。義父上の手にあったはずの刀はその驚いた顔の向こうに転がっていた。お互い肩で息をしながら数秒見つめ合い、そのまま無言でゆっくりと刀を下ろした。
顔を濡らす汗が鬱陶しくて手の甲で拭い、付いた滴に目線を落とす。汗が滲むまでという決まりだったはずだ。全く気が付かなかった。前を見ると、義父上の視線も同じところにあったようで、目が合うとくすっと笑った。
「悪いな、つい止めるのを忘れてしまったよ」
「私もすっかり夢中になってしまって気が付きませんでした」
義父上は近付いて来ると、私の頭に手を置き、くしゃくしゃっと撫でた。月夜様がなさったのと同じだ。
「剣で負けたのは久しぶりだ。…強くなったな。空月」
真っ直ぐに誉められて少し照れくさくなる。
「貴方のおかげです。本当に感謝しております。…ありがとうございました」
一歩下がって丁寧に頭を下げた。顔を上げると、黒が視界を覆い、地面が歪む。思っているより自分は疲れているのかも知れない。此方に来てから次第に体調が悪くなっている気がする。稽古中はいつも平気なのだが…。やはり陸は合わないらしい。それも取り敢えず今日で終わりなのだ。
「私も息子ができたみたいで楽しかったよ。ありがとう」
次第に元に戻る視界の中で義父上は私の左手を取って笑った。握手というらしい。お互い汗で濡れた手を握り合った。
「そうだ空月、ちょっと良いか?」
いつも通り刀を預けて滝に向かおうとすると義父上が背から呼び止めた。
「なんでしょう?」
振り向くと、義父上は普段とは違って、どこか緊張したような言い辛そうな表情をしていた。
「義父上…?」
「あ、えっと、そうだな…、とても可笑しなことを言うが、聞いてくれるか」
「…はい」
顔は笑っているがどこか改まった様子に、少し体が強ばる。
「私は…君は人間ではないのかもしれないと思うんだ」
予想だにしなかった言葉に心臓がばくばくと音をたてる。
「人間でなければ何だと思われるのですか?」
微笑をのせて落ち着いた声で、なるべく自然を装った。
「人魚…ではないかと」
彼は自信無さげに、絞り出すように言った。「人魚」という言葉に思わず反応してしまう。丁度私が陸に来たのと同じ頃、海岸で「人魚」を見たと言う人がいるらしいことを白百合から聞いていたからだ。おそらく髪が黒くなる前の状態を見られたのだろうと思う。とにかく今は、なるべく自然を装う他に術は無かった。
「人魚は、実在するか分からない、伝説の生き物だとお聞きしました。それに魚のような尾を持っていると。私には全く関係がないように思えるのですが」
私は実際人魚を知らないし、人魚でもないと思っている。しかし、私のような存在がもし人間にとっての人魚にあたるとすれば、完全に否定する気にはなれないのだ。
「人魚だって人の姿をとることが出来ると言う。私は、人魚は実在すると思っている。…実は、あまり信じてもらえず恥ずかしい話なのだが、私の初恋の人は…人魚だったんだ」
「人魚に…会ったのですか?」
尋ねると彼は苦笑いして言う。
「あぁ。君と白百合が逢ったというあの池の辺りで、昔よく会っていたんだ。あるときからぱったり来なくなってしまったのだが、見た目の割に大人びていて、強気で、髪と目が秋の稲穂の少し暗いような色をしていた」
なぜだろう。人魚は知らないが、彼の説明を聞いて浮かぶのは、善い人間と面識があり、一時期よく陸に行っていたと仰っていた月夜様だった。
「尾がついているのは見なかったが、海から来て海に帰っていく見たこともない服を着た美しい彼女は、間違いなく人魚だと思った。もうずっと昔のことだが、今でも私はそう信じている」
話を聞いているうちに、心臓の音は緩やかになっていた。この人になら正体を知られても問題ないという安心感が生まれていた。限りなく低い可能性だが、この人が月夜様の仰っていた人間なのではないのだろうか。
「まあでも信じられないか、こんな話。今までも、心から信じてくれたのは家内と白百合だけだ」
私が何も言わないので、義父上は困ったように笑った。
「いいえ、信じます。素敵だと思います」
慌てて言った私に、少し驚いたような表情を見せる。
「あの、その方にも、先程私にして下さったように頭を撫でて差し上げたことがございましたか?」
突然そんな質問をされるとは思わなかったのだろう。数秒目をぱちぱちさせた後、目を臥せてとても優しい表情をした。
「…あったよ。そんな文化はないみたいで、随分不思議そうにしていた。他にも私たちにとっては普通のことでも知らないことが多くて、君を見ていると彼女を思い出す。考え方も、時々似ていてな。……彼女を、知っているのかい…?」
驚きと期待のこもった優しい両目が私を見つめた。
「どうでしょう…。ですが、よく似た方を知っています。紫色のお召し物がよく似合う、黄金色の美しい髪と瞳をした、綺麗な女性です。海の…、私の住む辺りで最も強い力をお持ちで、お優しく寂しがり屋なのにいつもそれを隠そうと強気な様子でいらっしゃいます。そして、…人間という生き物を大変好きでいらっしゃる、私の慕う主です」
言ってしまった…。月夜様のことを話して自然と上がっていた口角を戻し、目線を義父上から外した。一応、大丈夫だと判断した上で言ったのだが、いざ終わってみると不安が押し寄せて来る。
「本当に彼女にそっくりだ」
そんな私を他所に、義父上はからりと笑った。
「やはり君も人魚なのかい?」
ここまで言ったのだからもう気にすることはないか。
「おそらく、あなた方の仰る人魚ではないと思います。この身体は、元の姿とは似ても似つかないものです」
「じゃあ、普段は海に住んでいるというのは?」
「それについてはその通りですよ。陸に来たのは、これが初めてです。色々と迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした」
「気にするな。それより、怖かっただろう。こんな知らない場所に一人で来て、人間に殺されかけて。今は君の命の綱である水だってほとんどない訳だ。命懸けで来てくれたんだろう。空月、君は本当に強い子だ。どういう用事なのかは知らないが、今日まで…よく頑張ったな」
私は自分より少し高い位置にある男の顔を見上げた。その向けられる目は本当に優しくて、どこか安心してしまう。本番はこれからだというのに。そのまま男は私をそっと抱きしめた。そして腕を回して後ろから頭を撫でる。目頭が熱くなり、義父上の襟が歪んだ。此方に来てから、怖いと感じた記憶はない。それでも、慌てて斜め下に向けた顔を温かいものが濡らすのは、何故だろう。
「ほら、引き止めて悪かったな。話してくれてありがとう。汗、流しておいで」
義父上は私の顔を軽く袂で拭くと言った。どうして人間はこんなに温かいのだろう。今声を出すと、何かが壊れてしまいそうで、ただ黙って深く頭を下げて向きを変えた。