返り事
「きっと、納得しきれてないのは、みんな同じ。でもみんな、わかってるから。我儘言ってもどうしようもないって。抑えなきゃって。でも私だけが…。私だってわかってたのに。でも、我慢出来なくて。馬鹿みたいに喚いて。…父上に無理させて。後で頭冷えてから思ったの。あぁ、私だけが、子供だったんだなって。…それで、また今度はこうやって空月に迷惑かけてね。ほんっと、駄目だなぁ」
涙が流れるのも無視して私は話し続けた。その間、空月はほとんど何も言わなかった。やっぱり寝てしまったのかと思った。
駄目だなぁ。
それは丁度少し前に自分が思ったことだった。しかし境遇は全く違う。自分は能力不足による情けなさからだったが、彼女のそれはそんな単純でみっともないものじゃない。此方からは見えないその涙を少し、美しいと思ってしまった気がする。本当に子供なら、そのようなことは言えません。彼女はそこまで言うと、暫く黙ったままでいる。どうやら彼女の告白はここまでのようだ。このように思い悩んでいるときは、全て吐き出してしまうほうがよほど楽になれると、経験上そう思っている。
「迷惑だなんて、思いません。それに、私のような他人が申し上げて良いものなのかは判りませんが、貴女は子供じみていると仰った、白百合様のなさった言動は決して間違っていなかったと私は思います。不思議なことに私たちは、自分の表に出せていない心を周りの方が先に出してしまうと少し楽になるというか、なんとなく落ち着くことができるんです。もちろん落ち着かずに一緒に沸騰してしまうこともありますが。誰も言わないと、全員が心の中で自己簡潔するしか手がないでしょう、結局すっきりしないままで。白百合様が仰ったおかげで皆さん少なからず安心出来たのではないでしょうか。義父上も、本当は辛くて言いたくなかった問いをなさった訳ですが、それを後悔はなさっていないと思うんです。貴女の本心を聞くことが出来て、気持ちを共有出来て、結果的には義父上にとっても良かったのではないかと私は思います。……すみません、偉そうに」
そう言って微笑むと立ち上がる。あまり長く廊下に居てはそろそろ寒いだろう。
「開けても良いですか」
静かに訊いても返事が無いので扉の隙間をそっと広げ、言葉に詰まる。彼女は此方に背を向けたまま、小刻みに肩を震わせていた。どうして良いのか判らず、昔主にして頂いたのを思い出しておそるおそる手を握る。すると彼女は一瞬驚いたように手を引こうとしたが思い直したように手を握り返した。暫くそうして俯いたまま肩を震わせていた彼女はやがて落ち着いてくると小さな声で問いかける。
「なんで出て来たのよ」
台詞だけは強気な彼女に此方も調子を戻さざるを得ない。
「そろそろ寒いでしょう。ほら、手もこんなに冷たくなってしまって」
そこで手を握っていたことを思い出したのか白百合は慌てて手を離す。咄嗟のことだったのだが彼は気を悪くしてしまっただろうか。そっと空月を見ると、一瞬驚いた表情を見せただけですぐにいつも通りになり少しほっとする。
「もうお寝みになりますか?」
「…もうちょっとだけ……」
優しく問う彼に思わず本音が漏れてしまった。言うつもりなんて無かったのに。無意識に口から出た言葉に自分で驚き、焦る。でもこんな気分のまま眠れそうになかったのでもう少し付き合ってほしいというのは正直な気持ちだ。でも彼もやはり眠りたいだろうか。不安でいっぱいのまま、反応を待つ。すると空月は壁に手をやってゆっくりと立ち上がり敷居を跨いだ。そして振り返り優しい微笑をのせて言う。
「それじゃあせめて部屋の中に入りませんか。今夜のせいで体調を崩してはいけませんので」
黙って頷くと立ち上がる。このような状況でまで断るほど私は頑固者じゃない。音をたてないようそっと開けてくれた戸口をくぐろうとして足を止めた。私は今きっと酷い顔をしている。急に足を止めた私を振り返らずに空月は反対の窓を向いて座った。
「大丈夫、暗くて顔なんて見えませんよ」
雲に隠されてほんのりとしか見えない月を見ながら言う彼の背を驚いて見つめる。なんだか見透かされているようで恥ずかしい。私の視線に気付き振り返って手招きする陰の真後ろに腰を下ろし、息をついた。しんとした部屋に虫の声だけが響いている。
