友との約束は体育館の天井に ~バスケ少女と共に天井に挟まったボールを意地でも取ろうとする男子中学生の短編~
1
親友の孝が引っ越した。
誰よりも底抜けに明るい孝は、俺に無い物を持っている奴だった。
元々内向的だった俺は孝に一方的に話しかけられ徐々に心を開いていき、気づけば俺はいつも孝とツルんでいた。
教室で話す友人は他にもいるが孝の存在は特別で、だからこそ彼が転校すると知った時は啞然とした。
当時は今みたいに携帯電話は普及していない時代だ。孝が引っ越す先は新幹線に乗って半日かけてようやく着く地方都市。当時の俺達からすれば途方も無く遠い場所だった。
だから、もう会う事が無いという事実を彼は知っていたのだろう。孝はいつもの白い歯を全開に見せた笑顔で俺の懸念を吹き飛ばすように肩を叩いた。
「やり残した事は無い。後は頼んだぞ佐藤」
そう言って孝は彼の父が運転するワゴンに乗り込み、俺から去っていった。
九月の初週。暑さがまだ残る日曜の朝だった。
――やり残した事は無い。
孝はそう言ったが俺は今一つ納得できないでいた。
彼が転校した後もモヤモヤを払う事が出来ないでいた俺は、体育館の片隅でじっと座りながらバレーボールの試合を観戦する。
一・二組の男子生徒で行われる体育の授業。
孝がいない以外はいつもと変わらない名簿順のチームメイト。彼らと共に他チームの試合が終わるのを待っている状況だった。
横目に見ると他の連中は反対のコートで行われている女子の試合に夢中だった。
誰それの胸がでかいだの、そんな年頃の男子中学生らしい。
だが、俺は彼らの与太話とは全く別の対象に意識を向けていた。多くの視線が正面上に向けられている中、俺の視線だけ体育館の遥か頭上に釘付けになっているのだ。
微妙に湾曲した天井の屋根に沿うように、クリーム色の鉄骨が張り巡らされている。
鬱蒼と生い茂る密林の樹木のように入り組みいくつも交差する鉄骨――その影にそいつは今日もいた。
天井の鉄骨の間に挟まっているのは一つのボール。
明らかに異物感溢れる青と白、そして山吹色で配色された孝の忘れ物は、今日も同じ場所から俺を嘲笑うかのように見下す。
モルテンのバレーボール。どこの中学校にも大量に常備されている取るに足らない存在だ。
あのボールは数か月前の同じ体育の授業で孝がやらかしたものだ。
相手のシュートを受け止めるつもりで跳ね返したボールはあっという間に頭上高く飛んだかと思うと、それっきりコートに落ちてくることは無かった。
体育教師が甲高いホイッスルを鳴らし、すぐに代わりのボールは手配された。何事も無かったかのように試合は続行され、天井に挟まったボールの存在も一瞬の内に忘れ去られた。
だが、俺はどうにも腑に落ちない。
いつまでもあの場所に挟まったままのバレーボール。もしかしたらあの場所に飛ばした孝本人ですらも忘れているかもしれない。
孝はやり残した事は無いと言った。
――違う。それは違うぞ、孝。
俺はぐっと唇を噛み締める。
あのボールは何とかしなければならない。
天井のモルテンこそが諸悪の権化だと、今ようやく分かった。
そうだ。あのボールを鉄骨から弾き出してはじめて、この胸のモヤモヤは晴れるのだ。
ヤツを地へと叩き落とす、必ず……!
俺はあのボールこそが孝から与えられた使命そのものだと勝手に信じ、自身の心に強く言い聞かせたのだった。
2
俺は授業が終わると同時に教室を飛び出し、再び体育館へと足を踏み入れた。
開きっぱなしの扉から広い館内へと足を踏み入れると、案の定無人だった。
今は定期テストの準備期間で、全ての部活が休止しているのだ。
いつもの放課後であれば、バレー部とバスケ部が半分ずつ分け合って練習に精を出す。しかし、今この場所にいるのは俺一人。
四方を見渡してもがらんどうな体育館はオレンジの夕陽に照らされていて、どこか寂しそうだった。
校舎の方からは下校する生徒達のざわめきが微かに遠くに聞こえる。そんな忘れ去られたような静寂の場所にいて、俺はそっと足を踏み出し始める。
広い体育館の中に上履きのゴムが擦れる足音が響いた。
「さて、やるか」
用具倉庫の前で立ち止まり、重い引き扉を一気に開く。
埃の匂いと、どこか褪せたゴムの匂いが鼻腔を掠めた。格子に覆われた窓一つだけの倉庫内は薄暗いかと思いきや、ちょうど西日が差し込んでいて鈍いオレンジに照らされている。埃がキラキラとダイヤモンドダストのように舞っていて綺麗だと思った。
その下に無造作に置かれた様々な体育用具。得点表に卓球台、コーンにゼッケンがまとめられた籠、マット……普段授業や部活で使われる彼らは皆眠りこけているようだ。
俺はその中の一つ、ボールが満載された籠に目を付ける。
バレーボールの授業で使うその籠台車を俺は引っ張り出す。
体育館のほぼ中央まで運び出すと、俺は空気の詰められた手頃なボールを一つ手に取る。そして、天井に挟まった目標を見据えた。
このボールをビリヤードのように天井の標的にぶつけて鉄骨から弾き出す――それが唯一考えられる方法だった。
衣替えしたばかりの冬用の学ランは肩口が硬く、動きにくいが問題ない。
ぎゅっと脇を締めて両手でボールを構えた。丁度、バスケットのシュートのフォーム。
サーブのようにもう片方の手でポーンと飛ばしてやるのもいい。が、自信が無い。俺は授業でサーブを未だ成功させた事が無いからだ。
だが、バスケのように両手で狙いを定めれば命中率はいくらかマシになる筈だ。
ぐっと狙いを定めて息を止める。
筋肉が一瞬の内に収縮し、
「ふ……!」
吐息と共にボールを放つ。両の手を離れ上昇していくバレーボール。
――よし、行け!
