名
「今回の件、あなたの尽力があったから敵の術を打ち破ることが出来たし、それは平和が戻るきっかけにもなったわ。お手柄ね」
この頃まだ 「海牛様」 と呼ばれていた彼女はそう言って微笑む。海を統べ、地上に雨を降らせる長のような存在はこの辺りでは昔からそう呼ばれていて、かつての月夜様も例外ではなかった。ある時私は厄介な敵を退ける為に強い術を使ったことで体に過重な負担をかけ、倒れてしまったのだ。これは彼女の看病によって回復し、業務を再開した日のことだった。せっかく頂いた嬉しい言葉だが、散々迷惑をかけた手前そのような誉め言葉を素直に受け取れるはずがなかった。
「そんな、滅相もございません。こうして再びもたらされた平穏は山からいらっしゃっていた方々やうみうし様、あなたのご尽力あってこそのもの。私の致しましたことはほんの一片に過ぎません」
すると彼女は少し考えながら言う。
「確かにこの平穏は皆が力を合わせたからこそ取り戻せたものだと私も思うわ。でもこれも事実、あなたは、よく頑張ったわ」
あまりに優しく言われて言葉につまる。
「…お褒めに預り、…光栄に存じます」
素直に礼を言うと彼女は悪戯っぽく笑った。
「でも、無理はいけないわ」
「はい、以後気を付けます」
自分も苦笑して返す。
「ところで…」
ふと彼女が身体ごと此方に向けて座り直した。普段は話すときも首だけしか相手に向けようとしない人だ。改まってどうしたのだろう。自然と緊張して返事をする。
「私は、そろそろあなたに名を明かしたいと思うの」
その言葉に目を見張る。海で「名」というと、誰かが考えたのではない生まれ持った「天名」のことで、その種族などを表すものだ。これは呼び名ではなく、知らなくても困るものではない。だから誰にも明かさないのが当然で、自ら決めた特別な相手にのみ明かすことがあるというものなのだ。私と彼女もまた、お互いの名を知らなかった。昔一度、教えると言ってくださったことがあったのだが、私は明かせないからと、丁重にお断りしたのだった。 私の知る限り、彼女の名を知る者はいない。
「そ、それはいけません、未だ己の名も名乗らぬような者にあなたの名を知る資格はございません」
彼女は真剣な眼差しで私を見つめる。
「そんなもの…必要ない。あなたはもう私にとって、信頼できる、頼りになる、大切な存在よ。私は、そういう相手にしか自分の名を明かそうとは思わない。だからこれは…、その証のようなものなの。この気持ちをどうか受け止めてくれないかしら。私が言うからあなたも、なんてことは一切無いわ。でも勿論、あなたまだ聞きたくないと言うなら……言わない」
彼女の黄金の瞳が、緊張と不安の色に、揺れた気がした。嬉しさと苦しさで息が詰まる。そんな中、精一杯の笑顔をした。
「そんな訳、ないじゃないですか。そのように言って頂けるのは、大変、嬉しいです」
「…じゃあ、言って良いのね」
いつになく丁寧に言葉を紡ぐ彼女に、私は一つの覚悟を決めて頷いた。
「…はい」
彼女はゆっくりと一度瞬きをした。
「私は、真照麗羅海牛。これが、私の持つ名よ」
「…大変美しく、綺麗で、素晴らしくあなたにお似合いの名だと思います」
「あ…ありがとう」
安心したように笑った顔を見て、これで良かったのだと思う。もう後には退けない。
「私からも一つ、良いですか?」
「良いけど、どうしたの?」
軽く下を向いて小さく息を吸って吐いた。顔を上げて重くなった口を開く。
「私の名も…、聞いて頂きたく存じます」
「本…当に?」
「はい、先程の貴方の話をお聞きして、このまま言わないでいることなど私にはできません。…どうして、言いたくなってしまうようなことを仰るのですか」
「え?」
困った主だと思い静かに笑みを漏らすが、彼女にその自覚は無い。
「いえ、言っても…よろしいでしょうか」
「勿論よ」
もう迷うな。目を閉じて自らの音を聞く。不安なはずの私の心の臓は、意外にも凪いでいた。ゆっくりと目を開き、私の青を彼女の黄金の瞳に認める。
「どうか、私の名がこれであることをお許し下さい。私の名は、碧海之……海牛。碧海之海牛と、申します」
