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月に咲く花  作者: 麗月
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臙脂の衣

「短い間ですが、宜しくお願い致します」


そう言って大げさなほど深々と頭を下げて微笑んだ若い青年は、顔の左側は髪が邪魔であまり見えないが、暗くてもわかるほど端正な顔立ちをしていた。身に纏う臙脂色の衣は見るからに薄く、あちこち破れて所々肌が覗いている。やはり多少強引に屋敷に連れ込んで正解だった。白百合から聞いた通りの酷い傷にこの寒空では身体に堪えるだろうと思っていたのだ。足の裏を拭かせて手当ての為の部屋に彼を通す。私は村長ということになっているが、仕事としては村医者をやっているので手当ての為の道具は一通り揃っているのだ。青年は物珍しそうに部屋の中を見渡している。そんなに文化の違うところから来たのだろうか。しかし遠くから来たにしてはあまりに荷物がない。というか、手ぶらなのだ。首を傾げながら部屋の戸を閉める。


「一旦全部脱ごうか」


「えっと…?」


言ったことがわかっているのかいないのか、動きの鈍い彼に手を貸して衣を脱がしてゆく。帯をとると衣は容易く脱げた。薄そうなだとは思っていたが、なんと衣は薄いものをこれもまた薄い帯で留めているだけだった。思えば靴だって履いていなかった。他にあるのは手当ての為に解いた髪をまとめていた竹のような髪留めだけだ。あまりにおかしいとは思うが、本調子でない彼を質問攻めにするのも気が引けるので触れないでおく。


「失礼します。お湯持ってきました」


手洗を手に入って来たのは(あんず)で、数年前からここに住んでいる四兄弟の唯一の男子だった。怪我人が男性のときはこうして手伝いに来てくれるのだ。


「これで傷口拭いてください」


「あ……有難うございます」


私が必要なものを箪笥から取り出しているうちに、杏が湯で絞った手拭いを青年に手渡す。それから立ったまま、青年の脱いだ衣類を見て不思議そうにしている。やはりその異常な少なさが気になるのは私だけではないらしい。時々顔をしかめながら一通り拭き終えた彼は、赤黒く染まった手拭いを先程とは別人のような冷たい目で一瞥した。しかし、驚いて何かあったのかと声をかける前に、一つ瞬きをして元の穏やかな光を宿した瞳に戻る。微笑みながら礼を言って手拭いを返す彼を、思わず見つめる。気のせいだったのだろうか、あれではまるで怪我をしている自分を蔑んでいるようだった。視線に気付いた彼に、何でもないと返し、怪我の様子を確認しながら包帯を巻いていく。傷は本当にたくさんあって、一つだけでも動くのが辛いであろう傷もいくつもあった。


「刀に矢に素手でもか…。酷くやられたもんだなぁ」


「対抗する術がなかったもので…」


苦笑する彼の頭に手を置いた。こんなに散々にやられても尚笑顔を見せる、娘と大して歳も変わらないであろうこの青年を、無性に褒めてやりたくなったのだ。


「よく致命傷も残されずに生きて帰った。偉いぞ」


そのままぽんぽんと軽く頭を撫でてやる。おそらく慣れていないのだろう、彼は戸惑ったように目を動かし、やがて下を向いた。


「そのようなお言葉を…頂けるようなものではございません」


謙遜ならまだしも跳ね返さずとも良いものを、と思いながらも、心なしか赤らんでいるその頬を見て自然と笑みが(こぼ)れた。小さく息を吐いてそっと呟く。


「…不器用な子だ」


手当てを続けてゆき、やがて顔の傷に差し掛かった。顔にかかっている髪をそっと退けると、左目はほとんど瞑っていて、強く殴られたか蹴られたかのような痣があった。最初瞑っているのは痣で腫れているせいかと思ったが、瞼の縁に少し血がこびりついているのに気付き、瞼に手をやる。


「ちょっと失礼」


そっと瞼を上げようとすると、彼が阻もうと力を入れたのか開かない。隠さなければいけないことでもあるのだろうか。


「杏、私が若い頃の衣が奥の部屋にしまってあるから、いくつか彼に見繕ってきてくれるか」


「わかりました。俺よりちょっと大きいくらいですよね」


「そうだな」


快く出て行った杏を見送り、もう一度青年と向き合う。何か隠したいことがあっても少しでも安心できるようにしたかったのだ。


「君にとって都合の悪いことをわざわざするつもりはない。ただ、目の怪我は放っておくと大事になることもある。悪いが一度見せてくれ」


静かに、丁寧に言った。依然として俯いたままの瞼をもう一度上げると、一瞬阻もうとした瞼はすぐに観念したようにすんなりと開いた。途端に思わず手を離してしまう。目だけはその瞳に釘付けになったままだ。開いた瞼から覗いた瞳を見て力が抜けてしまったのだ。


それは「碧」よりも「蒼」よりも「青」が相応しい、とても美しい鮮やかな青色で、晴れた日の海のようだった。こんな瞳は生まれてこのかた見たことがない。髪に混ざる作り物のような青も気になってはいたが、そういった髪飾りもあるのだろうと思っていた。しかしこの瞳は流石に飾りとはいえない。やはり見られたくなかったのだろう、青年は気まずそうに斜め下を向いている。