しかし俺の願いも空しく、ボールは鉄骨が張られた高さまで到達する事なく下降を始めた。
「ああ……そんな」
俺の落胆を嘲笑うかのように、ダアァンというバウンド音が空しく体育館を震わせる。
ごろごろと転がっていくボールから天井に視線を戻す。
暴力的なまでの夕陽のオレンジが天井を染めていた。陽ざしが当たらない鉄骨の影で際立って異彩を放つ三色のボールは反骨精神の塊そのものだ。
だが、覚悟しろ。
俺は次弾を放つべく、新たなボールを籠から取り出した――
しかし、それから後も、俺の放ったシュートがヤツに届く事は無かった。
せいぜい天井の鉄骨を掠るのが関の山。届かせるのに精いっぱいで肝心のボールにはぶつからない。
板張りの床を転がるボールは徐々に数を増していく一方だった。
「シュートを下手投げに変えてみるか」
大股を開き、両手で支えたボールを突き上げるように真上に放り投げる――某バスケット漫画の主人公がフリースローでやるフォームだ。
高さは稼げるが、狙いは外れ続ける。床にとっちらかったボールの数は増え、いよいよ収拾がつかなくなってきた。おまけにボールを投げ続けたせいで腕っぷしにも疲れも貯まり始めている。
「仕方ない。今日はこの辺で――ん?」
片づけて帰ろうかと思った瞬間、入口から誰かが入ってきたのが見えた。
その人影は女子生徒で、サッカーイタリア代表を彷彿とさせる鮮やかな青の長袖ジャージとスパッツ姿。一つ下の学年色だから二年生だろうか。
肩先で切りそろえられたショートカットを揺らし、彼女は小走りで倉庫に向かう。
そして、中からバスケットボールの籠台車を運び出してくる。
女子生徒は台車をバスケットのゴール前で止めると、履いていたごついバッシュで車輪留めを一つずつ下げていく。
しかし――テスト準備期間中なのに何故?
俺の疑問に満ちた眼差しにも気づいている筈だが、少女はこちらに目を合わす事無く籠の中に手を伸ばす。
「何をするつもりだ……?」
手を止めて観察していると、女子生徒はバスケットボールの一つを手に取り、ボールを両手で構え、溜めを作る。
――そして、シュートを放った。
恐ろしい程整ったフォームと共に、彼女の手のひらからボールが放たれる。
放物線を描いたボールがネットを無音で揺らす。全く乱れる事無く翻ったゴールネットは、はごろもフー〇のCMのような美しい動き。
俺はその美しすぎる弾道にうっとりしながら見入っていた。
バスケットボールはダアァンと音をさせて床に転がっていく。
「ナイス……」
そうとしか言いようの無い、お手本のようなスリーポイントシュートだった。
しかし――素晴らしいシュートを決めたと言うのに、少女の背中には何の感慨も見られない。
スパッツの裾から二本の脚をすらりと伸ばし、白黒赤の三色のバッシュは木目調の床をぎりぎりと踏みしめている。
彼女の後姿はどこか寂しく、孤独感にあふれていた。
ふくらはぎの左右を囲うようにひっそりと盛り上がった筋肉が付いている。運動部らしい洗練された機能美を感じる長い脚。
自然と、膝裏の窪みへと目を吸い寄せられていたら、
「……⁉」
不意に女子生徒が振り向いた 健康的な日に焼けた肌は俺みたいなひ弱な色白とは全然違う。凛とした顔立ちの美少女だった。
見とれていた俺は咄嗟に目を逸らすが後の祭り。
ショートカットをはらりと揺らし、転がったボールを拾うと彼女はこちらに向かって来る。
「何か用ですか?」
警戒したような口調で女子生徒は言った。しかし、その声音にはまだあどけなさが残っている。
背丈は俺とどっこい、もしくは数センチの差で俺の方が高い。下級生の女子生徒にしては高身長の方だと思った。
ぐっとこちらを見つめる大き目の虹彩は黒曜のように美しく、その内側には俺の姿がくっきりと映り込んでいる。
「今のスリーポイントシュートだよね?」
意を決して俺は口を開いた。
「まあ、そうですけど……」
褒められている事への照れ隠しなのか、少女は困ったように眉尻を下げる。
彼女の眉毛は整えられてはいるもののくっきりとしたラインで、実直な人柄を印象づける。
胸元の赤い刺繍につづられた名前には『篠崎唯衣』とあった。
「二年生?」
「えっ――ああ、二年二組の篠崎唯衣……です」
俺の学年章を確認したのか、あからさまに口調が変わっていた。
唯衣は律儀に組まで俺に告げると、頬を掻く。
「先輩は……バレー部じゃないですよね?」
指さした先にはバレーボールが満載された籠。心底不思議だと言いたげな口調だった。
無理も無い、今はテストの準備期間中なのだ。
放課後の体育館で学ラン着た男子が一人でバレーボールの自主練なんて怪しすぎる。どう考えてもいち早く帰ってさっさと勉強するべきなのだ。
だが、俺にはやり残した事があり、それを成すまで気が収まらない。
所詮は自己満足だ。でも、あの天井のボールを叩き落さなければ勉強にも身が入らないのも事実だった。
「そう言う君こそどうしたの? 今は部活休止中だろ?」