「蟋蟀…でしょうか」
突然空月が言った。一瞬戸惑った後、耳を澄ます。最近はなんだか余裕がなくて、虫の声なんてきちんと聴いていなかった気がする。
「減ってきたけど鈴虫も」
私から引き留めたものの、特に話題も思い付かなかったので少し安心する。
「…鈴虫の声、綺麗ですよね。此方に来るのがもう少し早ければもっと良かったのですけど」
「鈴虫、好きなの?」
「ええ。とても、心地よくて」
「わかるかも」
…あれ?話していてふと違和感を覚えた。その原因はすぐにわかった 。それはきっと彼と普通の話をしていたから。私たちの普通をなんにも知らない彼と。
「こういうことはわかるのね」
素直に言うと、少し間があってから声がした。
「……故郷でも…よく聴くんです」
私は遠くても隣村くらいまでしか行ったことがないから、こういう話を聞くのは面白い。まるで別の世界から来たかのような彼だけど、こんなふうに当たり前のことが通じるとなんだか安心する。
「へえ。遠くても同じ虫がいるのね」
今度はさっきよりも間が長い。
「……どうでしょう、姿は見たことがないので…いないかも知れません」
どうしたんだろう。普段は流れるように言葉を紡ぐ人なのに、今はどうにも歯切れが悪い。でも、もうひとつ珍しいことに、それは後半に少し笑みを含んだ言い方だった。そう、ちょっと冗談めかしたふうに。
「あなたみたいな人でも冗談言うのね。声が聞こえるのにいないなんて」
言うと、二人で静かにくすくすと笑った。歯切れが悪かった理由は気になったけど、そんなの考えても仕方ないよね。そうしてまた静かな夜が戻ってきた。笑ったら少しだけ気が軽くなったような気がして、我ながら単純だなと思う。
「…ありがとう。空月に話して良かった」
もう乾きかけていた頬を手の甲で拭ききった。
「こんな者でお役に立てるのならいつでもお使いください」
彼は時々、謙虚なのか自虐なのかわからないような発言をする。無意識なんだろうな。
「相談のるの、慣れてるの?」
「そんなことはございません、だいたい自分の経験からですよ」
「そう…」
本当にどんな生き方してきたんだろう。
「あ!そういえばさっきまた「白百合様」って言ってたでしょ。私ちゃんと「空月」って呼んでるのに」
「あれ、そうでしたか…?」
「そうでした!」
ちょっと彼の口調を真似て言うと、また一緒に笑った。
「あなたも…諦めてしまわれますか?」
おもむろに彼が言った。何のことかは言わなかったけれど、状況や声の調子から簡単に察しがつく。
「ううん、私は最後の最後まで信じるよ。きっとこのまま終わってしまわないって。空月が頑張ってくれてるんだもんね」
明るめの声色で言った。
「申し訳ございません、言わせたみたいになってしまいましたね。でも、ありがとうございます」
「なんであなたがお礼言うのよ」
そう言って笑ってたけど、考えてみれば、住んでいる私たち自身が皆諦めている中でほとんど無関係の彼が尽力することになれば、彼からするとそれほど虚しいことはない。うん、絶対信じよう。それから何を話したかは、実ははっきり覚えていない。ただ私と彼だけの温かい時間だった。
左手を私にもたれかかっている彼女の背にあて、動かさないようにしながらそっとその横にまわると、彼女の膝の下に右手を入れる。白百合は少し身動いだが、変わらずすうすうと寝息をたてている。会話中、言葉が返ってこないと思えばこうして眠りに落ちておられたのだ。致し方ないだろう、窓から見えていた月ももう高く昇ってしまっている。人間は眠る時間だ。少し前まで自分が眠っていた布団にそっと寝かせると、白百合はまた少し動く。
「…ん……」
びくっとして動きを止めたが、起きる様子はない。肩まで布団をかけると、思わず止めてしまっていた息をふぅと吐き出した。その気持ち良さそうな寝顔を見つめ、その頬にそっと手を触れる。共通の話題は少ないながらも彼女との会話は楽しくて、終わってしまったことが少し残念な気がする。そしてくすっと笑った。時間を恋しいと思うなどいつぶりだろう。そんな傲慢な気持ちには蓋をして、膝を押して立ち上がる。
「良い夢を」
小さく言うと窓からするりと外に出た。滝に向かう足取りは昨日より少しだけ軽かった。