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204「サキモリの記憶」



「た、ただいま……」



 防人(さきもり) (けい)は玄関の扉の鍵を開けると静かに中へ入り、帰宅の挨拶をする。

 誰にも聞こえないように静かにひっそりと腰を屈めて廊下を進む。

 別に何か悪いことをしたわけではない。

 だが、ここは慧にとって他人の家に上がり込んでいるようで、落ち着かなかった。



「こら!」



 誰にも見つかりませんように。

 そう思いつつコッソリとリビングを抜けようとするも願い虚しく引き戸が勢いよく開き、リビングの中から一人の女性が姿を現した。

 それは、ケイがこの家で共に暮らす姉であった。



「ひっ! ごめんなさい!」



 慧は大きな音にビクンっと跳ねると反射的に手を合わせ、縮こまる。

 別に姉が恐ろしいというわけではない。

 しかし、離婚した母に連れられ、この家にやって来たばかりのケイにとってこの場所は与えられた自分の部屋以外は何から何まで全てが異質で居心地がよくはなかった。

 『■■■』という新しい苗字にだって違和感しかなかった。



「どうして謝るの? 別に怒ってなんかないよ」



 小さく震える慧の頭を姉は優しく撫でる。



「……でも」



 小学生となったばかりの慧と来年大学生となる姉。

 お姉ちゃんよりもお姉さんという言葉が似合う長身の女性は優しく微笑んでくれる。

 あまりにも歳の違う姉に慧は緊張感や照れ臭さ、色々な感情が混ざりあって言葉に困ってしまう。



「あの……」

「ん?」


「あの、おねぇさんは――」

「お姉ちゃん」


「あ、えっとおねぇちゃん……は、どうしてここにいるんですか?」

「だってここはあたしの家であなたの家でもあるんだから当然でしょ?」


「でも、その、えっと……学校は?」

「今日は始業式だったからね、昼前に終わったの。慧くんだって、あっケイくんは入学式だったね」

「う、うん」



 慧はゆっくりと頷いて、俯く。



「ごめんね。見に行ってあげられなくて、本当にごめんなさいね」

「おねぇさ――おねぇちゃん、っは学校があったんだからしかたないよ。ママも、お父さんもお仕事をがんばってるからしかたないよ……」

「そうね、仕方ない……ね」



 姉は慧の頭からゆっくりと手を離す。

 上がっていく手に引っ張られるように、オドオドとしながら、ゆっくりと顔を上げると姉はニッコリと笑った。



「よし! それじゃお昼ご飯にしよう。それからおやつね。早くランドセルを置いてきなさい」

「う、うん」



 そう言われ、小さく頷くと彼女から逃げるように自室へと入る。



「ただいま……行ってきます」



 ランドセルを机の横に置かれた引き出しの上へ置いて小さく頭を下げるとリビングへと向かった。

 机の上に置かれたのは黄身の潰れた目玉焼き、黒い焦げが付いていて苦く、塩が効きすぎていてしょっぱい。

 時折、ガリッと音がして慧はその度に卵の殻の混ざった白身を吐き出していた。

 それは姉も同じようで、二人は渋い顔をする。



「ご、ごめんね。ご飯を作ってあげようって思ったんだけど、毎日(いつも)コンビニのお弁当とかだから……」

「ううん、だいじょうぶ。おいしいよ」


「そう? 無理して食べなくてもいいんだよ?」

「だいじょうぶ……でも次からは」


「そうだね。コンビニの──」

「ううん。ちがう。ぼくが作るから」


「慧くんが?」