俺は後輩の――それもとびきり可愛らしい女子生徒の――不審者を見るような蔑んだ目にも臆せず、疑問をぶつけた。
すると、唯衣は腰に挟んでいたボールを持ち上げて顔を隠す。
恥ずかしそうに指先でコロコロと回転させるのはリスがクルミで遊んでいるようだ。俺が黙りこくっている間もバスケットボールの黒線がせわしなく回転している。
「自主練です。私、試合だと全然スリーポイントが決まらなくて……」
「それで、わざわざ部活が休みに時に?」
もう一度こくんと頷き返す。彼女の背丈は一学年後輩であるにも関わらず俺と殆ど変わらない。
「今なら一人でシュート練習できるし、スタメンの先輩達にもヤジ飛ばされないし、上手くなって見返そうかなって……思って――」
だが、大人びた体つきの割に、瞳の奥はどこか幼げだ。おそるおそる人間に近づいてきた小動物のような危うさがある。
塩でもかけたように語尾が小さくなり、それっきり黙してしまう。
一見、実直なスポーツ少女。しかしこの女バス部員は思いの外、メンタルが弱そうだ。
綺麗なフォームでスリーポイントを決めているのに、試合で全く決まらなくなるというのもその辺が関係しているのかもしれない。
「そっか。まあ、頑張ってな」
俺は踵を返し、無数に転がるバレーボールを回収し始めた。
彼女の練習の邪魔をするつもりはない。さっさとここから立ち去ろうと思ったのだ。
「あのっ」
しかし、ほぼ無人の体育館を彼女の甲高くて可愛らしい声が木霊した。
「そう言う先輩こそ、一体何をしてるんですか? いつも同じ体育館で練習してるから先輩がバレー部じゃないなんて私でも分かります。貴方は――」
「参ったな」
俺はこれ以上隠し通す訳にもいかなくなり、事情を話す事にした。
「そうだな。俺はアイツを何とかしようと思ってここに来てる。今なら体育館には誰も来ない。チャンスなんだ」
そう言って天井の鉄骨に挟まったバレーボールを指さす。
「は?」
俺の指先に吊られて天井を見上げた唯衣が気の抜けた声を漏らした。俺を前にした緊張も、自身のコンプレックスを赤裸々に語っていた羞恥心も全て吹き飛んだようだった。
白い歯を覗かせて大口を開いた唯衣の顔はぽかんとしたという表現が最も似合っている。
「あの高さに挟まったボールを落とすには、同じようにボールをぶつけて衝撃で叩き落とすしかない。だけど……」
俺は驚く唯衣を尻目に転がっていたボールの最後の一個も籠に戻した。
「今日はもう帰る。練習の邪魔をするわけにはいかないから」
それに勉強もしないとね、と根も葉もない嘘をつけ加えて、俺はボール籠を押しながら少女に手を振った。
3
翌日の放課後――俺が体育館に足を踏み入れると、既に唯衣がいた。
唯衣は昨日と同じ場所、同じゴール前で何度もシュートを繰り返し放っていた。スリーポイントは驚く程正確な軌道で決まり続け、成功率が衰える気配は無い。
まるでスリーポイントを遂行する機械と化したように唯衣は黙々と練習を続けていた。
「すごいな……」
一方、バスケの授業ではドリブルすらろくに出来ないのが俺なのだ。
殆ど味方のパスを繋ぐくらいの空気ポジション。だからこそ、唯衣のようにかっこよくシュートを決める姿には畏敬の念すら感じる。
だが、俺は彼女のシュートを見に来たわけではない。
「こっちもさっさと終わらせなきゃな」
一糸乱れぬフォームで機械的にシュートを続ける唯衣。俺は彼女の邪魔をしないように籠台車を運び出す。
そして、昨日と同じように標的が挟まった天井の真下に台車を停めた。
「よし、やるか」
早速ボールを天井へと投げていくのだが、目標に掠る気配は一向に無かった。
飛距離を稼ぐために苦し紛れのサーブを試してもダメだった。外れるならまだしも余計に狙いが外れ、明後日の方向に飛んでいく。
「やべ――」
拳を作り叩きつける。放たれたボールは勢いよく唯衣を掠めて壁にぶつかった。
ほぼ無人の体育館内を派手なバウンド音が響き渡る。
「ごめん! 大丈夫⁉」
俺はギリギリで避けて尻餅をついている唯衣に駆け寄る。
幸い、ボールがぶつかる事は無かったようだ。しかし、練習中の唯衣に水を差す形になってしまった。
「怪我は無かった? 本当にごめん」
俺は何とも言えない気まずさを感じながら唯衣の手を引くと詫びを入れる。
「大丈夫ですけど……」
じとっとした目で俺を流し見る唯衣は籠から新たなボールを手に取る。
無言のまま構えて放ったジャンプシュートはまたしてもゴールネットを揺らす。
「先輩は何であの天井のボールにムキになってるんですか? ほっときゃいいでしょう」
振り返った唯衣の顔は怒りと焦燥が入り混じっていた。心底理解できない、そう言いたげに眉根を寄せている。
「あのボールは俺が何とかしないといけないんだ」
「?」
しかし、俺は退かない。
「あの天井にボールをはめ込ませたのは俺の友達なんだ。バレーの授業中のサーブで……」
「なら、その人に何とかさせたらいいじゃないですか!」
