氷刃
いつも通り、歴史要素は添えただけ。
大井家の次世代玄蕃と廉の娘である霞のお話です。
大井霞は山南藩上屋敷へと歩いていた。
齢十五を数える少女は、母親譲りの整った顔立ちに凛としたたたずまいで、一度目に入れると思わず視線を逸らせない雰囲気をまとっていた。
“山南藩の麒麟児”
その名は、国許のちょっとした事情通なら小耳にはさんだことがある程度には知られていた。先般は、御前試合で見事勝利し、藩主左衛門佐から直々に言葉を賜ったほどだ。或いはもはや遠い昔の物語となった「片手の玄蕃」の剣名よりも浸透しているかもしれない。
だからこそ霞は、思い切って出府したのだった。
なにせ、なまじ実力があるにもかかわらず、女の身である。
変な色眼鏡で見られたりするのは、修練に身を置きたい彼女にとってはあまり気持ちのいいものではなかった。
そのため、あえて知人のいない江戸へ出て、世のこと人のことの実際の見聞を広めることにしたのである。
母からは家事全般は十分に仕込まれたし、学問も処世術も父の影響で並み以上に修めているせいで、一人で身を立てるのも、浮世のよしなしごとも大した障害にならない。
だからこそ、若い女でありながら一人藩邸で起居することを赦されている。
母はともかく、父の玄蕃はあまりいい顔をしなかったが――
「家伝の国俊だ。呉れてやる」
と餞別を渡したあたり、認めてくれているのだと思う。
「やあ、霞ちゃん。今帰りかい」
「木村のおじさま。もう六ツ(午後6時ごろ)ですから」
声をかけたのは玄蕃の友人で江戸詰となった木村である。
知人がいない霞のことを、何かにつけて世話してくれる。
玄蕃や廉から頼まれたのもあるだろうが、どうやら赤子のころから見守ってきた霞を実の娘のようにかわいがっているのも多分にあるだろう。
「今度の武芸大会、霞ちゃんも出るんだって?」
「ええ、国の師匠からも、こちらの先生方からも『是非に』と推されましたので」
この月の晦日に開催される武芸大会。
さすがに役持ちや大身の侍は出ないが、江戸の名の通った道場からそれなりに腕の立つ者が一人二人推薦されて出場する。
女性でありながらこの大会に出るというのはなまなかなものではなく、霞の実力と信頼の程というものが窺える。
将軍家の指南役である小野派と同じ流れをくむ一刀流の門弟として出場するのであるから、一部の口性のないものが言うような話題を得るための見世物小屋とは言わせない。
(父上の名を汚すわけにはいきませんから)
女剣士は誓うのだった。
その月の終わり、大会そのものは大過なく終わった。
優勝には惜しくも及ばなかったが、試合内容に不満はなく、推薦を受けた者としての面目は保った。
霞としてはそれよりも、現在の自分の限界と課題が見えたということの方が重要だった。
そんな彼女に、大会の後声をかける者がいた。
「霞さん、お疲れさまでした」
「ゆいちゃん、ありがとう」
江戸で世話になっている一刀流道場の娘、ゆいである。
彼女自身は剣を持たないが、幼い少女が道場の周りを駆け回るのは見ていてほほえましくあり、門弟たちのマスコットとなっていた。
そんな少女は同性である霞になついており、何かにつけて霞の傍に居たがった。
霞も年の離れた妹ができたようで、それを歓迎している。
当然のことだが、道場主の父親と一緒にこの日も朝からずっと霞の応援をしていたのだった。
「どけっ、邪魔だっ」
次の瞬間、そんな二人に苛ついた声がかけられた。
「きゃっ」
ゆいを突き飛ばした男は、島村主膳という今大会の優勝者である。
野犬のような獰猛な目にすさんだ態度。
強いことには強いのだが、霞にはその剣がどこか歪んで見えた。
そんな相手に負けたのだから、霞としては自らの不明を愧じるばかりである。
「けっ、女子供がそろいもそろって。家でおとなしくしてりゃいいものを」
そう言って、島村は肩を怒らせながら立ち去った。
「うう、怖かったよぉ」
「よしよし、大丈夫。お姉ちゃんがついてるからね」
泣き出すゆいをなだめながら、霞は試合の時と同じ歪んだ何かを、島村から感じ取っていた。
数日後、あわただしく霞のもとを訪れた者があった。
「霞ちゃん、かすみちゃんっ」
顔を見てみると、道場の奥方だった。
「お内儀さん、どうしたんですか?」
「ああっ、かすみちゃんっ、どうしよう、どうしようっ」
霞の顔を見るなり、足元から崩れ落ちた彼女から何とか話を聞くと、なんでもゆいが帰ってこないらしい。
道場の門弟も総出で捜しているらしいが、仲のいい霞も心当たりがないかと思いやってきたらしい。
「私も行方はわかりませんが、これから捜してみます」
こうして、霞も別のルートでゆいを探し始めた。
