序章
うつろひゆく 花の色こそ 眩しけれ
かの望月も かなふまじかし
そこは海底。無論、人間はいない。
私は普段から人間の姿をとっているが、決して人間ではない。
少しばかり力が強いために己の姿を別の生き物の形に変えられるだけの、ただの海の民である。
元の姿はほぼ全身が青なので、人間の姿をとっても長い髪も瞳も衣も青だ。本当の人間とは似ても似つかないだろう。名前など知らない者も多いので、大抵の者は私をその外見から「青の従者」「青いの」などと呼ぶ。
私は海で産まれ、海で育った。
もう何年もここで、雨を降らせる手伝いをしている。
雨――、ひとりでに降ると人間たちが信じているあの雨だ。
雨を降らせるのはその地域の海で最も強い者の役目であり、ここではそれが我が主、月夜様である。
お強いだけでなく美しく、独りで生きようとしていた幼かった私を拾って下さった優しい方だ。
「空月」
名を呼ばれて側に寄る。
「どうなさいましたか。月夜様」
月夜様は、肩より少し下辺りまでの美しい金糸の髪を指に絡めたまま、片膝を立てて頬杖をついていらっしゃった。その身を包む鮮やかな紫に裾の白い衣が波に揺られている。
「絶対おかしい。こっちから連絡しようにも繋がらないし……」
彼女が眉を曇らせていらっしゃるのは、まさに雨についてのことであった。
「もう陸には三月雨が降っていないということになりますからね。どう致します、また海岸まで様子を見に行ってみましょうか?」
雨を降らせるにはその土地で採れた木の実が必要だ。
月に一度、山から木の実を持ってくる使者を海岸まで迎えに行き、また送り届けるのが、彼女に長く遣える私の役目である。
しかし、その使者が、一度待ち合わせに現れなかったきり音沙汰なく、もう三月も経ってしまったのだ。
「何度行っても何も分からないしまた同じだろうけど……、何もしないよりはね。それじゃ、お願いできる?」
「お任せ下さい」
一礼して背を向けた。
「待って」
しかし突然呼び止められて振り返る。
「繋がる……かも」
小さく呟いた彼女の翳した手の前には、細かく振動しながら青白く光る玉のようなものが現れていた。
「……様、月夜様、お聞こえか」
低く力強い声が届いた。
しかし声の主はここにはいない。
これは光の玉を通して遠くの声を聞き、また届ける「術」なのである。
「その声は、長ね」
月夜様は驚いたように目を見開かれる。
長というのは、いつも木の実を渡しに来る源山の民を統べる大鳥のことで、普段連絡をとるのは主にその長が相手であった。
「いかにも。長く連絡ができず申し訳ない」
「心配したわ。何があったの?」
「それが……」
そうして源山の長が語ったのは、人間たちの生活の変化による被害だった。
人間はこれまで育てた野菜や米、それに狩猟によって食べ物を手に入れていた。それが近頃、街で別の物に換える為に余分に狩猟で動物を捕る者が増えているという。
私としては食糧以外の目的での殺生など理解できなかったのだが、そういうことで源山の方々は迂闊に山から下りられない状況を強いられているらしい。
「使者の中でも被害が出ていてなぁ。不甲斐ないのだが、海までは行けそうにないのだ。無理を承知でお尋ねする。どうにか山から下りずに木の実をお渡しする方法は無いだろうか」
長は懇願するように言った。月夜様は顎に指を当てる。
「そうねぇ、転送できる術はあるけど送るほうだけだし……」
「此方から受け取りに行ければ良いのですが、陸では長くは生きられませんしね……」
月夜様に続いて言うと彼女は、ばっと此方をご覧になった。
「それよ! 人間の姿をとれる私たちならよほど可能性がある!」
指を指されて思わずのけ反る。
「長、此方から人間の姿をした者を遣るわ。それで良い?」
月夜様は青白い光に向き直って仰られた。
しかし、私たちのように海のみで暮らす者は陸ではほとんど生きられないと言われている。まさかお忘れではないだろう。
「それは有難い。しかし大丈夫なのか? 従者殿が難しいと言っていたが」
