230「分屯地にて」
ここは、分屯地──ブレアたちに貸し与えられた個室。
整然とした室内はベッドや簡素なテーブルがあるだけのものであったが、石鹸のような優しい匂いに包まれており、仄かに甘い香水のような匂いが漂う、ヴィヴィアンの借間とはまた違う雰囲気を放っていた。
「えっと……」
しかし現在、防人にそんな事を気にする余裕は無く。
彼は不機嫌そうな(というか完全にキレてる)リラの前で、床に座り込んで反省をさせられていた。
完全に、縛られた状態で。
「……で、さっきのセクハラはどういうつもり?」
椅子に腰掛けたリラがものすごい形相で彼を見下ろしていた。
「あの、リリス。僕は――うっ!」
「私の名前はリラよ! キスキル リラ! 前の時もそうだけど……名前を間違えないで!!」
鋭い蹴りを貰いながら、確かに軽率な行動だったと反省する。
少し前、防人は通信による指示を受けながら、追手などがいないよう念の為、少しだけ遠回りをしながら分屯地へとたどり着いた。
そこまでは良い。
無事に助け出せたという安堵感があったし、今度は助け出せたという感動にも似た喜びが湧き上がっていた。
でも、やっぱりというかなんというか。いくら会えたことに嬉しかったとはいえ、女の子に抱き付いたのは、確かにまずかったようで。
妹であるリリスならまだしも、今の向こうの──リラからすれば少しの間を過ごしたことがある、顔見知り程度でしかないのだ。
だからなのか、困惑気味であったリラもフラッグに搭乗しているのが防人であると気づいた後、受けた行為に関する怒りが込み上げてきたのか赤面したかと思えば、思いっきりビンタを食らうことになりました。
しかし、参った。
本当なら色々と話したいこともあったけれど……この怒りようでは、リリィの事も含めて話は聞けなさそうだ。
リリィ──それはリリスの中にいるもう一人の妹である。
優しいリリスを守るための強い彼女は、リリス本人に他ならないのだが……幼い頃の闘病生活において、孤独を紛らわすために生まれたらしいリリィは、リリスにとっての親友であり、逆もまた然りである。
今の、この強気な彼女はリリィの性格から来ているものなのかどうかは分からないが……少なくともリリスとしての彼女はやはり息を潜めているようだ。
ノアが託してくれたナノマシン。
それがリリスの記憶を取り戻すための鍵となるもの。
でも、それを実行するためにしなくてはならないのが粘膜を通じてのナノマシンの譲渡。
つまり、キスをしなくてはならない。
当然だが、今の彼女にそんな事をするわけにはいかない。いやまぁ今じゃなくてもダメなんだけども。
どのみち無理矢理に。なんてそんなことをするわけにもいかないし、かといってリラに説明をしたところで理解をしてくれるとは思えない。
……どうしたものか。
「……ねぇ、ちょっと、聞いてるの!?」
「え、あ、ごめん……なんだったけ?」
力なく、弱々しい声で謝る防人に対してリラは更に怒り心頭といった様子で拳を強く握りしめる。
だが、すぐに彼女はそれをゆっくりと解き、ため息混じりに大きく息をつくと彼の横を通り過ぎて扉の方へと近づいていく。
「リリス?」
「リラよ! ……もういいわ。私は王子のところに行くから。後はブレアさんにこってりしごいてもらって!」
「おい、リリスちょっと待って!」
「ふんっ!」
彼女を追おうと防人は立ち上がろうとするも、くくりつけられているロープがそれを許さない。
彼はバランスを大きく崩すとそのまま前のめりに倒れた。
「おい、大丈夫か?」
手をつくことなく(そもそも縛られているので手を突くことが出来ないが)顔面から倒れた防人にブレアはゆっくりと近寄り、心配そうに顔を覗き込む。
「えぇ……大丈夫です。このくらい全然」
ゴロリと転がり、防人は仰向けになるとロープの締め付けに耐えつつ起き上がり、床に座ったままの状態でブレアに答える。
