馴染み
『ごちそうさまでした』
「空月」
「はい」
今日も朝食が終わるとすぐ父が空月を連れて表へ出ていく。彼が来てから数日が経った。彼はまだどこかぎこちない感じだが、屋敷の皆はもうすっかり彼を受け入れている。むしろ来る前より楽しそうだ。きっと、彼の人の好さがそうさせるのだろう。当の彼はいま父と剣の稽古中だ。父が、彼に何かしら我儘を言うように言ったところ、自分の身は自分で守りたい、と剣の教えを乞うたらしい。父は今でこそ治療を生業としているが、若い頃はまだ仲の悪かった隣村と先頭きって戦っていたという。ただしまだ酷い傷とまめに水を摂らないと貧血を起こしてしまうらしい彼の体質を考えて、汗が滲めば終了と決まった為、朝食を食べた後の短い時間だけとなっている。それでも彼の成長は著しい。見る度に切れが良くなっている気がする。やがて父が帰って来た。空月はどこかで水を浴びてから帰って来るので、いつも父が一足先になる。今日の父はやけに上機嫌だ。
「空月の上達ぶりは凄いぞ、もう互角に手合わせ出来るかもしれない」
「嘘…!」
父の言葉に耳を疑った。父に並ぶってこと?始めてまだ三日の彼が?
「何か武術をやっているんじゃないかな?動体視力にしても瞬発力にしても、とにかく動きが良い」
楽しそうに言いながら奥に入ってゆく父の後ろ姿を見送り、外に出た。屋敷の裏まで行き、その場にしゃがむ。そこは私の一番落ち着く場所だった。目の前には代々受け継がれてきた花畑がひろがっている。でも近頃は水がないのですっかり萎れてしまっていた。そのずっと向こうにある彼の向かったであろう池のほうをぼんやりと眺める。いったい彼は何者なのだろう。刀に触れて三日目にしてほぼ習得、父も認めるずば抜けて優れた身体能力に動体視力、異常に早い治癒能力、その割に長時間運動の出来ない体、いつも長い髪に隠されてほとんど右半分しか見えない顔、一房だけ混じる鮮やかな青い髪。それに私だけが知っている彼の不思議な術。本当にどんな場所でどのように生きてきた人なのだろうか。
「ちゃんと、知りたいな…」
口に出して気付く。会ってまだ短い彼のことをこんなに考える必要なんて無いのに。一人で下を向く。
「白百合?」
声がして慌てて振り向く。
「どう致しました?このようなところで」
あの優しい笑顔で彼が近付いて来た。
「……なんでもない」
どう答えるべきか迷っていると口からすっと出てしまった。素っ気なく聞こえてしまっただろうか。心配になって彼を見ると、察してくれたのか優しい表情のまま「そうですか。」と答えて隣にしゃがんだ。私がしていたように、目の前に広がる景色に静かな瞳を向けている。
「知りませんでした。屋敷の裏にこのような場所があったのですね」
今度は真っ直ぐ花畑だけを見つめて答える。
「…ええ」
彼にはこの花畑のことはまだ話していなかった。だって、こんな姿になってしまった花畑のことをどう話すことがあるだろうか。それに、最近はこの話をすると、…どうにも上手くいかない。
「いつからかはわからないけど、一つだけだった花がこんなにたくさんになるまでの間、この花畑は信頼される人から信頼される人に、選び選ばれて、任せ任されて続いて来たそうなの。任されると言っても雨の少ない時期に井戸から汲んだ水を遣ったり、嵐の来るときに布を被せて被害を減らしたりするくらいだけど。それで7年前、私は母上からその役目を引き受けたの。でも…もう枯れちゃったから……」
しばらく…頑張ったんだけどな。そこで区切ると、花を見つめて呟くように言う。
「ごめんなさい。私の代で、枯らしてしまって…」
そうして無理に笑みを作るが、俯く頬を雫が伝った。最近はこの話をすると、独りでに涙が出て来てしまう。それもあって彼に敢えて話すことはしていなかった。あぁ、涙って不便だ。どんなに感情を隠そうとしても自分の意思に反して勝手に出て来る。ちらりと隣を見ると、彼は気付いていないのか、それとも気付いていて知らないふりをしてくれているのか、萎れた花の茎に手を触れて黙っていた。真剣な、でもどこを見ているのかわからないような眼差しだった。
彼女の瞳から零れた雫は何なのだろう。でもそのつくられた笑顔はとても悲しげで、それなら我慢して笑顔をつくらずにいっそ思いっきり悲しがれば良いのにと思ってしまう。平気そうに振る舞おうとしている姿を見ているのはなんだか辛い。しっかりしてくださいよ。萎れた花の茎にそっと指をあてる。
「…!」
微かに生気を感じて瞬きをした。感覚を指先に集中させる。無に等しい程の水を使って懸命に生きていて、この指先からすらも水分を求めて足掻いていた。
「まだ生きています」
彼は突然こちらを振り向くと私に言った。どこか驚きと喜びの混じった声色で、でも静かに訴えるような、一言だった。返す言葉を探していると、彼は身体ごと私に向き直って優しく続けた。
「大丈夫です。必ず間に合わせてみせますから。あなたの大切にするこの花たちはまだ枯れさせません」
その真っ直ぐな瞳に吸い込まれそうで、目線を下に逸らして頷く。たった数秒に込められた力強さに、根拠もないのに本当に大丈夫だという気がしてくる。その中に危うさのようなものも垣間見えた気がして不安になるのはきっと、気のせいだ。