10年以上勤めた会社を辞める気持ちって
さて、何から話すことにしようか。話すといっても僕の頭の中で整理したことを、頭の中で納得させるという自己自身の脳内会話って事だ。とは言っても(頭の中で)分かっている。だいぶ分かっているんだ。なんで、10年以上も働いた会社を辞めたということは。
28歳から今年で40歳、年齢的に見てもまあ、そういう事じゃないかな。でも、振り返って理解しなきゃ自分としては前に進めないし。うん、考えることにする。
僕の前職は介護職だ。老人介護センターに勤めていた。
それなりに頑張っていたし、認められていたと思う。でも、年を重ねるにつれ、仕事が増え高度な利用者の方の対応に悩んだ。利用を依頼する息子さんや娘さん(といっても、ほとんどが年上)のクレーム。上司と新人との付き合いの難しさなどが重なり、言い訳にしたくないが、心を病んでしまった。ノイローゼとまでもいかないも、なんとか仕事をこなす毎日。意欲も希望もあったものじゃない。
後日、それを気づいてくれた上司が「少し休め」と言ってくれて午後から帰してくれた。それに甘えた僕はそのまま一週間休み続けた。そんなことをやってしまっては、当然、自己退社は流れるようにお膳だてされる。渡りに船とその航路にのっとり僕は仕事を辞めた。
僕は無職となってしばらく実家で呆けて過ごしていたが、何もしないと当然蓄えはなくなってしまう。
けど、僕は無気力だ。今は何もしたくない。と、ダラダラと日がな一日を過ごしていると、いつの間にか三か月が経っていた。ついには業を煮やした母から、とりあえず職につきなさいと妹がパートで働いていた会社を教えてくれた。
働かねば食ってはいけない。とりあえず足かけの気持ちで入ったのが、この会社だった。
アルム乳業といえば大手の乳製品メーカーだ。その下請け倉庫会社、藤中冷乳倉庫株式会社に勤めることとなった。何故、全く違う職種をと面接でここの所長に聞かれたが、今は介護の仕事はしたくないし、他業種の世界も見てみたい。何よりとりあえず職に就くというのが大事だったから、「はい、一流企業乳製品メーカーでの仕事に携わってみたい」とガラにもない事を言ってしまった。ただ、この会社は新聞の折り込み求人チラシや求人雑誌に頻繁に載っているような、まあ、その入れ替わりの激しい職場だ。世間では・・・クと呼ばれるらしいが、実際入ってみるとそれほどではない。僕は微妙なアピールの甲斐もあってか、フジチュー(この会社の愛称)に準社員として勤めることになった。
「なかなか正社員にはなれないよ。ここは」と一年ばかり年上の先輩が言っていた。その先輩は数週間後、僕と入れ替わりように、捨て台詞のようにその言葉を吐いて辞めていった。
別にもとももと足かけで来ている身、社員なんてなろうとは思わなかったが、せっかくここで働くんだから、なれるならなってもいいかなと高飛車な気持ちで仕事をこなしていた。
冷蔵庫倉庫、大手メーカー製品を扱うだけあって、野球場のグラウンド二面ほどのバカデカさだった。僕の仕事といえば、他の準社員、パートさんと一緒にピッキング作業に従事することだ。ピッキング作業の流れとして、雑多に並べてある製品の中、目的製品の場に行き、ハンディ端末で製品ラベルをスキャンする。すると、摘み取り数が出て来る。その数をドーリーやパレットと呼ばれる荷台に乗せる。摘み取り数を再確認し、端末に数量を打ち込む。すると在庫の数量が出て来る。それを確認したら、完了ボタンを押し、トラックが待つバースと呼ばれるところまで製品を運ぶ。その繰り返しだ。
当然、大手のスーパーや量販店さんのピッキングになると物量が増え、リフトが待つ大型バースと呼ばれる場所まで、製品を運び、それをすくってもらい、運搬してもらう。