「ダメなんだっ!」
思わず声を荒げてしまう。唯衣はびくっと震え、まるで叱られた子供みたいに怯えている。
上目でこちらを見る唯衣に小さく手を掲げ、怖がらなくてもいいと息を整えて続けた。
「そいつは転校してしまって、この学校にはもういないんだ。だから……俺が何とかするしかない」
俺は転がっていたバレーボールを掴み取ると、元の場所に戻ろうとする。
バカげたことを言う。唯衣はきっと心の中でそう思っているに違いない。
――だが、俺は諦めない。
「はああっ!」
片腕でボールを構えて天へと叩きつけるように投げる。小学校の頃によくやったドッジボールのシュートの要領だ。
叫び声で力が増幅されたボールは真上にかっ飛んでいく。
――いけるか?
しかし、その期待は徒労に終わった。
ボールは張り巡らされた鉄骨の一つに思いきりぶつかると、弾丸のような速さで床面に跳ね返される。
ダアアン、と恐ろしいバウンド音を震撼させてボールが板張りの床を叩きつける。
「ああ、惜しい!」
もし、目標に直撃していれば十分に鉄骨から弾き出す事が出来ただろう。
もう一度だ。俺は転がるボールを縋りつくように回収すると再び天井を見据え、
「ん……?」
しかし、さっきまで俺が立っていた場所に、唯衣がいる事に気づき動きを止める。
唯衣は足元を整え、ちろりと舌で唇を舐める。
そして目標を見据えながら、
「後ろでこんなバカな事やられてたら落ち着きません」
腰に抱えていたバスケットボールを額の前までもっていきシュートの構えを取る。
「私も手伝います。鉄骨に挟まってるアレを打ち落とせばいいんですよね?」
そう言ってスリーポイントの要領でボールを放つ。しかし、ボールは鉄骨付近までしか届かない。
正確性を重視したバスケのシュートフォームではどうやっても天井まで距離が持たないのだ。
「……よし。それなら、俺にいい考えがある」
これは思ってもいない展開だった。唯衣のようなシューターが加勢してくれれば、思ったよりも早くこの問題は片付きそうだ。だが、いくらポテンシャルがあってもその場その場に合った技術が必要だ。
俺は唯衣の隣に立つと、両脚をずりずりいと広げて腰を落とした。
まるで土俵入りでもするかのような俺のポーズに、唯衣は怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「このフォームなら真上に無駄なく力を込められる筈だ。さあ投げるんだ」
「え……?」
唯衣は日に焼けた健康的な童顔を紅潮させて戸惑っている。
「なら、俺のやるのを見ててくれ。こんな風に……投げれば――ッ!」
ふっと息を吐いて真上に放った。某バスケ漫画のフリースローで主人公がやるヤツだ。
しかし、その間抜けなフォーム侮る事無かれ。
ふわりと上昇し、鉄骨の間を潜り抜けたボール。
「いったか⁉」
しかし、挟まっているモルテンボールにヒットする事は無かった。
鉄骨をすり抜け、無慈悲に落ち行く様は、まるでピンボールのようだ。
ズンと低く沈むような音をさせてボールが床へと戻ってきた。
「さあ」
その転がるボールを取り、唯衣の胸の前に突き出す。
きょとんとした顔の唯衣。
「さあ、さあさあ。次は君の番だ」
「ええ……私がやるんですか⁉ 今のフォームで⁉」
俺は無言で頷き、早く腰を落とせと自身の太ももを二度叩く。
「分かりましたよっ、もう!」
唯衣は渋々頷いた。
俺と同じように足を広げて立つと、心底恥ずかしそうな顔で腰を深く落とす。彼女のスパッツの裾から、よく鍛えられた太ももが少しだけ露出した。
「……⁉」
正常な男子中学生らしく、自然と視線が吸い寄せられかける。が、別にこれが見たくてやらせた訳じゃない。
俺は逸る衝動を必死で自制させながら、視線を天井へと逸らす。
「いいか、あそこ目掛けて放り投げろ。君なら出来る」
真上に挟まっているモルテンの位置を再確認させる。
唯衣はボールを持った両腕を足元まで落とした。
「分かりました。やってみます……ふんっ!」
そのまま上へと腕を振り上げ、ボールがふわりと上昇し、
「「ああっ!」」
思わず声が揃った。
先程のシュートよりも高く上がったボールはギリギリの距離で目標を掠めた。あと30センチも近ければヒットしていた、そんな惜しい一投だ。
ボールは真っ逆さまに急降下し、一際大きなバウンド音を残して床を転がっていく。
「「……」」
俺達は顔を見合わせる。一体、何をやっているんだろうと思った。
世間はテスト勉強の真っ最中だというのに。
でも、唯衣の放った大股開き下手投げのシュートは今まで放った中で最も目標に近い所までいったのだ。
俺は気を取り直して彼女の肩を叩いた。
「この調子だ。続けよう」
「ええ、まだやるんですか⁉」
俺は無言で土俵入りポーズに戻る。唯衣は袖口で口元を覆って恥ずかしがる。
このフォームだけは勘弁してくれ。そう言いたげだったが、俺は首を横に振る。
俺達二人は、しばらくの間この間抜けなシュートを繰り返した。