「うみ…うし?」
彼女は目を見開いた。名の最後の部分は、その属する種族を表す。当然彼女も、私の言わんとすることを解ったようだった。
「はい、失礼ながら私は…海牛様と…同族であるようなのです。どうか、お許し願います」
「……そう。それは、驚いたわ。それが理由で名を言わなかったの?」
「…はい。皆の敬う海牛様と私なぞが同族だと申し上げるなんて、そのようなこと、失礼にも程があります」
それを聞いた彼女はどこか苦しそうにする。
「同族だから失礼だとかそういうことなら気にしなくていいわ。確かに驚いたけど、不快な思いはしない。むしろ近しいと知れて嬉しい程よ。…良い名じゃないの」
そして、優しくふわりと微笑んだ。私はどっと流れ込む安堵と喜びで上手く操れない顔をぐっと下に向けた。喉が詰まって出ようとしない声を押し出す。
「……海牛様…。本当に、有難うございます。私はあなたにお仕えできることを誇りに思います」
「ふふっ、大袈裟よ。それにしても、本当に驚いたわ。容姿も体質もあまり似ていないのに」
普段の調子に戻った彼女の声に、辛うじて私のものも引き戻される。
「私も、不思議に思っておりました」
「あ、それなら私が 「海牛様」 と呼ばれるのは不適切なんじゃない?あなたも海牛なのなら、私がその名を独占してはいけないわ」
「そんな、お気になさらずとも良いではありませんか」
「でも、私がこの名で皆から呼ばれることで他の海牛は名乗りにくくなってしまうでしょう。あなたのように」
「それは…そうかも知れませんが…」
「じゃあ、こういうのはどうかしら。私もあなたも、今持っているものと全く別の名を名乗りましょう」
「全く別の名、ですか?」
「ええ、そうよ。決してこの名を捨てる訳ではないわ、名乗る為の名を持つの。どうかしら」
「……良いと…思います。あなたさえ良いのならば」
「じゃあ決まりね。でも、自分に新しい名をつけるなんて難しいわね」
「はい、本当に」
「あ、そうだ。じゃああなたが私の名を考えてくれない?」
「わ、私がですか!?」
「ええ、そしてあなたの名は私が考えるの。自分に合うものは意外と自分よりも、自分に近しい者のほうがよく判るものよ」
普段の私なら、例え主からの提案だとしても、このような大それたことを受け入れはしなかっただろう。ただ、このときの雰囲気と彼女の流れるような言葉がこのときの私の理性にそれを許した。
「…出来るでしょうか、私に」
「何を言うの。私の見込んだ相手だもの、出来るに決まってる。あまり気負わなくて良いわ。直感で良いの。頼んで良いかしら」
「はい。私もあなたに名を頂けるのはこの上ない喜びです」
そうして互いに微笑み合った後、私たちは並んで傍の岩に凭れるように腰を下ろして空を見上げていた。やがて赤かった水面が藍に呑まれ始める。
「あの」
先に口を開いたのは私のほうだった。彼女の隣から、前に移動する。
「……月夜、…月夜様では、いかがでしょう。あなたの容姿からでもありますが、あの暗い闇を照らし、美しく塗り変える月はあなたによく似ていると思います。美しい月夜を見ていると、とても心が穏やかになるのです。あなたは、その美しい月夜に似通った存在です。大変お似合いだと思うのですが……」
一方的に言い続けて不安になってきた頃、じっと聞いていた彼女が満足そうに目を細めた。心なしか頬が染まって見える。
「……そう、気に入ったわ。生まれ持った名よりずっと好きよ、ありがとう」
本当に嬉しそうに言う彼女に、此方まで嬉しくなる。
「気に入って頂けたなら此方も嬉しいです、……月夜様」
迷いながらも名を呼んでみると、彼女はくすぐったそうに笑って上を向いた。
「私も見つけたわ、あなたにぴったりの名。…あなたの持つ青は、鮮やかな空の青と深い海の青。海の青は、空の青。美しい空は、美しい月夜において必要不可欠なものよ。空が霞んでいれば月夜だって霞んでしまう。私があの月夜だって言うならあなたはその空だと思うの。あなたが元気なら、私も明るくいられる。でもあなたが元気がなければ私だって元気をなくしてしまうわ。あなたは私にとってそういう存在よ。……それで、一つ相談なんだけど…私の名の字をあなたにも持っていてほしいの」