朝から夕方までひたすら繰り返す、求められるのは安全性、正確性、そしてスピードだ。
僕は入社した当初に、よくピックミスとよばれる摘み取り数量間違いをやっては怒られ、報告書を提出していた。それでも全く別業種だからしょうがないとして、あまり気にも留めなかった。それよりも作業スピードが一行に上がらないのが嫌だった。月に一度行われるミーティングでは、個々に作業能率がプリントされた用紙が配られるので、一目瞭然しかも、学校のようにABCと判定が書かれている。だいたいB評価の僕はそれを見る度、溜息をついた。この評価は数年後なくなるのだけど、焦る僕はピックの正確性はそっちのけで、急ぐあまりミスを繰り返すという悪循環を起こしていた。そしてこの作業向いてないじゃねと思うようになった。何より変なプライドがあった僕はその現状が許せなかった。そして上司のパワハラまがいの大罵倒にも閉口する。彼らは感情に任せるまま、思いのたけを言ってくるので、ダイレクトに突き刺さる。そこまで罵らなくてもと。すぐ辞めていく人たちの多くはこの関門が越えられない。実際、上司の一人は後にそれが原因で配置換えにあっている。んで、そんなことでリフトに乗ろうと思った。
二年目、リフト免許は持ってなかったので、自腹で免許を取りに行き無事、習得。全くの未経験で不安もあったが、リフト移動を願い出た。会社では初のピッカーからリフトマン移動だそうだ。自分で勝手にリフトになると言ったことで、ピッカーの上司受けは良くなかった。初めてのことなので仕事上がりにリフトの練習するのはタイムカードを押してから練習となった。それは残業扱いにはならない。でも僕の後から残業扱いなった。なんだかなあ。またリフトに乗ることは、社員になる道でもあった。そういう打算も働いていた。
すぐにリフト移動が正式に決まり、僕はやる気に燃えていた。
ところが・・・。
会社におけるリフト作業は、隣接するアルム乳業工場ラインから牛乳やヨーグルト製品をリフトで受け入れ保管棚まで運ぶのが主である入庫と呼ばれる作業。ピッカーがピッキングしてなくなった製品を補充する作業。大型の製品をトラックに直接積み込む前室作業がある。常温庫の製品を取り扱う常温担当。そして廃棄になった製品や空のケースや瓶類を扱う外仕事の検収があった。
まずは見習いとして、リフト作業は順調にこなしていった私だった。だが、登竜門である入庫作業をこなし、次の段階である補充へと向かう二か月目のある日。三段目のラックに瓶製品を保管しようとして、製品を押しすぎて落下させてしまう。破損だ。凄まじい無数の瓶が割れる轟音が倉庫内に響き渡り、一瞬、何事かと思った。やってしまったのが自分だと、すぐに理解すると、頭が真っ白になった。一面は白い牛乳の海、アルム乳業の人やみんなが破損した瓶を回収したり、バケツで水浸しの牛乳すくっている。その中に混じり、僕もするが自責と後悔の念が込み上げ、思わず泣きそうになってしまう。帰りの車の中では声をあげて泣いてしまった。甘い自分が許せなかった。その時、ケータイが鳴り同僚が「気にするな、大丈夫だから」と言ってくれたのが嬉しかった。慣れはじめが一番危ないと言われていたのに、このザマだ。
僕は次の日の休み、自分なりの破損に対しての対策を作り、リフレッシュして仕事に臨んだ。・・・つもりだった。破損明けの仕事日、リフトに乗ると足がガクガクと震えた。大丈夫と自分に言い聞かせて、なんとか仕事をこなし作業終了前、またしても三段目のラックに牛乳一リットル製品を直そうとした時、隣の柱に引っ掛けて、またしても破損してしまう。もう、何も言い訳出来ない。顔面蒼白の私は、その後はよく覚えていない。