その言葉に彼女はもう一度此方をご覧になるが、すぐにふいと光のほうを向かれてしまった。
「良いわ。気にしないで」
「何故ですか、月夜様!」
「時間がないのでしょう? すぐに準備するわ」
「分かった。皆にも伝えておこう。ご慈悲の程感謝する」
「いえ、ではまた」
私の呼び止める声に反応もなさらず、話はあっという間に決定してしまった。
連絡が切られ、辺りに静けさが戻る。月夜様は光の玉が消えたほうを見たまま少し俯かれる。
「もっと良い方法が、あるんだと思う?」
お話が終わった直後で普段よりも静かに思える海に、声が響いて沈んでゆく。
「はい。貴方のお決めになったのは最終手段かと」
一呼吸おいて彼女は表情も変えずに仰る。
「例えば?」
「すぐには……」
代替案があった訳ではない私は言葉を濁すことしかできない。
「じゃあやっぱり仕方ないわね。あんまり悠長なことも言ってられないし」
仕方ないとは言っても、命懸けの方法なだけに納得するのは難しい。やり場のない思いが胸に残る。
「しかし、何方をお遣りになるおつもりですか? 源山は遠いと聞きます。そう短い時間で往復できる者などいないのではないでしょうか」
「そうね、空月……」
月夜様は一つ瞬きをして目を伏せられた。そして、決心したように此方を真っ直ぐに見る。
ああ、やはりそうか。
「私は、貴方にお願いしたいと思っているわ」
その言葉に小さく息をつく。目を見ていたくなくて下を向いた。
私は他の従者と比べるとずば抜けて力が強いので、予想はついていた。案の定といったところだったが、残念に思ってしまったのだ。
「嫌……です。行きたくありません」
駄目だ。我が儘を言って困らせてはいけない。
彼女が驚いたのが気配で分かった。
「それほど驚かれることでもないでしょう。月夜様、貴方は私に、死ねと仰るのですか!」
月夜様は目を丸くしている。
「ごめん……なさい、そんなつもりじゃ……」
彼女の申し訳なさそうな表情を見て平静に戻る。自分はなんてことを言ってしまったのか。
「いえ、申し訳……ございません」
少しの沈黙の後、月夜様は身を乗り出して膝に頬杖を付いた。
「ねぇ空月、貴方何か誤解してない?」
……え?
何のことを言われているのか分からなくてその目を見つめ返す。
「陸って、案外普通に生きられるものよ。ほとんど生きられないなんてのはただの噂。まあ、力の弱い子が行けばどれくらい平気でいられるか、分からないけど」
そう言って彼女は顔を傾けて微笑まれた。
もう長く生きてきたが、そんな話は一度も聞いたことがなかった。
驚きの後に、そのことで取り乱してしまった恥ずかしさに襲われ、顔が熱くなる。たまらなくなって片手で顔を半分覆った。
「すみません。そうとは知らず……醜い姿をお見せしてしまいました」
「良いわ。久しぶりに貴方の本音が聞けたことだし。それに、貴方が行かないなら私が行けば良い話なんだから」
私は拳を握った。
この方はいつもそうなのだ。さらっと仰られた言葉で私の逃げ場を失くしてしまう。
「貴方が行くと仰られたところで、それではお願いします、と申し上げることができないのはご存知でしょう。貴方には貴方のお役目があります。元から行ける者は私しかいなかったのですね」
彼女は私の言葉に笑みを消した。
「……否定はしないわ」
目を瞑り、そっと息を吐いて覚悟を決める。そして丁寧に目を開けた。
「ではそのお役目、この空月がお受け致します」
膝を折って下げた頭に、手が乗せられた。月夜様はそのままくしゃくしゃと私の頭を撫でる。
「月夜様……? これは一体……」
月夜様は軽く微笑まれる。
「大丈夫、って意味。……人間が言ってた」
〝人間〟という言葉が、耳に残る。
彼女は何故だか人間に好意的な感情をお持ちだ。
しかし、人間は突然海にやって来ては大量に民を拐って行く敵である。今回だって分別なく山の民を狩っているというのに。