「それは、どういう…」
彼女は少し顔を赤らめて下を向くと、記号のようなものを地面に書いていく「月夜」と書いた「月」を丸く囲みながら続けた。
「えっと…だから、その…私はあなたと一心同体でありたいと思うの。だから、もし、あなたさえ良ければ、「月夜」の「月」の字をあなたの名にも持ってほしいと…、思って…。あ、いや、でも無理にって訳ではないの。私の勝手なわがままだから、だから……」
「嬉しいに決まっているではありませんか。そのようなことが許されるのなら、喜んで」
「…そう。じゃあ…こんな感じでどうかしら、さっき言ってた「空」と「月」を合わせて…」
名乗る為の名を持った後でも、名乗る習慣のない私がこの名を誰かに伝えることは滅多になかった。だからだろうか、自然と昔のことを思い出してしまった。
「申し遅れました。…私の名は、空月。空月と、申します」
名乗ることなどないだろうと思っていた、大切な名。一言一言を噛みしめるように丁寧に声にした。
「そう、素敵な名前ね。空月…さん」
そう言われて違和感を感じた。敬称がつけられているからだろう。
「白百合様、「さん」なんていりませんよ」
軽く微笑んでそう返すと彼女は戸惑うように下を向く。
「そんな、歳上の男性に呼び捨てなんて出来ない」
「どうして、いけないのですか?」
私は歳上なのだろうかと引っ掛かりながら、純粋に不思議に思って尋ねた。しかし、彼女は「だって…」と口ごもる。
そんなの常識だ。年頃の男性にそんなに馴れ馴れしくなんて出来るはずがない。でもきっとこの人にはそんな常識、無いんだろうな…。すると空月はすっと口を開いた。
「なぜでしょう、名前の語尾に「さん」が付くだけなのになんだか距離が見えたようで淋しくなってしまって。それに、単純に今までそう呼ばれたことがないのでどうにも慣れなくて…。申し訳ございません、困らせてしまいましたね」
そう言って申し訳なさそうに優しく笑った。言葉に詰まる。ずるい人。この人にその気がなくとも、そんなこと言われたら断れなくなってしまうじゃない。私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「わかった。じゃあもしあなたがその「様」をとって私を「白百合」と呼んでくれるなら、私はあなたを「空月」って呼ぶ」
彼は一瞬喜びのような表情を見せたあと、目をぱちくりさせ、困ったように斜め下を向く。私を呼び捨てで呼ぶことと私から「さん」付けされ続けることを天秤にかけているのだろう。そこで追い討ちをかけてみる。
「私の意見は、さっきあなたが言ったのと同じよ。だから、「様」はないほうが…ちょっと…嬉し…いかな」
やめておけばよかった。こんなこと言って恥ずかしいのは私だった。彼はよくあんなに平気で言えたなと関心してしまう。でもどうやら効果はあったみたいで、彼は観念したようにくすっと笑ってから私のほうを向き直る。
「わかりました。では私は貴方を白百合と呼びましょう」
言われて少し赤くなる。自分が言い出したのに、いざそう言われるとどこかこそばゆい。すると、成り行きをにこにこと見守っていた父が悪戯っ子のような笑顔を浮かべて言う。
「では私のことは義父上と呼ぶのはどうだ」
「父ではないのにですか?」
少し考えるような素振りを見せながら問い直す空月と父を少し呆れて傍観する。義理の父と言うのは、養子もしくは実の子の夫か妻の場合。つまり父は私で遊んでいるのだ。そしてなぜか気付かない彼。でも変に反応すると父が面白がるので特に口は挟まない。すると、どう言いくるめられたのか彼のきっぱりとした返事が聞こえた。
「なるほど、そういうことですか…。わかりました、義父上」
わからないでっ。不満と恥ずかしい気持ちの入り混じった複雑な表情で父を見つめると、父は無言でこちらへ目をやると声を立てずに笑う。そして彼は、空月はその父と私の応酬を訳がわからないといった様子で見ているのだった。