次の日、私は会社を休んでしまった。なんの自慢にもならないけど自身の病欠はこの会社ではこれだけだ。当然、会社から電話があった「明日は来いよ」という所長から言葉をもらった。が、私は退職届を書いていた。どうやって詫びようという結論がそれだった。
翌日、退職届を握りしめ所長の前に行き、届を差し出すが、直前でその手を引っ込めてしまった。きちんと責任をとってない反面教師として少なくとも後、三年やってみようというのが結論だった。
その日から僕自身が言わなくともリフトから外された。しばらくは乗るなと言われた。それは当然だと思った。
少し僕は荒れた。配送ドライバーと衝突したりして、自分でも驚くぐらいキレていた。二か月後ぐらいに常温担当となった。ピッキングをしつつ、比較的安全(製品が安定して運びやすい)な常温製品の運搬をしていた。前のことから気をつけて作業を行うようになり、破損は減った。が、上司に作業が遅いとネチネチ散々言われ、キレてしまった。今までの思いのたけを大声でぶつけ、その日に所長に夜勤か検収に配置して欲しいと訴えた。
検収に配属されると倉庫内のリーチリフトと違いカウンターリフトととなり、操作に戸惑った。かつ外作業、11月の寒い風が身体にこたえた。でも、僕はここでやっていく心に決めていた。ところが、二か月後、「新しいリフトマンが冷蔵庫に合わない(体調を崩す)ので、彼と替って戻ってきて」と言われた。これはもう、リフトに乗るなということだと僕は解釈してそれからリフトに乗るのを諦めた。
昼勤ピッカーに戻った私だったけど、まだ未練があったのだろうか、罪滅ぼしのつもりだったんだろうか、ある日のミーティングでどうすればピックミスをしないかというレジュメを作って、発表した。周りは感心していたようだが、翌日なんと三件もミスを犯し、自分が恥ずかしくて、悔しくて情けなくなった。
それから、そつなくミスなく作業することを目標に仕事をこなした。少しずつだが、ミスも減り作業内容も向上していった。だけど、辞めたいという思いがしばらく続く。が、その思いも薄れ始めると妥協と変わらない日々をこなす毎日となった。
やがて平々凡々な日々が四年、五年と続いていった。変わらない日々。
七年目、僕の後から入って来た子が社員になった。少し心がザワついたが、つとめて明るく過ごした。
そして、九年目。僕は長く付き合ってきた彼女と結婚する。準社員でも大丈夫と言ってくれた彼女に感謝しつつ、そろそろこれを機にあるんじゃないのと会社に期待していた。実際、会社面談の時に社員の話はあったから、でもそうではなかった。まあ、なければそれでいい。そう言い聞かせた。
妻はある企業に勤める中間管理職の立場にある。僕は準社員・・・多少の引け目はずっと持ち続けている。10年まで待ってみよう。話がなければ次に進むのもアリだなと考えながら。
10年目を前に迎えたある日、妻は会社を辞めたいと言った。僕は先を越されたと思いつつも、結論を先送りに出来て少しホッとしていた。10年の面談の席では、社員という言葉も出ずに、一年ごとの準社員契約の書面に印鑑を打つ。ここは僕の踏ん張りどころだと心に決めた。7年も乗っていなかったリフトに再挑戦することにした。
半年後、妻の就職が決まる。と同じころ、ピッキング職場の後輩が社員になる。ああ、そういうことかと僕は理解した。世代交代がはじまっていたのだ。僕は立ち上がるのが遅すぎたようだ。
11年目、22歳の新人の子が入って来た。彼は貪欲な姿勢で仕事に取り組んでいく。
面談の席で、自分からはじめて正社員になれないのかと聞いた。ここが二年目の所長は「頑張ればなれるよ。あきらめないでくれ」と言った。僕はその言葉に温度差を感じた。
10年ここにいるんだぞ、頑張ればなれるって何だよ!と心の中で叫んだ。
新人君は半年も経たない内にリフトに乗り始めた。免許を取得する前に倉庫で練習するのが許可された。