私は人間の形は便利だとは思うが、人間という生き物を好きだというのはあまり理解ができない。彼女の前で、それを口にすることはないが。
私は頭に乗せられた彼女の手をそっと戻す。様々な感情の上に普段通りの笑顔を貼った。
「このようなことをして下さらなくとも、私はもう平気ですよ。先程は勘違いをしておりましたが今はもう――」
「嘘」
月夜様はじっと此方をご覧になる。そして私に掴まれたままの手で私の顔を指差した。
「不安で堪らないって顔に書いてある」
上から貼りつけただけの笑顔は容易く剥がれ落ちた。思わず目を逸らす。
彼女はふっと笑うといつもの調子で仰られた。
「私に隠し事は通じないって、忘れた?」
それを見て私も自然といつもの調子に戻る。いつの間にか空気が張りつめていたようだ。はぁ、と一つ溜め息をついた顔にはひとりでに笑顔が滲んだ。
「一体、何の術をお使いで?」
「さあね。ていうか術じゃないし」
半ば呆れたような、半ば楽しそうなご様子だ。飽きるほど慣れきったその雰囲気にほっとする。
「ちょっとしゃがんで」
一つ息をついたところで月夜様が仰られた。
「なんですか」
彼女の意図は考えても分からないことは解っているので、もう深く考えず言われるままに膝をついた。
すると、ふわっと視界で金糸の髪が揺れた。次の瞬間私は彼女の腕の中で呆然としていた。月夜様は突然私を抱きしめなさったのだ。
そして、私の耳のすぐ側となった唇でそっと話し始めた。
「ごめんなさい、こんな任務を与えてしまって。私だって、あなたを陸に遣りたくはないの。勿論行くこと自体は言った通り噂ほど無謀ではないわ。でも陸と海じゃ環境が違い過ぎて……。思い通りにいかないことがきっとたくさんある。ここじゃ当たり前に満ちている水だって探さないと無いし、あちらには人間だっている。その容姿によっては歓迎されないかもしれない。……でも忘れないで、貴方は独りじゃない。困ったら周りを頼りなさい。源山の方たちもいるし、人間だって悪い者ばかりじゃない。勿論貴方が〝頼る〟ということを全っ然知らないのは百も承知よ。それでも……」
彼女は腕をほどくと私の肩に手を置き、真っ直ぐに私を見た。その真剣な眼差しに吸い寄せられるように、考えることも忘れてただ見つめ返す。
「それでも、差しのべられた手はとるのよ。拒んでは相手を傷つけてしまうから。きっと損は無いわ。でも相手が敵だと思ったら遠慮なく逃げなさい。自分の身の安全が一番大事」
そこまで言うと月夜様は一つ瞬きをされて視線を落とした。肩にやっていた手も下ろし、項垂れるように力なく斜め下を向く。そのお顔は髪で隠されてほとんど見えなかった。やはり心配事が多いのだろうか、彼女はそのまま溜め息をつくと小さく呟いた。
「本当に、私が行ければ良いのに……」
はっとして唇を噛み締めた。
そうだ、今までずっと私にその任務を果たす能力がある前提で考えていたが、そうとは限らないのだ。昔に比べれば、だいぶ強い力を発揮できるようになってきてはいるが、持つ力としてはまだまだ月夜様の足元にも及ばない。
あぁ、私にもっと力があれば良かったのに。陸に行くことに臆したり、月夜様を不安にさせたりする必要が無い程に。
しかしそれは考えても仕方がないことだ。申し訳ない気持ちで腰を上げた。
一体自分に何を言う資格があろうか。それでも少しでも彼女を安心させるために笑みを作り、彼女の顔を覗きこんだ。
「……今教えて下さった様々のこと、常に心に留めて全身全霊臨ませて頂きます。月夜様からすれば、私ではまだまだ気がかりかとは存じますが」
すると彼女は予想外にも焦ったようなご様子を見せた。
「あっ違うの。私は、貴方なら絶対にできると思っているわ。私が行きたいっていうのは、やっぱり貴方に何かあったらって思うし……、それに今回のは普段海辺まで行ってもらうのとは違ってとっても時間がかかるじゃない。だから……その……」
珍しい、月夜様が言いよどむなんて。
彼女は言葉を探すように目を逸らした。後ろめたいことがあるようには見えない。何がそんなに言いにくいのだろうか。