「そうか。ならいい。……防人慧。今、あんたはリラをリリスと呼んだな?」
「え? ぁ、はい。呼びましたけど」
「それは単に間違えたとかじゃなくてか?」
「ええ、そう……ですね」
「では、矢神の奴から事情は聞いているということだな?」
「はい」
次々と聞かれる質問。
防人はそれに対して頷き、答えていく。
彼女は、部屋の角にあるデスクの引き出しから一本の金属の棒と小さな包みを取り出すと、防人の元へと戻ってくる。
状況が分からず、戸惑っている防人の目の前でブレアはしゃがみこむと彼女が手にしている金属の棒を彼の方へと向ける。
棒の先は鋭く、針になっており、それを急に向けられた防人はドキリと心臓を鳴らす。
「な、何を?」
「悪いな、この場に注射器でもありゃ楽なんだが……少し痛むぞ?」
状況がいまいち飲み込めていない戸惑っている防人に対して彼女は冷静に彼の袖を捲ると、サッと消毒を行う。
手早くカバーを外し、針を軽く突き刺した。
チクリとした感触を感じ、僅かに顔をしかめる防人の隣で、ブレアは細い金属ヘラで滲み出た血液を掬い取る。
「少し待っていろ」
と、デスク上にあらかじめ取り出してあったスライドガラスにヘラを擦り付けるように動かし、血液を薄く延ばすとカバーガラス乗せ、薄いフィルムで包みこんだ。
そして、引き出しに入っていた黒いケースの中へと先ほどのプレパラートを起き、蓋を閉じる。
「あの……何をしてるんですか?」
ロープで縛られたままの状態でなんとか起き上がった防人は飛び跳ねながらブレアの方へと移動し、後ろからデスク上を確認しながら問い掛ける。
しかし、反応はなく。
真剣な様子のブレアは、黒いケースから伸ばしたコードをノートパソコンへと接続。少し時間を開けて彼女は急に立ち上がるとプレパラートを手に洗面所の方へと消え、そして戻ってくる。
「……悪かったな。それ、取ってやるから後ろを向きな」
水で濡れたプレパラートを白いタオルの上に置き、ブレアはハサミを手に取ると防人を縛るロープの結び目を切り取った。
拘束が緩み、スルリと床に落ちたロープを彼女は巻き取りながら椅子に腰かけると防人の方へと向く。
「お前の血液を確認させてもらった」
「え? えっと、どういうことですか?」
「ん、なんだ矢神の奴から聞いてないのか?」
「矢神さんから?」
「あぁ、注射を打たれはしなかったか?」
「注射? 注射、注射……」
防人は首をかしげて自身の記憶を遡る。
そしてノアの事を思いだし、ここに来る直前に彼女が自身へ注射を打った事を思いだす。
同時に彼女を失った悲しみが溢れ、やるせない気持ちになりながらも防人はゆっくりと頷く。
「えぇ……あります。でもどうして」
……なくなったものは失ったものは戻らない。
防人は自身の気持ちを押し殺しつつブレアへと問い掛ける。
「彼からは色々と頼まれていたからな。もしもの時は彼女を頼むって」
「それって矢神さんに?」
巻き取り終えたロープを折り畳み、絡んだり、解けたりしないよう軽く縛ると、それをハサミとともに引き出しへと片付ける。
「あぁ……」
「そうなんですか……ん? でもそのわりには彼女を戦場に出したりしてましたよね? 今回だって一歩間違えたら殺されていたかもしれないんですけど」
「あれは、あいつの独断だ。本来なら自分の身を守れるように護身術を教えたり、安全な後方での活動に留めている。全く、なんであぁも人の話を聞かないのか……」
「えっと……なんかすみません」
「いや、謝ることはない。むしろ謝るのはこちらの方かもしれないからな」
「え? っと、それはどういう……」
「あの、お転婆な気質はノアのものかもしれないからな」
「あぁ……なるほど……」
確か、ノアを、リリスを助けるための身代わりにしたんだっけ?
名前は確かジーク……なんとか。
そいつがヤバイ奴で、結局二人共危なかったんだっけ?
