231『陽気に渦巻く陰謀』
ペンドラゴン──イグレイン城の近くにある軍事施設。
人払いがなされた小広場にて。
移動用の軍用車から降りてきた一人の肥え太った男は連絡を受け、裏口から転げ込むように駆け込むと、勢い余って石畳に膝をついた。
彼の息は荒く、肩は上下に震えている。
敵陣に潜り込むはずだった作戦は、わずか数分で破綻し、追撃を受ける前に命からがら逃げ帰ってきたのだ。
敗北など、屈辱の極み。
だが、それ以上に彼の心を苛んでいたのは圧倒的な恐怖だ。
「も、申し訳ございませんッ!」
扉を開けた瞬間、そこに立つ女兵士『フュトール・ドゥーム』の姿が目に入る。
彼女の鋭い瞳が、獲物を見定める猛禽のように彼を射抜いた。
肥え太った男『ライオネル』は、その視線に堪えきれず、崩れるように膝をつき、額を床に叩きつけるように土下座した。
「私が……わ、私が油断したわけでは……! その、敵の抵抗が予想以上で……っ、罠も仕掛けられていて! こちらも甚大な被害を! け、決して怠慢などでは……!」
早口で、吐き出すように言い訳を並べる男。
言葉が上手くまとまらず、焦りにまみれ、舌がもつれる。
額には油汗が滲み、声は裏返っていた。
その姿は哀れなほど必死だが、フュトールの表情は微動だにしない。
冷たい瞳が、土下座する男を静かに見下ろしていた。
「……王の顔に泥を塗ったことに変わりはない」
「──っ!?」
凍りつくような声音が落ち、男の背筋に電流が走る。
「貴殿は私が得た有益な情報にも関わらず、王子を連れ帰るどころが多くの戦力を失うこととなった」
「それは──」
「言い訳は無用。手柄を得る機会を不意にした。完全なる失態だ。なんという体たらくか」
「うぅ……」
膝が自身の体重に耐えきれず、鈍い痛みを訴える。
それでも顔を上げる勇気は出ない。
フュトールは、背筋を伸ばして彼を変わらず見下ろしていた。
声は冷ややかで、刃のように鋭い。
「さて……どうしてくれる?」
「ヒッ!」
彼女の手はゆっくりと腰に刺さっている軍用のサーベルに伸びていく。
ライオネルは恐怖に全身を硬直させた。
彼の耳の奥では心臓の鼓動がごうごうと鳴り響く。
「ち、違うんです! 敵の警備が、予想以上に厳重で……! しかも途中で装備に不具合が――!」
肥え太った男は額に脂汗を浮かべながら、更にペラペラと言い訳を述べていく。
「じ、実際に私は……確実に敵を追い詰めておりました。謎の、その……イレギュラーさえなければ……!」
彼自身も、言葉が軽いことは分かっている。
だが黙れば、その沈黙が死刑宣告になる気がして、口を動かさずにはいられなかった。
しかし、どれだけ言葉を並べ立てようとフュトールも蔑んだ表情が変わることはない。
ただじっと見下ろし、まるで石像のように動かない。
その無反応さが恐ろしく、男の喉はカラカラに乾いていった。
「い、今一度チャンスを! も、もう二度と! 二度と同じ過ちはいたしません……っ!」
「…………。」
しばしの沈黙の後、彼女は短く鼻を鳴らし、怪しげな笑みを浮かべると懐からひとつの品を取り出した。
それは金属と革を組み合わせた簡素なブレスレットだったが、不気味な赤い線が淡く脈打つように光っていた。
「その言葉、王の名において誓えますか?」
「も、もちろんでございます。私は二度と同じ過ちは致しません! 全ては王のため、王のためにっ!」
床に強く額をこすりつけ、祈るようにライオネルは宣言する。
「……ならば、これを着けろ」
コレ、と言われたものを確認するため、反射的に顔を上げた男。
目の前に差し出されたのは小さなベルベット調の黒い箱。
彼女は静かに、丁寧な所作で箱を開けるとその中には金属製のブレスレットが入っていた。
ストライプ状の模様がついた花弁──アマリリスの花模様が掘られたそれを見た瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。
「こ、これは……っ」
喉が乾き、声が詰まって出てこない。
これまでの人生を生きてきたライオネルの直感が告げていた。
あれは、ただの装飾品ではないと。