「ああっ、もうっ、どこを探したらいいのよ」
しばらくして、心当たりも回ってみても手掛かりの一つも見つからない現状に、霞は苛立っていた。
小さい子の行動範囲はそこまで広くないはずなのに、足跡の一つも見当たらないのだ。
そうして藩邸へと戻ってきた彼女のもとに、一人の農民が近づいてきた。
「あの、大井霞さまですか?」
農民の顔に見覚えはない。
だが、尋ね人は間違いなく自分だ。
「そうですけど、何か御用ですか?」
(この忙しいときに)と焦りながらも、用件を尋ねる。
「へえ、なんでも大井様にこれを渡してほしいとそこで頼まれまして」
差し出された書状の宛名には確かに「大井霞様へ」と書かれている。
上書きには厄介なことに「果たし状」とご丁寧に大書してあるが。
「ありがとうございます。ちなみにどんな人でしたか?」
「へえ、御立派な侍風の方でしたが、目深に笠をかぶってらしてよくお顔はわかりませんでした」
差出人の面体を尋ねるが、あまり正体を絞れそうにない。
「そうですか。それじゃ、これはお礼です」
噓を言っている様子もないので、やむなく霞はこれ以上の追及をあきらめ、農民へと少しばかりの駄賃を渡した。
書状には、案の定だがゆいのことも触れてあった。
「日が沈むころ、郊外の荒れ寺に出向かれたし。娘の命が惜しければ、他言無用の事」
ご丁寧に、口止めまでされている。
やむなく霞は、約束の場所へと一人で赴くこととなった。
夕暮れ時、郊外の荒れ寺に着くと、そこにはゆいに切っ先を突きつける島村の姿があった。
「臆病風に吹かれず、約束通り一人でやってきたようだな」
あの日感じた歪さが、さらに色濃く感じられる。
「果し合いが望みなら、その子は放してもいいんじゃないかしら」
相手を刺激しないよう言葉を選びながら、霞は言った。
「ふん、尋常の立ち合いならそうするさ」
可笑しそうに笑いながら、島村は言った。
「だが、取るに足らぬ女狐一匹狩るのに尋常も何もあるまい」
狂った笑みを浮かべながら、島村は続ける。
「さあ、跪け。もちろん刀を外してな」
強い口調で男は命令した。
霞としては、ゆいが人質に取れている以上、その言葉に従うほかない。
腰に差した刀を外し、ゆっくりと膝をついた。
「どうした、頭が高いぞ」
さらなる要求に歯噛みしながら、霞はその言葉に従う。
(父上なら、こういうときどうする? 母上は何を最善と捉える?)
打開策を考えながら、霞は島村の命令をおとなしく聞き入れる。
「そうだな、今度はこう言え。『この度は私ごときが女だてらにしゃしゃり出て神聖なる部を競う場を汚し申し訳ありませんでした』とな」
「『この度は私ごときが女だてらにしゃしゃり出て神聖なる部を競う場を汚し申し訳ありませんでした』」
島村はゆっくりと近づきながら、屈辱的な命令をする。
霞もおとなしく言う通りのセリフを吐く。
「おらっ、わかってんのか」
「くっ」
島村はとうとう頭を垂れる霞を足蹴にする。
抵抗できない相手を嬲る快感に酔いしれているようだった。
(もう少し、もう少し)
「ほらほら、自慢の一刀流はどうしたんだ? ああっ」
自身が人質を手にしている圧倒的優位から、島村は気分よく霞を煽る。
今度はそのきれいに整えられた長髪を掴み、強引に霞を引っ張り上げた。
その次の瞬間だった。
「っ、痛うっ」
霞は右手に隠し持っていた笄で、ゆいを掴んでいた左手に突き刺した。
思わぬ反撃に手を放した島村の隙をついて、ゆいは霞の遥か後ろへと逃走することに成功する。
「くっそ、このアマっ」
激昂する島村であるが、霞はすでに抜き放った国俊をその手にしていた。
「形勢逆転ね。どうするのかしら。誘拐犯さん?」
挑発する霞を見て完全に頭に血が上ったのか、島村は策も何もなく切りかかってくる。
――たしかに腕は立つ。だけどそれだけ。
――間違いなく強い。でも怖くはない。
怒りに任せて振り下ろされる刃は、氷のように鋭く、冷たい。
相手を必ず殺すという意思が、強く強く込められている。
だが、それでも――。
「そんな歪んだ剣に、私は負けない」
真っ赤な雪解けが、暗闇に広がった。
この小説に登場する人物・団体は全てフィクションです。
霞ちゃん強い。もしかしたら嘘偽りなく玄蕃先生より強いかもしれない。
柳枝の時と違って剣術以外にも家事も学問もできてしかも美人という完璧超人。
やばい、嫁の貰い手として釣り合う相手はいるんだろうか。
そしてゆいちゃん、変態野郎に襲われても的確に動ける実はすごい子。
将来が楽しみというか、末恐ろしいというか。
だって、ねえ。昔誘拐された女の子(=霞)がこんなに逞しくなっちゃったし……。