しかし、惜しいところまでは行くものの、ボールが触れる事は無い。
結局、その日もボールを弾き出す事は出来なかった。
あのボールは俺を嘲笑い続けるかのように、未だ天井に鎮座し続けていた。
だが、しかし――
4
「なあ、アレ見ろよ」
「ああ」
翌日の体育の授業でそれは起きた。
試合の観戦中の事だった。
隣の連中が天井を見ながら何か話しているので釣られるように視線を上に向けた。
すると……
「何だよ……あれは」
驚きの余り絶句した。
何とそこには、天井に挟まったボールが増えていたのだ。
二つのモルテンのボールは、どちらが孝の投じた物か判別不可能な程近い場所にあった。
「あれじゃあ、どちらか弾き出してもモヤモヤが残ってしまうじゃないか!一体どっちが孝がやらかした方だ⁉」
思わず一人叫んでいた。
昨日までは確かにボールは一つだけだったのに……
ボールをあの鉄骨からどかそうとここまでやってきたのに、これでは本末転倒だ。
こうなったら、二つとも何とかするしかない。
「次のチームは前に出ろ!」
体育教師の命令で俺達控え組に呼び出しがかかる。
コートにぞろぞろと出ていく面々。
不幸にも、サーブは俺からだった。
「頼むぜ」
誰かが俺に期待の声援をかける。しかし、俺の視線はネットを隔てた先の相手チームにではなく、頭上遥か高くのボールにあった。
ボールは俺を嘲笑するような円い曲面でこちらを見下ろしている。
ねえ、今どんな気持ち? そういう煽り文句が脳内に直接聞こえてきた。
そんな気がして、
「おおおおおおおおおおおおお!」
怒りが沸騰した俺は拳を握り締めてサーブを放った。
チームメイトも相手も全員が眼を丸くして驚く。
無理も無い。俺が放った先は相手コートではなく、天井だったのだ。
コーンと音を立てて例のごとく、目標を外れたボールが落下を始めた。
しかし、俺はその落下地点に走り寄り、
「まだまだああああああああああああッ!」
再びのレシーブ!
目標はあの天井で俺をせせら笑うモルテン!
しかし……
「くそ……」
鉄骨に激突したボールは明後日の方向に飛んでいく。決して挟まった目標に当たる事はない。
まるでそこだけ結界でも張られてるのかと妄想したくなるくらいに遠く感じた。
ボールが降ってくる。
「チクッショウ!」
甲高い音と熱感が膝を襲い、俺は陸に打ち上げられた魚のようにコートを滑り抜けた。
「だめだ。佐藤の乱心だ!」
ざわめくチームメイトたち。相手チームも何事かとざわめいている。
「コラ! やめないか! 何をやってる!?」
甲高いホイッスルと共に体育教師が駆け寄ってきた。
ゴリラめいた体育教師が怒鳴り声を上げて事態の収拾を計る。試合は中断し、体育館のどよめきは連鎖反応を起こして喧騒と化す。向こう側の女子達まで何事かと様子を見に来ていた。
しかし、その混乱の渦中で、
「チクショウ、どうしてこうなった」
誰に向けた訳でも無い行き場のない怒り。床を拳で何度もたたきつけた。
俺は天井鉄骨に居座る二つのボールを忌々しげに睨みつけていた。
放課後、俺はいつもと同じようにひたすら天井のボール目掛けてシュートを繰り返した。
しかし、標的が二つに増えたにも関わらず直撃弾を放つ事が出来ない。
論理的に考えれば、的が増えればそれだけ当たるチャンスも比例して増える筈だ。
それなのに惜しい所にすら届かずにいた。俺の焦りが余計に命中率を下げているとでも言うのだろうか。
しかも……
「あいつはどうした」
傾きかけた夕陽に目を眇めながら、ちらりと入口を見る。
いつもなら勝手に現れ、ストイックにシュート練習に勤しむ唯衣が今日はいない。
俺はしばらくの間、日課を進めながら入口も気にして見るが、唯衣が現れる事は無かった。
俺は体育館の入り口と、天井の二つのボールを見比べ、
「まさか……彼女がやったのか」
ある一つの仮説へと行き着く。
昨日、俺が先に帰り、唯衣が一人で天井への下手投げシュートを続けていたとしたら……
更にもし、万が一にも放ったボールが鉄骨に挟まりミイラ取りがミイラになっていたとしたら……
むくむくと隆起した妄想めいた疑念が俺を覆っていく。やがてそれは確信と変わった。
「だから、気まずくなって来れないってのか……?」
――馬鹿野郎が。
ぐっと拳を握り締めて床の木目を見る。
「違う。別に俺は君を怒ったりはしない。それなのに……」
別に天井のボールが増えた所で俺は彼女を責める気はない。二つになったなら二つ落とせばいいだけだ。
むしろ、俺は唯衣に手伝ってもらっている事に感謝すべきなのだ。
「――――ッ!」
だが、反射的に見上げた先、天井に挟まった二つのボールを見て一気に憤怒の感情が沸き起こる。
あのボールを見るとイライラが募るのもまた、確かな事実だった。
「くっそおおおおお――」
俺は籠から一つボールを取ると、思いきり天井の忌々しい存在目掛けて放つ。
猛然とつき上がるボール。流星のように放たれたボールは、ギリギリの所で目標を外れ、