「どうした? 早く腕を出せ」
彼女の声は、無慈悲に響く。
声音は低く、命令というより宣告に近かった。
男の喉がゴクリと鳴る。
呼吸が浅くなり、手が震える。
「ま、待ってください! わ、私はまだ! まだ、王に尽くせます! どうかっ!」
「だからこそでしょう?」
命乞いも虚しく、フュトールは言う。
「貴方は王に誓いを立てました。抗うことは許されない。命をかけて、王の意志を遂行せよ」
ライオネルの顔から血の気が引く。
もはや言い訳は無用と、言葉を遮り、ブレスレットが彼の前に差し出される。
冷たい金属の感触が皮膚に触れた瞬間、破裂するのでは? というほどに心臓が跳ねた。
「着けよ」
「……か、かしこまりました」
短い命令。拒否の余地はない。
震える指先で、ライオネルは恐る恐る腕に通した。
……カチリ。
金属が閉じる音が鳴り、細い輪が蛇のように太腕に絡みつく。
キュッと冷たい感触が皮膚を這うように締め付けた。
「ひっ!?」
まるで首筋に刃を当てられているような感覚。
呼吸一つすら許されない錯覚に、全身の毛が逆立った。
金属の表面からは、まるで生き物のように、内側からじんわりと脈動する感覚が伝わってくる。
皮膚を通り抜け、血管に直接触れているかのような錯覚に襲われる。
「次に失敗すれば、これからは毒が注入される」
フュトールの声は一切の揺らぎを持たない。
淡々と、まるで書いてある文章を読むかのようで、それがただの脅しではないことを、本能が悟っていた。
「……か、かしこまりました。必ずや期待に応えてみせましょう」
「よろしい。その命、王に捧げよ」
ライオネルは俯いたまま、震える声で「はっ」と答える。
恐怖が、骨の髄まで浸透していく。
フュトールは満足げに頷くと、それ以上何も言わず、踵を返す。
彼女が見えなくなるのを待ってから、ライオネルは慌てて腕を袖で覆い隠した。
それを見えなくすれば、存在しないものにできるかと虚しい抵抗をするものの、逆に布越しに伝わる冷たさと脈動がいっそう強調されてしまう。
今ここで、このまま死んでしまいそうであった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
額からは絶え間なく汗が流れて落ちていく。
戦場から逃げ帰ったときよりも、今のほうがよほど呼吸が苦しい。
もはや見えなくなったというのに。
まるで彼女の影は、冷たい鉄鎖のように脳裏にまとわりついて離れない。
肥えた男は石畳に崩れ落ちるように座り込み、震える腕を押さえながら、声にならない呻きを漏らした。
「次は、失敗できない……絶対に……」
そう繰り返しながらも、胸の奥では既に理解していた。
このブレスレットを嵌められた時点で、自分の未来は握り潰されたも同然だ、と。
◆◆◆
石造りの廊下を音もなく歩きながら、先ほど丸まっていた肥えた男の姿を思い返していた。
額を床に擦り付け、汗と涙と鼻水で濡れた顔。
あれほど必死に許しを乞う姿を見せつけられれば、普通なら同情のひとつも湧くのかもしれない。
だが、彼女にとっては滑稽でしかなかった。
「クヒヒヒ……あぁ……愉快愉快……」
女兵士──フュトールは口角を吊り上げる。
「今の王に、お前の存在など、最初から眼中にないというのに……」
仮に、あの男がまた任務を失敗したとして、王はそれっぽい事を言うだけで、どうせ罰も何も与えることはないだろう。
にも関わらず、自分の小さな価値を守ろうと必死に縋りつく無様な姿は、まるで光に誘われて焚き火に飛び込む羽虫のようだ。
次の瞬間には燃え尽きて灰になるだけ。
火を囲んでいる人間は羽虫のことなど知りもしない。
全くもってバカバカしくて……笑える。
「……ふむ、雨が降りそうだな」
フュトールは、ガラス越しに広がる灰色の空を見つめながら、何気なく呟き、さっきの愉悦を冷静な計算へとそっと変えていった。
予定通りに計画が進むのであれば、5日後。ヘンリー・エムラスの処刑が行われる。
処刑台に引き立てられる哀れな男。
哀れな兄の姿を目にして、マルジン・エムラス黙っていられるだろうか?