「うん、ママがずっとお仕事でいなくてパパもずっとパソコンでお仕事をしてたからご飯はぼくが作ってた。から、これよりはおいしいのが作れると思う」

「そ、そう。……ちょぉと傷つくなぁ」



 姉がボソッと呟くと慧は空になった皿を持って席を立つ。



「あぁ待って」

「なに?」



 姉は残り少ない昼食を流し込むように平らげると自分の茶碗と皿を持ってキッチンにいる慧の側に寄る。



「それ、あたしにやらせてちょうだい」

「でも……」


「お皿を洗うくらい流石に出来るよ。任せて」

「うん。じゃあ、おやつの後にお願いします」

「うん!」



 二人はシンクに食器を並べて机に戻ると姉は冷蔵庫から食後のデザートであるプリンを彼の前に置いた。



「これ、ちがうよ? これ、大きいやつだからお父さんのだよ?」

「大丈夫、これはあたしがこっそり買っておいたやつだから」



 机に置かれたプリンと姉の顔を交互に見て目を丸くしていた慧に姉は笑みを浮かべてそう言った。



「本当に?」

「うん」


「食べても、平気?」

「うん」


「ほんとうに? ほんとうにだいじょうぶ?」

「うん、大丈夫。これは慧くんが小学生になったお姉ちゃんからのお祝いだからね」



 目を光らせた慧は「ありがとう」と蓋を開けると大きくすくったプリンを口に含んだ。



「おいしい!」

「良かった」



 嬉しそうな慧に、姉は再び笑みを向けるとゆっくりと口を開く。



「ねぇ、慧くん」



 姉に呼ばれ、慧はピタリとスプーンを止めると姉の方を向く。


「なに? おねぇちゃん」

「う、ううん呼んで見ただけ」

「なにそれ~?」



 慧は笑い、再びプリンを食べ始める。



「あ、えっと……慧くん」

「んん?」


「えっと……慧くん」

「なに?」


「あのね、お姉ちゃんのこと、名前で呼んでくれないかな?」

「え、どうして?」


「いや、何となくなんだけど……そうだね、お礼……かな?」

「おれい?」


「そうお礼。うれしい事をされたりしたらお礼はちゃんとしないといけないんだよ?」

「そうなの?」


「うん、そうだよ」

「分かった、じゃあ……えっと――」



 慧は少し照れながらゆっくりと口を開くと彼女の名前を呼ぼうとゆっくりと口を開き……。


「ヴゥッ!?」

──違う……違う! こんな、こんなのは違う!



 ツンッと鼻を突く不快な薬品のような香り。

 同時に、蓋が外れたような叫び声が胸中で響く。

 改めてサキモリが顔を上げると目の前に広がる光景は一変した。


 薄汚れた景観。

 床は傷つき、窓ガラスはひび割れている。

 部屋の角には乱雑に積まれたゴミ袋の山が出来ていた。


 ゴミだらけで傷だらけのリビング。

 部屋の明かりは薄暗く、小さな小学生の男の子が座るテーブルは見た目よりもとても大きく感じられ、孤独感が増していく。

 目の前にいたはずの姉は消え失せ、テーブルには皺くちゃになった写真が置かれていた。



──あぁそうだ。これは自分が作ったんだ。

 俺に姉なんていない。

 ……こんなご飯を作ってくれるような姉なんて。



 慣れない手で作った不格好な目玉焼き。

 コッソリと母親が隠していたはずのプリンは空になって転がっている。



「姉さん……」



 あぁ、これは記憶だ。

 どうしてこんな事を、思い出しているのかは分からないし、防人としてそれは決してありえない夢、である。

 これは恐らく……カイトの──死んだ友人の過去であることは間違いない。



──なるほど……そうか……これは俺の……。


 