僕は愕然とする。何かあったら危ないし、責任問題になるという理由で僕は練習出来なかった。他のみんなもだ。もしなにかあった時に上司は責任を持てるのか、所長は働いている皆を守れるのかと憤りを感じた。当然それは残業扱いとなる。新人君はそれを嬉しそうに僕に伝えてくる。僕は作り笑いを浮かべて「頑張れ」と心にもないことを言う。
僕は潮時を感じた。打開出来ない現状、やるせなさが込み上げて、モヤモヤした日々を過ごす。そして僕はやがて40だ。辞めるか続けるか僕は自問自答する。
転職するには機を逃したと思う年齢だが、まだ40チャンスはある。会社には後悔や未練はあるか、いやない。これは断言出来る。長く居過ぎたとさえ思う。ただ気がかりは生活のことと妻の気持ちだ。冗談ぽく転職を考えていることは伝えてある。僕は自分の気持ちには嘘がつけなくなっていた。
妻が仕事を探している時に職安に何度か一緒に行って、PCでなんとなく職業検索をしていたのを思い出した。僕は休日に職安で仕事探しをするようになっていた。ある休日、僕はその職業に目が留まった。「障害児通園施設」前々職の経験を活かせる。かつ現職の安全管理の大切さ、粘り強く取り組む姿勢などを思い浮かべ、勝手に理想の転職職業に決めた。そうなれば事は早い。通園施設の求人票をコピーし、受付に紹介をお願いする。ほどなく面接日が決まった。
妻には事後報告になってしまったが、意外にもあっさりと納得してくれた。ただ、在職中に転職しきちんと就職すること、二人の生活費はきっちりおさめることが条件だった。私もそのつもりだ。出来る限り迷惑はかけたくない。心が軽くなるのを感じた。そして、どっちに転んでも一生懸命取り組むことを新たに決意する。
やがて面接の日を迎えた。まずは在職中にも関わらず、面接をして頂いたことに感謝し、思いを伝えた。「何故、今の会社を辞めようと思ったのですか」当然聞かれる質問にも「40歳を迎えて年齢的にも転職のラストチャンスかと思い、以前から取り組んでみたかったこの仕事を希望しました」さすがに限界を感じたとか、10年経っても正社員になれなかったなどと後ろ向きのことは言わない。面接が終わると、なんだか心がすっとした。
数日後、採用の電話があった。心は決まった。退職願届をしたため、翌日、休憩時間に所長に時間をつくってもらう。「所長とりあえずこれを」退職届を渡す。所長は無造作に、封を手で破ると、退職届に目を通す。「そっか、分かった、何年になる」「10年とちょっとです」「10年か、長くつとめたのに、ごめんな社員にしてあげられなくて」「いいえ、自分の力不足でした」「・・・ん、で、次は決まっているの?」「はい、お陰様で」「・・・止めたって、辞めるんだろ」「はい」「ん、分かった」これで僕の退職は決まった。もう少し慰留があるかと思ったが、やけにあっさりしていて拍子抜けした。僕の10年はそんなもんか。なら、辞めてよかったな。妙にすっきりした気分になった。
改めて、何故、仕事を辞めたいと考えてみると、やりたい事が見つかった。年齢的に転職するならこのタイミングだった。自分と会社との思いにひらきを感じた。前(辞める)からずっと思っていた。最近の会社の方針に?だった。10年を区切りに考えていた。動くのが遅すぎて、潮時を感じてしまった。不満や嫉妬、怒りにとらわれたくなかった。などがある。そうしたものが少しずつ澱のように重なって退職することにしたのだ。
いろいろと会社には思うところはあったが、一番思うことは会社には感謝している。10年以上も働かせてくれたこと。大事な人も出来たし、長く仕事を続けることも出来た。本当にありがとうございます。それしかないんじゃないのかな。
僕はやっぱりそう思う。今もそしてこれからも。
完