「すまない。あまりに綺麗な目で驚いてしまってな。傷の様子を見る。もう一度見せてくれないか」


彼はゆっくり顔を上げると、何も言わずに痛みを堪えるようにしながら左目を開けた。相変わらず吸い込まれそうに美しい青の瞳の真ん中に、なるほど一目で分かる程大きな切り傷があった。しかし鋭利なもので真っ直ぐに裂かれたのだろう、目玉の中身が荒れている様子はなくひとまず安心する。見たところ傷口に悪い塵が入ったということもなさそうだ。


「今のところ特別悪い状態ではなかったが、傷があまり浅くないだけに安心しきれないな。見えかたはどうだ?」


彼は感情の見えない表情で髪を掻き上げ、もう片方の手で右目を塞いだ。


「…見えるには、見えます。ただ、酷く痛むのと一部が霞んで見えにくいので、まだまともには使えません」


そのとき、戸の外から足音が聞こえてきた。杏が戻ってきたのだ。


「この目は、周りからは隠したいか?」


声を抑えて耳元で言うと、戸惑いながらもしっかりと頷いたので、左目の上にそっと包帯をのせる。それから右目の上の傷も覆うようにしながら頭の後ろで留めた。


「……有難うございます」


彼もまた、近くにいなければ聞き逃してしまいそうな小さな声で言った。



「失礼します。こんな感じでいけそうですか?」


丁度戻ってきた杏が手にした衣類を床に並べてゆく。それは紺や白、灰のものなどで、彼の黒い長髪によく合いそうだ。傷の手当ては目が最後だったので、早速それらを着させる。着方は知らなかったようで、彼は教わりながらゆっくり着ていった。


やがて全て着終えた彼が壁に手をやりながら立ち上がると、背のすらっと高いその青年は着物がよく似合っていて、初めて見たときより一層美しく見えた。残されたぼろぼろになった臙脂色の衣を手に取り、ぱっと広げてみる。すると、臙脂の中に所々褪せた緑のような色の部分があるのが目についた。不思議に思って近くで見て、その訳が判ってしまい、腕を下ろしてぎゅっと掴んだ。綺麗な衣に身を包み、杏と少し会話を交わして笑っている彼を見る。臙脂色だと思っていた衣は元はきっと緑色の衣だったのだ。確かに傷は驚くほど多かった。彼は自らの血で染まった血染めの衣を、一体どのような思いで、ずっと平気な顔で纏っていたのだろう。複雑な思いになりながらも、改めてかける言葉は思い付かなかった。


「大変助かりました。有難うございます」


そう言ってまた深く頭を下げて笑った彼に、私もつられて笑い返した。


「良い、好きでやっていることだ」




「もう終わったの?入っても良い?」


中から聞こえてきた声から終わった頃かと思い声をかけると、杏が戸を開けてくれた。中に立っている灰と紺の衣に身を包んだ人を見て思わず立ち止まる。さっきまでぼろぼろの臙脂の衣を着ていたその人は、身なりも整いさらさらの黒髪を下ろして、本当に綺麗だった。彼がどこか恥ずかしそうに私を見て初めて、自分が彼をじっと見つめてしまっていたことに気付き、顔を父のほうにやった。すると父は私と彼を交互に見て言う。


「致命傷は無いから安静にしていればいずれ良くなるだろう。深いものは、傷痕が残るだろうが」


それを聞いて安心して彼を見上げる。


「良かった。ね」


すると、彼は何やら考えているみたいだった。今の説明に引っかかるところなんてあっただろうか。すると彼は真っ直ぐに父を見つめて不思議そうに言った。


「安静にしていないと、傷は治らないのですか?」


問われた父は呆然としている。


「治らないという訳ではないが…そもそもその傷で動き回れるのか?」


私も普段なら父と同じ考えだが、今回ばかりは彼と顔を見合わせた。


「どの程度を動き回れると言うのかはわかりませんが…」


「あの林から源山まで歩いてきたし、そこから私を抱えてこの丘まで上がってきたのよ。それにあなた、あの源山に登ったんでしょ?」


「ええ、頂上まで行って戻って参りました」


その会話を聞いた父は苦笑した。当然だろう、この人は異常だ。


「それなら生活に支障は無さそうだな。まあ、傷に負担をかけすぎないよう無理だけはしないことだ」





本当に親切な人達だ。白百合といいこの男といい、赤の他人にここまで情けをかける人間がいるとは思っていなかった。


「わかりました。精進致します」


そう返事をすると男が白百合に私を空き部屋に案内するように言ったので私は男に礼を言って部屋を出る。すると男は何を思い出したのか後ろから呼び止めた。何かと思って振り返ると男が尋ねる。


「君、名前は?」


そういえば言っていなかった。尋ねられなければわざわざ言わないので私からすると当然なのだが。すると白百合が声を上げた。


「あ、そういえば私聞いてなかった!」


そんな姿が可愛らしくて無意識にに目を細める。


「申し遅れました。…私の名は、____」


これは、名乗ることなど滅多に無いのに大切な主人に頂いた、気に入りの名だ。


あれは、ある厄介な敵と対峙し、蹴りがついた直後のことだった――。

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