そのとき、もしかしたらと、思い付いたことがあった。
「月夜様、……お寂しいのですか?」
すると彼女は、ぱっと目を丸くしてこちらをご覧になった後、また目を逸らされた。
「あまり……、待つのは嫌いなの」
その頬が少し赤らんで見えて、思わずくすっと笑った。
「なるべく早く戻りますね」
月夜様は目だけを此方にやって、軽く微笑まれた。
「当然」
それからも月夜様は、彼女の持つ知識を目一杯伝えて下さった。
陸ではこまめに水を摂らねばならないこと、水に触れていなければ術は使えないこと、源山へ行くには人間の村を通らねばならないこと、道中の立派な大木のある林に休憩しやすい池があることなど、知らなければ困るであろう内容ばかりだった。
しかし同時に、いずれも経験した者しか知り得ないものだったことが気になった。思えば先程も人間から直接聞いたかのような物言いをなさっていた。
そして「こんなもんだったかな」と考えている様子の彼女に、躊躇いつつ口を開いた。
「あの、月夜様。……貴方は、陸へ上がったことが、人間に会ったことがおありなのですか?」
彼女は宙を見たまま動きを止めた。数秒間、瞬きもしなかった。そして、やがて目を伏せると、僅かに微笑んだ。
「ええ。以前、人間と会話をするのが楽しくて陸に通った時期があったわ。山からの使者の案内役を貴方に任せるようになって少しした頃かしら。……もう会わなくなったけどね」
「全く……存じ上げませんでした」
あまり詳しく聞いてはいけない気がした。彼女の初めて見せた表情はどこか自信無さげで悲しそうで、影のある笑みを浮かべていたから。まるで知らない誰かを見ているような気分だった。
話が決まってから出立までは非常に早かった。
「ちょっと見てて」
月夜様は背筋を正して正座すると、見えない壁に触れるかのようにすっと目の前に手を翳した。
「貴方も何度か見たことあると思うけど、これが、ものを送る術ね」
月夜様は説明しながら術を完成させてゆく。ただの水だった所が振動し、間もなく穴が開いた。
「穴の大きさは、気合いで押し広げたら良いから」
そう言って穴を大きくすると、彼女は空いているほうの腕でもう一度私を抱き締めた。
「気を付けて」
その腕を離れると、深く礼をして穴を潜った。出た場所は、立つと腰程までしか水に浸からない浅さだったので、私は穴の前に膝を付いた。
「必ず、任務を果たして戻って参ります」
「でも自分の身の安全が優先だから。絶対よ」
不安そうなお顔で念押しする主に頭を下げる。
「承知致しました」
数秒間そのままで、次に顔を上げると穴は無くなっていた。
立ち上がって、もっと浅瀬にある手頃な岩に腰掛ける。しばらくすると身体が適応し、髪と瞳の色が変わるらしい。
「暇だ……」
それを待つ間、特にすることの無かった私は仕方がなく海岸で拾った竹の欠片の加工に精を出した。
そうしてどれだけの時間を過ごしただろうか。満足いくまで加工した竹で髪を束ねたときに毛先が見えて驚く。
たいしたものだ、本当に黒くなっている。
月夜様が陸に上がられたときは、髪色は暗くなったが黒にはならなかったそうだ。その点この髪はほとんど真っ黒に見える。
内心喜びながら確認を続けていると、鮮やかな青が見えた気がして目を疑う。恐る恐る見えた辺りの髪を取って私は、先程喜んでいた自分を恥じたくなった。
むらもなく黒い髪の中に一房、不自然に青い髪が混じっているのだ。大きくため息をついた。どうやら、ご丁寧に頭から毛先まで、それもまたむらなく鮮やかな青一色のようだ。
これは隠せないか。
諦めて海岸に上がる。海の中と比べると陸は驚く程体が重い。軽く跳ねたり舞ったりして多少慣らし、源山へと歩き始めた。
身に纏うのは、人間のものに模して月夜様が作ってくださった衣だ。
少しだけ振り返り、遥か遠くにいらっしゃる月夜様を想う。
「これでも貴方の右腕、必ず成し遂げて参ります」
応えるように、海からの風が鬱陶しい髪を揺らした。