「あ」
有ろうことかそのボールは鉄骨の隙間にちょこんと静止し、落ちてくることは無かった。
それはまさしく、落とすべき目標が三つに増えた瞬間だった。
5
ボールが三つに増えた翌々日。
俺は久しぶりに体育館に足を運んだ。
「あれ……おかしいな」
昨日は試験前日という事もあり体育館に寄らず、そのまま帰宅した。
ようやく試験一日目を終え、明日は得意科目なので今日こそはと体育館に入った。
そして、すぐにその異変に気付いたのだった。
「一昨日の時点だと三つしか無かった筈だよな……?」
信じられない事に、天井のボールの数が更に増えているでは無いか。
しかもモルテンのバレーボールの中に、茶褐色の一回り大きいボールまで混じっている。バスケットでボールだ。俺が投げたヤツじゃない。
鉄骨に挟まる程の強さで、誰があの重いボールを放ったというのか。
俺は昨日何もしていない。挟まったボールがこれ以上増える事はない。
そう思っていた筈なのに……
「もうこれは……」
疑問は確信に変わった。
テストの結果などどうでもよくなっていた。焦燥感がそれに拍車をかける。
今日はラストチャンスなのだ。明日の試験が終わると同時に、この体育館は運動部でごった返す。
それまでには孝の置き土産+無数のボールどもを何とかしたかった。
しかし……
俺が日課を始めて三十分ほど経過した頃、体育館入口に新たな人影が現れた。
どこか覚悟を決めたように俺は眼を瞑る。
――来たか。
再び眼を開き、入口を見ると案の定唯衣が立っていた。彼女はいつもの長袖ジャージに細い太ももを露わにしたスパッツ姿だった。
ごついバッシュに包まれた脚を小気味よく弾ませて倉庫に向かったかと思うと、バスケットボールの籠台車を引っ張り出しながら出てきた。
その間も俺とは一切視線を合わさない。しかし、動きがどこか機械じみていてわざとらしい。
「なあ」
近づきながら話しかけると、唯衣はまるで驚いた猫みたいにビクンと背筋を震わせた。
「な、なんですか……」
露骨に動揺している。振り返る首の動きもぎこちなかった。
俺は無言で頭上を指さした。
その先の天井には無数のボールたち。
「し、知らないですよっ……⁉」
「うそつけ」
両手を振ってあくまでも視線を合わせようとしない唯衣。
俺は彼女の弁解を速攻で否定した。
「よし、ここらで休憩しようか」
「はいっ」
体育館の隅に座り込むと、唯衣は自前のタオルで額を拭い始めた。
彼女の額中を覆う汗粒が練習で流れ出た爽やかな雫なのか、俺への罪悪感に由来する冷や汗なのかは知る由も無い。
片膝を抱え、わざとらしくバッシュの丸紐を解いてから結び直す唯衣。
俺は外の自販機から買ってきたパックジュースを差し出す。
「まあ飲めよ」
「いいんですか?」
バナナオレといちごオレ。黄色とピンクのパックを見比べる唯衣。
目をぱちくりさせながら、俺に問う。
「手伝ってくれた礼だ」
「あ、ありがとうございます……」
唯衣はいちごオレを手に取ると、おもむろにストローを差し込んだ。
俺は左手に残されたバナナオレをじっと見つめた。
「同じ奴にすればよかったかな……」
俺達はしばしの休息を過ごした。
二人で眺めた体育館の中空はがらんどうとしているが、床を見ればあちこちにボールが散らばってとっ散らかっていた。少しでも窓辺に目をやると瞼が焦げそうな鋭い夕陽が差し込んでくる。
矢のようなオレンジの光。その果てにある筈の夕刻の太陽を見ようとするのだが、何故か胸がもの悲しくなってくる。
「その友達ってそんなに仲が良かったんですか?」
ストローを咥えながら、舌っ足らずな声で唯衣が問いかけてきた。
「ああ……多分、親友だった」
俺は、バナナオレのパックを握り締め、未だ天井に挟まり続けるボールに視線をずらす。
「俺ってさ、小学校の頃から友達は少なかったんだ。内気だし……」
「そうは見えないですけど。先輩は変人ですし、皆好奇の目で寄ってきそうじゃないですか」
俺の性格の破綻っぷりを指摘する唯衣。歯に衣着せぬ物言いとはまさにこの事だ。なかなか言うようになったなと思いつつ、眼を瞑る。
「でも、あいつはそんな俺に話しかけてくれた。だからかな……」
「?」
横で小首を傾げる唯衣に先んじて立ち上がり、瞼を開いた。
広がっている体育館、転がる無数のボール。何ひとつ変わらない世界。
夕陽のオレンジと木目調の床のブラウンで構成された体育館を見上げれば、暗がりの白い鉄骨の影が白骨のように張り巡らされていた。その各所に垣間見える異物、挟まったボールども。
「いつまでもあそこにボールを残しておくと、アイツを思い出して辛いんだ」
「先輩……」
唯衣はどこか憧憬と呆れを混在させた眼差しで見ている。
だが、可愛らしい後輩にこうもじっと見られるのは悪い気がしない。
不思議と自分がとんでもない正義を行っている英雄のようにすら錯覚してしまう。
――まあ、どれが孝のボールだったかはもう分かんねぇけどな!
