193「優しいジャック・ザ・リッパー」
「アァァ……」
人影は歩いていた。
行く宛もなく、ゆっくりと、人目のつかない薄暗い裏通りをポツッポツッと歩いていた。
影に揺らぐ視界で、焦点のおぼつかない眼で、静かに……。
何故ここにいるのか。そんなことすらも考えることなく歩いていた。
ハッキリとしていない。
意識も何もかも。
「ちょっと! 気安く触んないでよ!」
「…………。」
女性の叫び声が耳に届く。
大通りの騒がしい話し声とは違うドスのある声。
その出元に影は無意識的に近付いていた。
「あんたら、いい加減にしとかないと後で酷いかんね!」
赤いドレスを身に纏った女性が大きな声を上げて男たちを睨み付ける。
だが二人係りで女性の腕を押さえつけている男たちはそんな女性を鼻でニヤニヤと笑い、顔を見合わせていた。
「おーおー正義の軍人様にその態度はねーだろお?」
そんな中でリーダーと思われる筋肉質の男は女性の全身をなめ回すように眺め、近づくと女性の顎を掴み、無理矢理に視線を合わせさせる。
【ユルセナイナ】
人影はゆっくりと男達の方へと近付いた。
ポツッポツッと。
揺らぐ影は誰にも知られず、静かに忍び寄る。
◇◇◇◇◇
「あんたら…………」
「おっと、へへっ逃げないでよ。つれないな〜」
裏口から店内へ戻ろうと踵を返すも、物陰に隠れていた奴らの仲間と思われる男が姿を現し、行く手を遮ってくる。
ガタイの良さもあって通り抜けられそうにはなかった。
「何をしようとしていたのか、分かってて言ってんのかい?」
「ん? 何の事?」
「俺達は楽しみたいだけなんだよ? 分かるでしょ?」
怖い。
こうして男達に迫られて怖くないはずがない。
だが、ここで怯えて竦んでしまってはいけない。
そんな事に陥ってしまっては相手の思うツボなのだ。
気は強く、全く動じていないという威厳のようなものを見せなければならない。
少なくとも押されてこちらが怯むことは許されない。
「ふざけるんじゃないよ! ちょっと! 気安く触んないでよ!」
「落ち着いてよ〜。リラックスリラックス。大丈夫だからさぁ」
「そうそう、俺達は仲良くなりたいんだ」
だけど、酔っ払っているせいなのかコイツラに声は届かない。
話を聞いてるのか、聞いていて無視してるのは分からないけれど、薄気味悪い笑顔だけが、男達の顔には張り付いていた。
もう何かしますってのが明らかに分かる表情をしていた。
「あんたら、いい加減にしとかないと後で酷いかんね!」
ヴィヴィアンがいくら睨んでも仲間を増やし連れてきた男は余裕そうに笑う。
腕を掴まれ、抵抗しようとももう片方の腕も掴まれてしまい、そのままガッチリと固定された。
「おーおー正義の軍人様にその態度はねーだろお?」
「ふんっ何が軍人だい。毎日のように酒飲んであたしらと戯れてるくせにさ。少しは真面目に仕事でもしたらどうだい?」
顎が、痛い。
力加減もマトモに出来ないやつが一体どの口で正義を語るのか。
全くもってフザケている。
「ちゃんとしてるさ。今だってこうやって楽しい楽しいスキンシップを取ろうとしてんだぜ」
「ふんっ、わいせつ行為のまちがいじゃないのさ!」
「安心しろ痛くはしねえからよぉ」
そう言いながら男はポケットから小さな袋を取り出すと彼女の前でユラユラと見せつけるように動かす。
それが例の薬であると分かったヴィヴィアンは恐怖に顔が歪んだ。
しかし、それを悟られまいと必死に眉間へシワを寄せて睨みつけた。
「あんたら!」
「おおいいねその反抗的な顔、その顔が今からどんな風に歪むか楽しみだぜ」
「へへへ……」
「――っ! あんた、私に何を当ててんだい!」
分かっている。分かっているけれど、もう声を張ることしか出来ない。
抵抗しようにも手足は両脇の男達に絡まれて動かそうにも動かせない。
かと言って下手に助けを呼んだらどうなるか分からない。
だから今の彼女には必死に声を荒げるしか道はなかった。
「いいものさ、こいつを使えばおめぇみてーな気の強い奴だってイチコロよ」
「本当に、何を……する気だい」
男は小袋から一本のアンプルを取り出すと彼女の腕に当てているピストル型の注入器、そのシリンダー部へアンプルを取り付けると手慣れた様子で空気抜きを行ってから再び彼女の腕に当て直す。
「そう焦るなよ。ここならどんなに大声あげたって大通りのやつらは来ねぇんだからよ」
「あんた、そいつを今すぐに私から離しな!」
「安心しろよ。すぐに天にも昇る気分になれるからよ」
「ふ、ふざけるんじゃないよ。ととっと離しなさい! 離せ!!」
「おい、お前らしっかりと腕を押さえとけ」
女性の腕を掴んだ男たちは頷き、暴れられないように拘束すると注入器を手にした男は笑みを浮かべながら引き金にゆっくりと力を込めていく。
「あんたら! ほんとに後でひどいわよ!」
「へへ、安心しろよ。すぐに絶頂して堪らなくなるぜ」
「や、止めろ。止めなって言ってるだろ! ――お、お願いします。止めて……」
「へへへ……いーねそういう弱った声。たまんねぇ~。……ま、薬は打つがな」
「――っ‼」
本当に情けない。
弱音を吐いた自分にそう思いつつももう間に合わないと諦めたヴィヴィアンはギュッと目を閉じた。
引き金に力を込めようと指に力を込める。
「グッ?」
「ワップッ!?」
同時にリーダー格の男は後ろから何者に追突され、体勢を大きく崩した。
照準のずれた注入器は何もない空中で引き金が入り、ピストン内の薬液を勢いよく発射、女性を拘束していた男の顔面に直撃する。
「てめ、何しやがる!?」
「あーー?」
(何が、起きたの?)