 胸の奥底で声が響く。

 それが彼のものであると防人は理解し、彼の意思に従うようにして写真を手にした。

 離婚した母に連れられ、この家にやって来たカイト。

 彼にとってこの場所は、押入れの隙間という自分の居場所以外は何から何まで……全てが異質で恐ろしくて居心地が良くなかった。

 新しい苗字が何であったかなんてに覚えていない。


 数少ない記憶の1つ。

 押入れの奥にあった1枚の写真。

 “きょうこ”と色褪せた写真の裏側には掠れた平仮名で名前が書かれている。

 これが恐らく姉と思われる女の子の名前だろう。


 けれど、サキモリは──カイトは姉になど出会ったことは一度もない。

 この写真が彼女の顔を知る事ができる唯一の手掛かりであるだけであり、この写真の人物が本当に姉であるのかすら怪しいものである。



「これが、お姉さん」

──どうだろうな。姉さんだって思いたいだけなのかも。



 写真に写った父親と思われる人物は顔の部分が敗れて分からないため、カイトの知る人物ではなく、全く別の父親である可能性は十分にあり得る。

 そして、もしそうであるなら“きょうこ”はその父親の方に付いて行っている可能性はあるのだが……。

 カイトの知る今の父親の惨状を思い起こすと、その父親もまともな人であるかどうかは怪しいところである。


 色褪せた写真。

 色褪せた記憶。


 小学生くらいの小さな頃の記憶は既に多くが曖昧で、写真に写っている母親の顔ですらモザイクがかって滲んでしまっている。

 それでも嫌な記憶とともに“きょうこ”の顔はこうして鮮明に残っているのだから……それだけカイトの記憶に根強いものであったというのは間違いない。



「なぁ、一体どうなっているんだ? どうして僕はここにいるんだ?」

──さぁな。


 防人が問いかけるように呟くも、それに対する答えはない。

 唯一色のある写真の少女を眺め、防人はヴィヴィアンに似ている。と改めて思う。

 確かに年齢としては異なる。それは当たり前だ。


 けれど、左目に並んだ2つの泣きホクロに、白く細い首筋にちょこんと存在するホクロ。

 こうして3つのホクロの位置が全て一致することはそう簡単にあるとは思えない。

 絶対ということは無いだろうが……可能性としてはかなり高いはずである。



(それは、多分カイトも分かっているはず。やっぱり、あの人が……お姉さんなのか?)



 分かっているからこそ、というべきか。

 気まずいというのとは少し違うが、顔を合わせづらい。何を話せば良いのか分からない後ろめたさというのはあるのだ。



──だってもう、自分は死んでいるのだから。



 仮にヴィヴィアンが“きょうこ”──姉であったとして、カイトが弟である(かもしれない)とどうやって伝えれば良いというのか。

 自分が貴方の弟です……なんて。

 そんな事を言ったところで何を馬鹿な、と冷たい目で見られるのがオチだろう。

 

 もっと言えば、自分の中にいるもう一人の自分が何だけど……いやいや、それこそ頭がおかしくなったと距離を置かれる可能性もある。

 それは、流石に悲しいな。

 せっかく仲良くなった(多分)人に嫌われるというのは本当に悲しいものである。


 好意は、持ってくれてるよね?

 じゃなけりゃお風呂入ったり、あんな風に過剰なスキンシップ(?)を取ってくるとは思えないし。

 お店の人だからって線も無いとは言えないけど……。


 姉であると嬉しい。

 この気持ちに嘘はないが……どうなんだ?



──知るか!



 ふむ、怒っているようでしかし心配の裏返し、と。



──おい、あまり適当な事を。



「うぁっ!?」



 不意に、世界が回転する。

 身体は地面へと叩きつけられるように倒れ、割れるようにボロボロであった部屋は崩壊し、視界は暗闇に染まる。


 暗闇の中、ボンヤリとした光が差し込む。


 薄暗いコンクリートの通路に倒れているような視界。

 まるで見ているのではなく、見せられているかのように傷付いたヴィヴィアンが視界に止まる。

 動けと腕にある枷が脈動しているかのように、一度だけ熱く跳ねる。


 もしかして……教えてくれている?

 危険が迫っていると?

 なら、それなら動かなくてはならない……けれど身体が言うことを……どうすれば。

 ヤバい、このままじゃ殺される!



《ナノマシン内蔵データ、解析完了(インストール)。頚椎部ICチップ活用により各種処理を代用。ナノマシン活性化確認。システム再起動完了(リブート)……》



 視界に刃が迫る中、頭の中で何処かで聞いたことのある声が響いた。



 カイトについては123、124話を参照。

 2人の記憶が入り混じる(というよりは引っ張られてるかな?)様子を書いたのですが、上手く伝わっていると嬉しいです。

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