明月(あかつき)
皆が床に入り、夜の闇と静寂が屋敷を覆った。どんよりとした雲から僅かに漏れ出る月がうっすらと辺りを照らす。そちらに背を向け、月灯りによって作られた自分の影をただじっと見つめながら、息を吐き出した。
武器を持った人間達の襲撃から助けられたことに始まり、手当て、道案内、衣服に食事に寝床までお世話になり、与えられてばかりな自分が惨めになる。私はこちらに来てから一体何か出来ただろうか。誰かの為になることが少しでも出来ただろうか。もちろん遣わされた目的である任務は遂行している。しかし、それだけだ。山に行って民にその旨を伝えて待つくらい、どんな能力があろうと無かろうと誰にでもできる。
仰向けになり、首だけ動かして外を見る。闇に目が慣れてきたからか、微かな灯りなのに少し眩しい。ふと今日会った者達の顔が浮かんだ。私は彼らが不思議だ。私とは会ったばかりで、私は彼らの為に何もしていない。この水不足で彼らも余裕がある訳ではないはずなのに、こんな私を匿って、彼らに何の得があろうか。
どれくらいそうして見上げていただろう。無意識に口を開く。
「あなた達は何故、そんなにも優しくする…」
ぽつりとした呟きと共に意識は闇に溶け、眠りの淵へと誘われていった。
微かな光と音を感じて目を開けた。ほんのりと明るく、室内が見渡せる。朝が近いのだろう、随分と眠ってしまったものだ。こんなに眠ったのはもういつぶりかわからない。
まだ眠っている皆を起こさないよう窓からそっと外に出ると、昨日の滝坪へ向かった。出立前に月夜様に見せていただいた、物を送る術を習得したいのだ。もし私があの術を使えたなら、半月は早く雨を降らせてもらうことができるだろう。
万が一借りた衣が汚れることがあってはいけないので、滝坪の側の岸に畳んで置いてから水へ入る。そして、人間にとって裸は恥ずかしいことらしいので、一度頭までざぶんと水に浸かると衣を着た状態の人間に姿を変えた。皮膚を変形させるだけなので造作もないことだ。
まだ暗いからだろうか、水は昨日より冷たいように思う。脇の辺りまで水に浸かるようにして目を瞑り、月夜様の言動を思い出す。届けたい物と届けたい場所を思い浮かべ、届けたいと強く思うこと。しかし、何かが起こる気配は微塵もない。やはり彼女の言っていた通り、そう易しい術ではないらしい。しばらく続けていると周りが明るくなり始めた。まだ朝にはなっていないが、皆が起きるまでに髪を乾かして屋敷に戻ることを考慮するとそろそろ乾かし始めないとまずいだろう。膝から下の部分を水中に残したまま岸に腰掛け、結っていた髪を解く。長い髪の毛先が容易に地面に触れてしまう。鬱陶しいが、身体を変形させた一部である以上、切るわけにもいかない。もう少し短くても良かったのに、などと考えながら空を仰いだ。時々吹き抜ける風が濡れた身体を冷やし、軽く腕を擦る。
「暇だ…」
結局その日は、せっかく水に浸かっているので傷を治しつつ、この環境でも使える術を把握しようと様々な術を試しながら髪が乾くのを待った。最後には身体や髪の表面に付いた水を操って除くことができることに気付き、なんだかとても時間を浪費してしまった気持ちになったのだった。