目の前で下卑た男の顔が消え、次に現れたのは一人の少年。
黒い髪に金色に淡く光る瞳。
上半身は力無くタラリと垂れており、生気がないように思えた。
少年は顔をゆっくりと上げると焦点の定まってない目でこちらを見ると歪んだ笑みを浮かべた。
不気味とも思えるその笑顔にヴィヴィアンは不思議と安心感を覚えた。
「なんだ? 酔っぱらい野郎か?」
「ほれ、行った行った」
「俺たちゃお前なんぞに構ってる暇なんて無いんだよ」
「んーー?」
「チッ! コイツ、ラリってやがんのか?」
「んふふふ……」
少年はフラフラとした足取りで不敵に笑う。
状況を理解したのか、ゆっくりと離れていくのをみて、男達はさっさと行けと声を掛ける。
が、少年は近くにあった空の酒瓶を手に取るとグルンと大手を振るって男達へ目掛けて投げ付けた。
「てめぇ、やりやがったな!」
「ハッ!」
男たちの集中が少年に向かった瞬間に拘束が緩んだ隙をついてヴィヴィアンは薬を食らっていない男の方へ目掛けて蹴りを食らわせる。
声にもならない叫び声を上げながら倒れるのを見て、すかさずもう一方の男へ向かうと優しくビンタする。
男は嬉しそうに喘ぐとそのまま気を失ってしまった。
「てめぇよくも!」
「あっ、くっ」
「フフフ……」
横から飛び付いた少年が残った男に飛びかかると拾っておいた注入器を男に向ける。
「て、テメェ!」
「フフッ」
「あ、あぁっ! うぅっぐぅあ! アッ、アッ! グォォォ!!」
空気の抜ける音と共にアンプル内の残りの薬液が注射された男は突如、悲鳴を上げてのたうち回ると手足を痙攣させ、失禁する。
それを見たヴィヴィアンは気持ち悪さと恐怖を覚えたが、躙り寄る足音に彼女はすぐに少年の方へと視線を戻した。
「ニフフフ……」
「見境ないってわけ?」
少年は男から離れ、女性の方へと振り向くとゆっくりと彼女の方へと近づいていく。
ヴィヴィアンの頬にヒヤリとした汗が流れる。
ゆっくりとゆっくりと近づいて来る少年の足取りは重く、逃げようと思えば逃げられそうな様子ではあったが、彼女はジッと待ち構えた。
「フフフフフフ……ふ……ぐ――」
バタリッと、少年はまるで電池が切れたオモチャのようにヴィヴィアンの目の前で膝を突くと、そのまま地面へと倒れ込んでしまう。
「ちょっと貴方……」
恐る恐る覗き込むと少年はスゥスゥと寝息を立てていた。
暗かったせいもあってか良く見えなかったが、今こうして改めて見てみると影が薄れたように少年の姿はハッキリと見て取れた。
上下ともにピッチリとした妙な服。
水着のようにも見えるそれは、間接部などにはプロテクターが入っているのか少し厚くなっており、薄い生地のように見えながらとても頑丈そうな雰囲気があった。
「えっ……と……寝てるの、かい?」
「ん、ぅぅ……」
「ふ〜……全く、呑気そうな顔だね」
本当なら、このまま無視してしまっても良かったのだろう。
ここに住んでいる連中も、この裏通りで偶然にも彼らを見かけたところで酔っ払いが寝ているか、喧嘩でもしたと思って見て見ぬふりをするはずだ。
人斬りジャック。
もし、この少年が件の人物であるならば尚更である。
しかし、この少年に助けられたのは事実であり、もしアルラウネの雫を打たれていた日にはあそこに転がる男達のように無惨なものになっていただろう。
気を失い、白目を向きつつも快楽に苦しみ、絶叫し続ける。
そんな存在に成り下がり、堕とされる。
もし、あんな状態で手でも出されたらと思うと……ゾッとしない。
言うなれば、命を救って貰ったようなものだ。
やはり、無視するなんて出来はしない。
「ノア……アデル……マピュス……」
騒ぐ男達の声を聞きつけてこの街の誰かがいずれ来るかもしれない。
その時、この少年がどんな扱いを受けるのか……。
このあたりでは見たこともない少年。
少なくともウワサのジャックならばと、賞金に目が眩んだ奴が良からぬ事をしかねない気もするし……。
やはり放ってはおけない。
「みんな、ごめん……ごめんね」
「やれやれ……有り難うね」
寝言のように呟き、涙を流す少年。
ヴィヴィアンが頭を軽く撫でてやると、少年の寝息に嗚咽が混じる。
彼女は優しく抱き抱えると『大丈夫』と少年の頭を再び軽く撫でてやり、店の中へと戻っていった。