恐らくは──いや、必ず動くはずだ。
妹を救ったあの少年も、彼に協力する部隊も、きっとその作戦に参加することになるだろう。
そうなれば、二つの傭兵部隊は衝突し、用意した策が上手くハマれば、乱戦となることは必至。
起こるであろう戦闘は一体どれほどのものとなるのか……あぁ、今から楽しみで仕方がない。
とはいえ、防人慧の持っていたギアは壊れてたようだし、戦闘への参加は流石に絶望的か……。
その点に関しては少し残念だが。またの機会となるだろう。
……いや、少しでも面白く出来る方法があるのならば、試しておくことに越したことはないか?
「ふむ……」
自室に戻り、彼女は顎に手を当て、地図の上に指を這わせる。
王城へと続く大通りにて、処刑は行われることとなる。
見晴らしの良い広々としたその場所で、断頭台へと登っていく男。という見世物は人心を掻き乱す。
こういった漠然とした目論見は、とても魅力的だ。
彼を良く思うものは涙し、良く思わないものは感情のままに激昂する。
そしてその波は大きく広がっていき、彼を知らぬ者もまた声を上げることだろう。
愚かに広がっていく感情の波。
あぁ、なんという素晴らしさか。
「戦場が混乱するのは、いつも愚か者の激情が原因となる」
戦闘が始まれば、欲をかいたこちら側のの軍隊長は敵を殲滅することを優先することは考えるまでもない。
愚かな指揮官によって戦列は乱れ、兵士同士が混ざり合い、指揮系統が崩壊する。
崩れ落ちる戦場、無様に逃げ惑う兵士たち、血に染まる大地。
そのすべてが、彼女の主のために捧げられる供物となるのだ。
「…………いや」
これだけのお膳立てをしておけば、相手側は確実に動くはず。
だが、見捨てる――つまり、処刑を見て見ぬふりをする可能性も無いと言い難いのも事実。
ヘンリーを犠牲にしてでも、安全を選ぶ。
しかしそれは、王子側の正義が無いと主張しているようなもの。
後にこの国を王子が指揮していくとしても、想定外の損耗や余計な政治的波及を生む危険性が高くなることは想像に難くない。
処刑などという蛮行を許せない。
と、民衆の集まるここでアーサー王子が己の正当性を宣言せねば、市民にとっての悪はエムラス一派であることは揺らがないだろう。
こちらの愚かな軍隊長ならばいざ知らず、彼らはそれに気づいていないとは思えないが……。
「そうだな。彼と……グレファスを使うか」
可能性が少しでもあるのならば、その確率は限りなくゼロに近づけるべきだろう。
偶然に身を任せるのは愚か者のすること。
火種は自然発生させるよりも、確実に投げ込んだ方が、意図した業火を上げられるものだ。
グレファス──現地へ忍び込ませている人材。
例の傭兵部隊の元部下で有能だが、己の欲によって忠誠を揺さぶられている青年が、ちょうど扱いやすい駒になった。
彼の恐怖と屈服により、手綱は手中に収まっている。
命令を下せば、奴は手足となって動くだろう。
──全ては“あの人”のため。
この国を面白おかしく滅茶苦茶にする。
ただそれだけ。
その過程で国が一つ消えようとも、それは彼の為の尊い犠牲。
たとえ親しくなった誰かが目の前で倒れようと、どれだけの血が流れようと知ったことではない。
「マスター……どうか御覧あれ」
囁きは、まるで祈りのように冷たく美しい響きを帯びていた。
そして彼女の足取りは軽い。
来るべき処刑の日を、そして混沌の宴を、心待ちにしながら。
彼女は皮肉めいた笑いを零した。
彼女の言う“あの人”は見えないところからこの国の様子を眺めています。