鉄骨の随所にねじ込まれた無数のボール。未だその一つも地上に落とす事が出来ないでいた。
それなのに、今の俺は高揚感で満ちている。
これまでの惨状を前にしても落とせない気がしなかった。俺とこのバスケット少女なら……或いは。
「そうですか……それなら」
呆気にとられた顔で唯衣も立ち上がる。ちらりと俺を一瞥する彼女の視線はどこまでも不敵だった。
「速く終わらせましょう、先輩」
「そのつもりだ。どっちが多く落とすか競争だ」
俺が発破をかけるつもりで大口を叩くと、
「私のシュート成功率知ってますよね? 多分、勝てませんよ?」
唯衣も好戦的な笑みを浮かべてこちらを見返す。
俄然、戦意高揚だった。
最早、彼女がどう思っていようと関係ない。俺は為すべき事をするだけだ。
「全て落とす。今日がそのラストチャンスなんだ」
俺と唯衣は小脇にボールを抱えて歩を進める。
まだ一日残っている。このくだらなすぎる挑戦は終わらない。
6
翌日、テストの最終科目がようやく終わった。
帰りのHRを待っている間も同級生たちは肩の荷が下りたと口々にぼやいている。何とも開放的な教室の空気。しかし、そんな彼らを尻目に俺だけが憂鬱に包まれていた。
殆ど勉強が出来なかったので試験の自己評価は惨憺たるものだった。
おまけに、ボールはまだ一個も落とせていない。テストの疲労感だけで無く、ボールを投げ続けたせいで腕と腿は筋肉痛でパンパンだ。
心も体も完全に擦り切れている、そんな状況に陥っている。
「くそ……全部あのボールのせいなんだ」
皆に聞かれないような小声で自分に言い聞かせた。
こんな経験は初めて。なんもかんもあのボールが悪い。
体育館の天井には俺と唯衣が投げ続けた合計十数個のボールが挟まり続けている。
そういう状況で、落ち着いて勉強なんてできる訳ないじゃないか。
結局昨晩は恐怖と不安と絶望で枕を濡らした。というか睡眠すら殆ど取れなかった。
睡眠不足からくる吐き気が今になって胸元を襲い始めた。試験の緊張のせいですっかり麻痺していた不快感だった。
「おい佐藤。お前何をしたんだ?」
ハッとして見上げると、 いつの間にかHRが終わっていて、周囲の連中は帰りの支度に入り始めていた。
席の前には俺を見下ろす若い眼鏡の男教師がいた。彼は名簿を小脇に抱えたまま怪訝そうな顔で首を傾げている。
「何って……何が?」
唐突に話しかけられて我ながら寝ぼけたような反応。担任教師はやれやれと溜息をつく。
「体育の小森先生から呼び出しだ。……お前ら試験前に何しでかしたんだ?」
え……え……
開いた口が塞がらない。俺が呼び出しを喰らう理由。
一つしか見当たらなかった。
しかも、お前ら――だって?
