文字
「ねぇ、空月もやらない?」
ある昼過ぎ、柔らかくなってきた日の光に眠気を誘われたのか下を向いてあくびをした彼に声をかけた。丁度手持ち無沙汰だった私と雪と凜は持ち出してきたかるたを囲んで座っていた。空月は、彼が応えるより先に一人分の場所を空けて座り直した雪と凜を見て笑いながら近寄って来る。
「是非」
近頃私は何かをするにつけて空月を誘っている。少しでも私の知らない彼のことを知りたかったから。彼の自分から話そうとしないことを聞き出そうというわけじゃない。ただ、少しでも多く一緒に過ごしてたくさん話をしたかった。
「これは、かるたっていってね…」
取り札を撒きながら自然な流れでやり方の説明を始める。彼は遊びなどの誘いに快く応じるが、そのやり方は知らないのが常だった。きっと彼にとっては私たちのすること為すことほとんどが異文化なのだろう。でも私は、新しいことを知って驚いたり関心したりする彼の様子が好きで飽きなかった。
「なるほど…。わかりました」
「じゃあ私読むから雪と白百合様、空月さんは取ってください」
空月は頭が良くて、説明すると大抵一度で理解した。読む人を変えながら何度かすると途中から空月が強くなってくる。これもまた大抵のことだった。彼は集中力と瞬発力、記憶力も良くて、いつも慣れてくるととても上手くなった。剣の異常なほどの上達もそういうことなのかなと思ったりする。
「じゃあ、今度は空月も読む?」
やがて、もう慣れてきただろうと思い読み札を手渡すと、受け取った空月はその束を見つめて首を傾げた。何かおかしなことでもあっただろうか。しかし彼は何も問わずに読み始めた。その様子は私たちが読むのと何も変わらない「普通」だった。でも、ふと私は彼が読み終えて置いた札を見て目を瞠った。見間違いかと思った。その次も、その次も。彼が声にした札と置かれた札はいつも全く違ったのだ。この人、読まずに言ってる…?やがて残りが十枚程度になった頃、彼が言い澱んだ。
「空月さん?」
そうして考えるように見つめているのは読み札ではなく残った取り札。ここまで全て覚えきれていたのは謎だけど、これってやっぱりそういうことだよね。
「あと残ってるのは、え、に、と、か、ふ、め、れ、ろ、う…、九枚か」
わざと一つずつ指差して頭文字を言ってみる。すると彼は、見事に残りの札を全て言ってみせた。
そうしてこの回が終わると、私は自然に見えるように片付けの流れに持っていき、終わったところで彼を捕まえた。
「ねぇ。文字の勉強、しない?」
「もじ…?」
案の定ぴんと来ていないらしい彼に、私は「い」「ろ」「は」を順に自分の掌に指で書いて見せる。
「ほら、さっきのこういうの。知ってるほうが、便利だと思うんだけど…」
たちまち彼は合点のいった顔になる。
「ではやはりあれを見ても解らなかったのは私の無知ゆえのものだったのですね」
「無知っていうか…、私はあなたがあんなに暗誦しちゃったのが驚いたけどね」
彼は突然さらっと自分をけなすような言い方をするのでこっちが慌ててしまう。無意識なのかな…。そんな私の複雑な気持ちを他所に空月は、首を少し傾けて彼にしては珍しい笑い方をした。参ったなといった表情だ。
「ですが、やはり貴方は気付いていらっしゃったのですね。途中までは上手くやっていたと思っていたのですが」
そう言って少し残念そうにして見せた彼はなんだか悪戯の見つかった子どもみたいだった。思わず笑みが溢れる。
「たまたま、ね」
そうして空月と始めた文字の練習は私にとっても楽しかった。読みはかるたやうちにたくさんある書物を使って、書きは水を使うのは極力避けたいから地面の上に枝で手習いした。
やってるうちに、一つ気になったことがあった。それは利き手の話になったときのことで、彼は何か持とうとするとき真っ先に出るのは左手だから私は彼は左利きだと思っていた。けれど、文字を書くときの棒を右手で持つように言えば彼は最初やり辛そうにしてもやがて馴染んだように不自由なく扱う。だから思ったのだ。
「空月さ、もしかしたら元々は右利きだったりして」
「え?」
「左利きの人が右も使えるように小さい頃に練習したりするでしょ。そんな感じで、ちっちゃい頃に右利きだけど左ばっかり使ってたとかさ」
何気なく言っただけだった。でも言葉が返ってこなくて顔を上げると、彼は持っていた棒を取り落として下を向き、腹の辺りを左手で強く掴んでいた。傷が痛むのかな…。声をかけるより先に彼が口を開く。
「…あぁ、ありましたよ。幼い頃、右腕を…怪我して使えない頃が長くあって。…だから、本当にそうかも知れませんね」
声色だけは、明るかった。下を向くその表情は見えない。詮索はやっぱりしなかった。そんな勇気、私には無かった。
でもあからさまな心の揺れはそのときだけで、その日のうちに空月はその驚くほどの記憶力で無事ひらがなを一通り終えてしまった。