氷
「君達に、暇を出す」
父の発した一言に、この空間の時間が止まった気がした。空気も動かない。言葉もつくられない。息をする音も聞こえない。ただその父の言葉だけが頭の中で何度も響き続けた。数分だか数秒だかわからない、しばらくは何の感情も湧いて来なかった。聞こえた内容を理解するので精一杯だった。単語の意味は知っているのに、その事実は出かかったところで無意識に打ち消してしまう。「嘘でしょう?」と問いかける余裕さえ、このときの私達には無かったのだと思う。父は、全く口を開く気配のない私達の宙にある視線を一点に集めるように、皆の目を順に見ながら再び話し始めた。
「空月が帰る日、だから一週間半後だ。急な話ですまない。でもお前たちももう分かっているだろう。雨が降らないせいで増えない食料はもう底をつく。残りはもう米一俵も無い。皆が満足に食えなくてももう長くはもたないだろう。だがここから離れた所にはこんなにひどい干ばつは無いと聞いた」
そこで父は目線を外して少し俯く。
「言いにくいことではあるが、少しでも長く食べていく為に食い口を減らしたいんだ。その間にまた雨が降るかも知れない。私と白百合にはここ以外に帰る場所はないがお前たちには……」
少し顔を上げて四人の顔を見るとまた俯いて言った。
「帰れる故郷が、無い訳ではないだろう」
「……本当に、それだけが理由ですか…………?」
父が言い終わるのを聞いて数秒の後、末っ子の雪が絞り出すように尋ねたが父は顔を上げなかった。
「それだけだ。我儘で、すまないな……」
家の周りで鳴く蟋蟀はこんなに多かっただろうか。こんなにたくさんいて食料はどうしているんだろう。関係の無いことが頭をよぎる。どれくらいの間聴いていただろう。沈黙の中、父が席を立った。
「さあ、もう話は終わりだ。お前たちも早く寝みなさい」
いつも通りの明るさだった。不器用なくせに。
「では」
「おやすみなさい」
皆、何事も無かったかのように散っていく。なぜ誰も追及したり怒ったりしないのだろう。
「ほら、どうした。白百合も早く寝なさい」
少し笑みをのせて優しそうに促す父に、沸々と怒りが湧いてきた。
「……ねぇ、どうして?」
真っ直ぐ前を向いたまま、目を合わせずに言う。
「どうしてあんなこと言ったの」
父は何も言わない。
「食べ口を減らしたい?そんなのどうだって良いじゃない。血は繋がってないけどみんな大事な家族でしょう? それに、「帰る場所がある」なんて。もう忘れた訳じゃないでしょ、みんなが初めてここに来たときのこと。もうずっと外で暮らしてるような身なりで、この村が明るいって感動してた。ここに来てから一度だって故郷の話したことない時点で帰りたいような場所じゃないことくらい分かる。それを帰れなんて」
「白百合」
父が静かに名を呼ぶ声が聞こえたが、私の舌は止まらない。
「そもそもみんなと暮らしたいって言ったのは父上なのに。母上がいなくなった寂しさを紛らわすみたいに。それでも良かった。お腹いっぱい食べれなくたって良いよ、それでも……」
「白百合……!」
父はもう少し強く名前を呼ぶ。
「それでも!……私は、みんなと一緒にいたいだけなの」
父の目をしっかり見る。上を向いているのに涙が溢れた。父は近くまで来て立ったまま、私を包み込むように両肩に大きな手をのせる。父は斜め上を向いてしまって、表情はほとんどわからない。
「父上も同じだ、白百合。皆我が子のようなものだ。また家族と別れるのは悲しい。寂しい。向こうもそう思ってくれているかもしれない。だが、ここにいる必要のないあの子たちに、ひもじい思いはさせたくない。……あぁ、やっぱり私の我儘だな。可愛いあの子たちがだんだん痩せていく姿を見るのは辛くて……きっと駄目なんだ。大丈夫、わかっているよ、あの子たちに帰りたい郷がないのは。でも他にも良い村はたくさんある。……雨が降っていた頃はここが一番に違いなかったんだがなぁ。ここが、あの子たちの郷になれば良い」
そう言った笑顔は私の知る父のそれではなかった。よく見えないその笑顔に胸が締め付けられる。本当は父の言葉が本心ではないと分かっていた。あの人は不器用だから、嘘なんて上手くつけない。後ろめたさから、相手の目を見て嘘を言えない人。ずっと嘘だって分かっていたけど誰も嫌がらずに受け入れるから納得がいかなくて。こんなふうに辛いはずの父に当たって、駄目な娘だな。黙ったまま反省していると、父が思い出したようにまた口を開いた。
「ああ、そうだ。お前にも選ぶ権利があるな、白百合」
一瞬、何のことかわからなかった。考えもしなかったから。
「皆と一緒に行くか?言えば連れて行ってくれるだろう。お前だって父上と二人だけでここにいても__ 」
父の言葉を最後まで聞かずに素早く立ち上がって力いっぱい大きな肩を抱き寄せた。
「駄目。これ以上平気なふりして言わないで。私が父上と母上置いて行くわけないでしょ。ここは私の大事な場所だし、何があっても絶対ずっとここにいるから……」
ごめんなさい。ごめんなさい……。
「……そうか。そうか……、白百合」
そう言った父の声には、怯えていたのが溶けているみたいで、父がどんな思いでさっきの言葉を口にしたのかが伝わってきた。もう言葉は出なかった。ぐちゃぐちゃにこんがらがって、どうしようもなくて、ただ父の胸に顔を寄せていた。
「…………め……なさ……」
精一杯絞り出したごめんなさいは、声になっていたのだろうか。聞こえたのか聞こえなかったのか、父はしばらく私を撫でると息をついて手を離した。
「さぁ、もうおやすみ」
言いたいことを言ってしまって、父の気持ちも聞いた後は、さっきとは違ってその言葉はするりと私の中に入ってきた。そろりと目を合わす。
「……おやすみなさい」
父の表情は、泣きそうに優しかった。