それで……そう、クレイマーって人にお願いしたんだったか。
「つまり、今のリリ──リラの性格は本来のノアの性格だと?」
「恐らくはな。私もノアの事はよく分かっていないが……」
「そうなんですか」
「あぁ……」
なんだろう。すごく気まずい空気だ。
空調設備のお陰で、さっきの森みたいなジメジメした纏わりつくような暑さは全く感じないのに。
どうしよう。
ノアの事を知ってるみたいだから色々と聞いてみたくはあるんだけど……流石にこの状況で聞くのは間違ってるよね。
……少し、話題を変えようかな。
「あの、ところでさっきの検査? は注射の話と何か関係あるんですか?」
「ん、そうだな。まず、注射の件についてだが、その中身はナノマシンだ」
「ナノマシン? (あぁ、確かそんな事を言ってたっけ……)」
「そうだ。生体電池により半永久的に活動する極小の機体装置。そいつは酸素の蓄積とエネルギーの供給にプラークの除去それから――」
なるほど、説明はよく分かんないけど……光牙だけでなく、それの力もあったからこそ僕は生きてこの国にまで来れたのかもしれないな。
まぁ、酸素の蓄積量とか供給とかが一体どのくらいなのかは全く検討つかないから勘違いなのかもしれないけど、海に落ちて生き残るなんて普通あり得ないだろうし、そう思うべきだろうな。
いくら機体による保護があって身体が安全だとしても飲まず食わずでは、生きていられるわけがないんだから。
「他にも色々あるが、まぁ要は体内環境と身体のバランスを最適に保つのに一役買うのさ。加えて傷の修復補助なんかも行うからちょっとした傷なんかはすぐに治っているはずだ」
ブレアに言われ、防人は地下水路での戦闘で受けた傷の痛みが無くなっている事に気が付づく。
試しに腕の包帯を解くと腕の切り傷はアザのような色の変化はあるもののほとんど治っていた。
「その傷も今は分かりやすい傷だが、もうしばらくすればその色の変化も落ち着いて目立たなくなるはずだ」
「へぇ……」
リリスを助けるためのものがこうして上手く機能してくれているということは、ノアの言っていたように粘膜を介して、ナノマシンをリリスに移すことは出来るのだろう。
だがそれは即ちキスをしなくてはならないということ。
そんな事をハイそうですか。と実行できるわけがない。
「あの、ところでそのナノマシンはリリスの為だと聞いているんですけど……その注射は既に僕に打たれてしまっていて、どうやってリリスに移せば良いのでしょうか」
粘膜による譲渡という方法以外にも何か良い方法はないかと問いかける。
「そうだな……お前の血液からナノマシンを抜き取り、複製。リラ――彼女に射てば良いんじゃないか?」
「あぁ……」
腕を巻いていた包帯を小さく丸めつつブレアの言葉に納得する。それと同時にふと疑問が浮かび上がった。
「複製できるんですか?」
「ああ、今は無理だが、私達の施設に戻れば、設備も揃っている。矢神から受け取った資料もあるので問題なく行えるはずだ」
それなら安心だ。
「しかしまぁ、どうしてわざわざ注射をお前に打った? 手渡すなどしてくれればラクだったってのに」
「それは……」
緊急事態故に打たれたのだが……そうなるとノアの事を言う必要性が出てくるよなぁ……。
う〜む、どうにも話すのは躊躇われる。
この人も協力してくれているってことは多分、ノアの事は知ってるだろうし……。
「まぁ、その色々とありまして……」
「そうか……ま、お前がここにいるのは偶然みたいだしな。ナノマシンが奪われる可能性だってあるから……身体に仕込んでおいた方が確実って考えだったんだろうさ」
「そう、ですね。そうかもしれません」
防人は、ノアの事を考え再びうつむく。
ブレアはその様子から、彼にあった詳細については理解しかねたが、ここに来るまでに何かしら悲しいことがあったのだと直感する。
とはいえこういう時に、何か気の良いことでも言えたら良かったのだが……軍人として生きてきた彼女に、そういったことが即座に思いつくはずもなく。
少しばかり気まずい空気が流れ始めた。
「ハッ──えっと……それにしても、身体に仕込んでって……なんかその言い方だとまるでアブナイ薬の密輸みたいですね?」
「分からんでもないが……その理論からすれば、お前は運び屋だぞ?」
「あ、それは勘弁ですね。やっぱり今の発言無しでお願いします」
「ふっ、もう運び終わってるってのにそれはもう遅い話しだぞ?」
「えぇ、そんなぁ……」