「全く、お前らときたら……」
堅苦しい背広に身を固めた教師たちが行き交う職員室。体育教師の小森だけがラフなジャージ姿でコーヒーを啜っていた。落ち着きをもたらす筈のモカの匂い。しかし、何故か今は心をムズムズさせる。
俺は小森の机の前で、唯衣と共にお叱りを受けていた。
すぐ横で項垂れる唯衣は珍しくセーラー服姿。彼女とは体育館以外で初めての対面なので制服姿を見るのは初めてだった。しかし、今はそんな感傷に浸っている場合じゃない。
小森は俺達が何故、天井に挟まったボールをひたすら増産し続けたのかを問い詰め、理由を聞いて呆れかえった。
「馬鹿なヤツだな。テスト期間中に何をやっているんだ」
転校していった孝が残していったボール。それを落とす為にやったのだと告げた所で、小森は頭を抱えた。
気を取り直すようにマグカップに口を付ける。熱くなった頭をカフェインで冷ましている、俺にはそう見えた。
「分かった。天井のボールは俺が業者に頼んで何とかしとくから……もう忘れろ。篠崎も」
「はい……」
力ない声で今度は唯衣が頷く。スマートな体つきも相まってしおれた野菜みたいだ。項垂れたせいでサイドの髪がはらりと垂れて輪郭を隠している。
表情は窺い知れないが、相当に落ち込んでいるのは明白だった。
小森は俺と唯衣の肩を叩き、反省しているならそれでいいとだけ告げて退室を促す。
後に職員室を出た俺が扉を閉める。二人並んで昇降口に歩を進める間、俺達は沈黙を貫いていた。
後日、小森の計らいで呼び出した業者によって体育館天井のボールは全て撤去された。
費用の方は学校の予算で何とかなるという話だったが、こういった特殊な高所作業は割に合わないコストが掛かるという。
俺達はそれぞれの親、担任からもお叱りを受け、酷く反省した。
おまけに、テストの結果は最悪に終わり講習と追試を余儀なくされたのだった。
孝が置いていった置き土産の代償はあまりに大きかった。
しかし、秋が深まって面倒事が全て終わった頃には、俺の心は不思議と漂白されたようにさっぱりとしていた。
エピローグ
その後――ある日の放課後の事だ。
鞄を肩に掛け、いつものように昇降口を出た所で鋭い日差しに気づいた。
まだ暑さが程よく残っていた。冬服にするには早かったかなと思いながらも俺は歩を進めた。
秋晴れの下、グラウンドでは丁度陸上部と野球部が練習を始めており、賑やかな掛け声が行き交っている。
その喧騒を後ろに聞きながら、俺は校門へと向かう。
「先輩!」
不意に声がしたので振り返ると、息せきながら走ってくる唯衣の姿。
その格好はいつも体育館で見ていたバスケ部の練習着姿だった。
どうやら開放されている体育館横の出入り口から出てきたようで、遠く館内からはバスケ部のドリブルのバウンド音が絶え間なく聞こえてくる。
「どうしたの。練習は?」
「あれからずっと見ていなかったので」
そう言って唯衣は律儀にも深々と頭を下げる。
「私のせいです! 私がボール増やしちゃったから」
まだ下校途中の生徒達が歩いているので気まずくなる。
俺は周りの視線に耐えられなくなって唯衣の顔を無理やり上げさせる。
「違うって」
「おまけに先輩追試地獄だったんですよね? 私のせいで迷惑までかけちゃって」
両手で俺に顔を押さえられながら、唯衣は今にも泣きだしそうな声を上げる。周りを歩いていく生徒達の視線がいよいよ痛くなり始める。
これじゃ俺が下級生をいじめているみたいじゃないか。
「だあああああっ。もう分かったから! 君が練習してるのを邪魔した俺だって悪いんだよ。今回の騒動はお互い様だって」
そう言って唯衣を最大限フォローしようと必死になる。
実際、俺のせいで唯衣が練習に集中出来なかったのも問題はある。
彼女が俺のくだらない執着に付き合っていなければこうまで大ごとにならずに済んだのだ。
特殊な梯子台車で天井のボール全てを撤去するのは相当な費用がかかっただろう。だが、彼女は俺と共に叱責を受けたのだった。
彼女が一言、巻き添えを喰らったとでも言えば、俺は全ての罪を被るつもりだった。
しかし、唯衣はあくまでも自身も共犯だったと小森に訴え続けていた。
「分かりました」
ようやく顔を上げる唯衣。眼の奥に見えていた罪悪感の涙は既に乾ききっている。
「じゃあ、もうこれっきりだな」
「私は先輩の友情に動かされただけです」
もうこれ以上関わるな。俺はそう伝えたかったのだが、唯衣はこれ以上無いお人好し全開な笑みを浮かべた。
「先輩の話を聞いて、絶対手助けしたいって思ったんですっ。だから、気に病まないで下さい」
「分かった。分かったからあんまり大きな声出さないで……恥ずかしいから」
「ハッ」
ようやく気付いたのか、唯衣は咄嗟に口元を押さえる。
元々運動部で声出ししているせいか、周囲の生徒に丸聞こえの声で唯衣は話していたのだ。
「ジュースでも何でも奢ってやるから。だから……それでチャラだ。これ以上俺に関わると、君まで内申を下げられるよ」
そもそも体育館のあのやり取り以外で俺と唯衣に接点は無いのだ。
「なら」
「……?」
しかし、唯衣は視線を俺から逸らさない。大きな瞳はじっと俺を見つめ続けていた。
「今度の試合、見に来てください」
「え?」
「秋の新人戦です。一応レギュラーで出れる事が決まったので!」
それを言うために、唯衣はわざわざ俺を見つけるなり体育館から出向いてきたのだと言う。
「先輩が適当なとこに立っていればスリーポイントも緊張せずに打てそうなので」
くすくすと口許を隠しながら、唯衣の笑いが零れる。手元から伸びる彼女の長い指先にはテーピングが巻かれていた。
俺は夕空を見上げた。ちぎれ雲が東から西へと急速に動いていく。
それと同時に、俺の中にずっとつかえていたモヤモヤも晴れた気がした。
「分かったよ。行くからスリーポイントも必ず決めろよ」
「任せてください!」
俺はこの可愛らしい後輩の頭を撫でて、別れを告げた。
遠く離れても、懐いた猫のように唯衣はこちらを見つめていた。
「本当しょうがないけど……」
バカげた出来事を通じて出来た、奇妙な腐れ縁だった。
だが……
「孝、ありがとな」
俺と唯衣の絆を繋いでくれたのは親友の孝でもあった。孝がもしあの場所にボールを挟めなければ、こんな事にはならなかったはずだ。
俺は彼が残していった絆をしっかりと握り締めようと、強く思った。