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野の仏  作者: 矢積 公樹
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第1話

2年前に別のサイトで発表した作に若干の加筆・修正を施しております。固有名詞をのぞいて原則としてふりがなをふっておりませんが、あまりにも読み辛い場合は遠慮なくご指摘いただけると幸いです。

 光徳尼こうとくにの足が止まった。

 「ほれ、早う。ここでとどまったところでひもじい思いをするだけぞよ。」

声をかけた先には、しゃがみこんで下を向いたままの童がいた。齢の割には大きな旅荷を背負い、泣き顔こそ見せてはいなかったが、幼い顔に似合わぬほど濃い疲労の色が浮かんでいた。

 「あの峠を越えれば里に着くと言うておるではないか、真子まこよ。何か口にするのはそれからぞ。」

そうせかす尼とてすでに声はかすれ気味で、膝は石をくくりつけたように重かった。すでに三十路の半ばを超えた体はかつてのような無理がきかなくなっていた。

 「しょうのない子じゃ。近くの茶屋を探すより他あるまい…こうなってしまうと手に余るのが困りものじゃのう。」


 光徳尼が四里先の汗入あせり村に住む若者の窮状を教えられたのは二日前である。中山村に留まり流行り病の治療に携わっていた彼女のもとを、汗入に住む権治ごんじという男が訪ねてきた。話では彼が世話をしている儀助ぎすけという若者がこの三月ほどの間にひどい病を患っており、ひょっとしたら憑き物のせいではないかと皆がうわさするほどのありさまという。旅回りの尼僧が病気の治療だけでなく憑き物の退散や幽霊の供養やらを依頼されるのは珍しいことではなく、むしろ路銀の乏しい光徳尼にとっては、儀助という若者にはすまないながら、どちらかといえばありがたい話であった。幸い流行り病のほうはおさまりつつあったので後事を中山の村人に託し、汗入へと向かった。

夏はすでに盛りを過ぎており朝夕はうすら寒いほどだったが、日中ではどれだけ日陰を選んで歩いても汗がしたたり、中山の人々が用意してくれた握り飯だけでは光徳尼はともかく真子はもたなかった。同じ年頃の童に比べても群を抜いて我慢強い真子だが、ときにどうしようもなく頑なになることがあった。すでに光徳尼では背負って運んでやることも難しいほど大きくなった真子の足が止まってしまうたびに、親代わりとはいえ厳しくし過ぎるのも良くあるまい、と自分に言い聞かせるのであった。

 すぐ先に見つかった茶屋に真子を引きずるようにして連れて行き、餅と葛湯を与えていたときである。茶屋の道を挟んだ向いにある松の木の下に座り込んでいた六人ほどの無頼と思しき男たちが光徳尼の姿を見つけると、最初はひそひそと耳打ちしあうだけだったのが、やがて眼光の厳しい素浪人が加わると皆がゆっくりと光徳尼のそばに近づいてきた。

 「何でございますの、旅の尼に寄ってきたところで何もございませんのに。」

  機先を制すべく精一杯の気迫を込めて素浪人に言い放つが、太刀の柄にゆっくりと伸びていく手は止まらなかった。男のうちのひとりがしわがれ声で怒鳴りつけてきた。

 「おめえ、汗入の権治に頼まれて儀助をみにいくっていう『ゴマのハエ』だろうがよぉ。権治にはちょいと貸しがあるんだ、こっちはよぉ。」

 いかがわしい祈祷師を意味するゴマのハエよばわりされたことも悔しいが、どうやら権治と因縁のある相手、もしくはそれが差し向けた連中に見つかってしまったらしいことを察した光徳尼は、我が身の不運を嘆かずにはいられなかった。荷の中の小太刀を探りつつ、ただならぬ気配に身を固くした真子を引き寄せた。

 その時、正確にはそれより少し前からだが、彼女の斜め後ろ、人ふたり分ほど離れたところからひどく低い、もそもそした声が聞こえてきた。彼女が後ずさりするにしたがって少しずつ聞き取れるようになったが、それとてところどころが濁ってわかりづらい声である。

 「…んなこと言われても、わしにはなぁ…腹が減って…寄っただけ…茶も飲めん…これでは…」

 男の声は不満と当惑をよそおっていたが、光徳尼はその中に恐れやおののきが一切含まれていないことを感じ取り、それが妙な不安を呼び起こさせた。

 「なんじゃい、わしが、かぁ…しかし…え、うん、後で握り飯を…いやぁ、酒は要らんぞ…草餅…まぁ、よかろう。後でな。」

 光徳尼が目の端でちらと見やると、ぼろぼろの編み笠をかぶった男が、茶屋の奥に向かって何度も約束じゃぞ、たがえるでないぞ、と念を押している。店の奥には小さくなって震えている主人がすわりこんでいた。