少しばかり大袈裟に落胆する防人の反応に対し、ブレアは頬をつり上げると声を出して笑う。
目の当たりにしたであろう彼の方が辛いだろうに……。
冷静な淡々とした彼女の雰囲気からはかけ離れたその行動に対し、防人は驚き戸惑いつつもなぜ笑うのかを問い掛ける。
「あぁすまない。しかし……まぁ、まさかこんなバカげた冗談が通じるとは思ってなくて、な」
「そりゃぁ僕だって冗談の一つくらいは……まぁ中学の時とか自分からやると大抵はスベってるんであんまり自分からやるってことはしないんですけど……というか酷い言われようですね。バカげたって……」
防人を見たまま、彼女は微笑む。そして、ゆっくりと立ち上がると部屋の角に置かれた小棚を開ける。
「紅茶、緑茶、コーヒー……どれにする?」
「あ、いえお構い無く」
「遠慮をするな、ついでだ。インスタントだから手間も時間もかからんしな」
「それじゃあ……お言葉に甘えまして。えっと、緑茶で」
「ん、分かった緑茶だな?」
「はい、お願いします」
小棚の上に取り出したカップへとブレアはインスタントスティックの粉末とお湯を注ぎ入れ、付属の小さなプラスチック製のスプーンを使い、カップの中身を軽くかき混ぜる。
「そこの椅子に座ってくれ」
ブレアは二つのカップを手に、先程までブレアが腰かけていた椅子とは異なるベッドの横に置かれた椅子を差しながらそう言う。
防人が椅子へと腰かけてたのを確認し、ブレアは彼の側の小さな丸机の上にカップを置くと、元の椅子へと腰かける。
「さて、記憶の戻った君はどこまで覚えているんだ?」
「え? えっと……どういう事ですか?」
「そのままの意味だ。キスキルリラをリリスであることを思い出した他に何か思い出したことはないか、ということだ」
「えっと……思い出したと言われましてもリリスのことは妹のようなものだってことぐらいですから……えっと後は……地下水路で戦った敵、ですかね?」
「敵? あぁ、お前やキャバ嬢たちを襲ったという奴か」
「多分、そうだと思います」
「ふむ、それでそいつらはどんな奴だ?」
「あぁ……えぇっと…………」
「ん、なんだ勿体振って……あぁなるほど、敵の情報は大事なものだからな」
「え?」
何か理解したようなブレアの言葉に、防人は何を言っているのか理解できずに声を漏らす。
「しかしすまないが、今は持ち合わせがない。だが、後で必ず支払うと約束しよう。頼む、敵の情報を売ってはくれないか?」
「あぁ――いえ、僕は別にお金を要求しようとしたわけじゃないですよ。ただその今回戦った男の事が少し気になっただけで」
「ほう、そいつはそんなに美形だったのか?」
「え? ぁ、いえ結構歳いってるおじさんだと思います。顔は、イケメンというよりは、ダンディーって感じでしょうか?」
「ほう、そうか。そういうのが好みなのか」
「……ん? あの、すみません。何の話ですか?」
「ん、いやお前が男の事が気になったというからな。私にはそういうのはよく分からないが、おじさんがタイプなのだなぁとな」
「はぁ? 違いますよ! そういう意味での気になったってことじゃないですよ!」
何、そのBL的な流れは。冗談じゃないよ。もう。
ブレアの言いたかった事を理解した防人。
彼は慌てて首と手を軽く降りながら彼女の言葉を否定して続ける。
「その……戦った時なんとなくですが、僕の事を敵として見ていなかったような気がしたんです」
「それは相手にされてないってことか?」
「んーそういうのでもなくて……敵意というか殺意というか……んーなんて言うのか、上手く言えないんですけど懐かしい? って感じがしました」
「昔会ったことがあるってことか?」
「そう、なのでしょうか? なんかこう、こんなこと前にもあったなって言いますか」
「デジャビュか?」
「あぁそうですね。デジャブ。うん多分そうだと思いますね」
「なるほどな。その男の名前は知ってるのか?」
「名前……は分からないですね。すみません」
「なに謝ることじゃないさ。会話もそれなりに楽しかったしな」
ブレアは笑みをこぼした後、残り僅かのコーヒーを飲み干すとゆっくりと立ち上がる。
そして彼女と同様に緑茶を飲み干した防人のカップを受け取ると再び小棚の方へと向かった。
「もう一杯いるか?」
「あ、いえもう大丈夫です──っ!?」
突如、けたたましく警報が鳴り響く。
それを聞いた二人は反射的に廊下へと出ると『侵入者』という放送を耳にした。