 編み笠の男はゆっくりと立ち上がると、かたわらに置いていた錫杖を手に光徳尼の横を音もなく歩き過ぎようとした。男は光徳尼のすぐ横、そでが触れんばかりの近さまで来たが、彼女は音や風や、気配すらあまり感じられないその男にもまた急に不信感が湧き、素早く半歩ほど下がった。そのため、期せずして真子が男の前にあらわになった。すると、真子の姿をみとめた男が立ち止まり、静かに編み笠を外すと、真子に向かってかがみこみ、

 「この笠をかぶっておれ。声がしても、わしのほうをあまり見てはならんぞ。」 

 といって真子の頭に乗せたのである。真子がうなずくのを確かめもせず、男はふたりに背を向けて、すでに太刀を抜いて待ち構えている素浪人の、男たちの前に歩み寄っていった。

いまや彼女の眼の前にはその男の全身が映っていたが、身の丈がそう大きいわけでもなく、肩がつるりとなでているため見ようによってはひどく頼りなくも見える。身なりは商人よりは僧形に近いが、それとてよく見ればであって、数珠や袈裟の類は一切身に着けておらず、ぼろぼろのわらじや手甲はすでに酷使を超えた扱いにより今にもブチリと音を立てて地に落ちそうであった。

 それよりも彼女の眼を引き付けたのは、この男の手にした錫杖であった。長さは男の背丈ほどで、妙に太く、先についているはずの金輪の類がなぜか見当たらない。表面は手ずれを思わせるつるりとした光をたたえているが、赤錆ともつかない沈んだ朱色が見え隠れする。しかも、錫杖でありながら、じっと目を凝らして見ると、ほんのわずかに反りかえっているのであった。

 思わぬ加勢に、やい、とか、覚悟しろい、などと声を張り上げている無頼たちの手には匕首や太刀が握られているが、男は煩わしそうに眼を細くしたままであった。ただ、黙したまま構えを崩さない素浪人のほうへだけは眼をはなそうとしなかった。もはや茶屋には主人と光徳尼、真子の他は誰もおらず、周りをぐるりと取り囲んだ人々のおびえた眼が彼らを見つめていた。

 でぇいっ、と無頼の一人が絶叫とともに男に匕首を振りかざした。男は足を大きく開くと腰を固め、匕首が我が身に襲いかかるよりも一息早く相手のあごに掌底を打ち込んだ。喰らった方がまるで俵が投げ飛ばされるがごとく宙を舞う姿に、残りの無頼たちは息を飲まざるをえなかった。なにくそぉっ、と太刀を頼みに斬りかかった者はその振り下ろしざまに切っ先を踏みつけられて太刀を地面に落としてしまい、かがみこんだところを骨が砕けん勢いで膝蹴りをたたき込まれて地面に伏し、ぴくりとも動かなくなった。ある者は腕をねじりあげられ、ある者は膝がありえない角度に曲がるまで蹴りつけられ、男にまともに斬りつけた者はもちろん、触れられた者さえひとりとしていなかった。

 光徳尼の眼はなおも男の、その錫杖に注がれていた。皆が刃物を手に襲いかかっているというのに、男は錫杖を全く振り回したりせず、自らの手足で相手を打ちすえているのである。しかもよく見れば、錫杖に相手の刃物が当たろうとするたびに紙一重でかわし続け、まるで傷ひとつつけまいとしているかのようであった。

 素浪人は仲間がひとりずつ倒れていくさまを見ていたが、じきに刀を納め、止めだ、と低く鋭く言い放つと音もなく退散した。男は散り散りに逃げていく無頼たちを見やりながら、先ほどと同じようにゆっくりと真子に歩み寄ってきた。

 「怖くはなかったか…そうか、おお、良い子じゃ。おぉ、あまり緒を引っぱらんでくれよ。いつ切れても仕方ないんじゃから…」

 そういって編み笠を受け取った。光徳尼はあらためてこの男の顔を見つめたが、二十歳とも四十歳ともとれる、かたく引き締まった口元と、細めたままの瞳の他はこれといって非凡な何かを感じさせるものではなく、無造作に刈られた髪は既に一月は放っておかれたのがうかがえた。

 「災難でしたなぁ。この先は無事でおられそうですかな。」

 男の言葉に光徳尼はハッとして顔を上げた。

 「…いや、そのぉ、誰か頼りになるお連れがおられるんならいいのじゃが、このぉ、お助けしたことでかえって迷惑をかけてしまったんなら申し訳ないと思ったまでのことで…」

 「いえ、このようなお助けをいただいて、望外のことでございました。」

 光徳尼はとっさにそう答えた。そしてその頃には、彼を汗入に連れて行き、ともに権治の元に留まってくれるよう頼むことを決めた。

 「つきましては、お名前をおうかがいできますでしょうか。」

 「あぁ、わし…シンザと呼んで下され。」

 その時、茶屋の主人が頼まれた握り飯と草餅を包んでおずおずとシンザへと近づいてきた。その姿をみとめた彼は主人に、もう二人前だ、ともそりと言いつけたのである。

(つづく)

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