159『3日目』
次の日。
目覚ましの音で防人はゆっくりと起き上がり、生徒手帳を手に取り、時間を確認する。
「おはよー、防ちゃん」
「あ、おはようございます……」
半ば反射的に返事をしながら、寝ぼけた顔で洗面所へ。歯を磨きながらテレビの電源を入れ、朝のニュースの確認を行う。
こうしたいつもの行動も海の見える部屋から行うとまた違った趣きがあることに若干の感銘を受けつつ、眺めていたニュースの間に挟まれてるはずのオリーブオイルの料理番組が無い事に軽い驚きを感じるも、すぐに週末であるからと納得する。
歯磨きを終え、顔を洗い、テレビの音声を聞きながら布団を畳み、部屋の角に置いておく。
「防ちゃん、枕……」
「ありがとうございま──す!?」
移動の途中、落とした枕を受け取る防人はその相手の女性と顔を見合わせ、驚きの声を上げる。
「ど、どうしてめだかさ──」
「し〜、起きちゃうわよ?」
確認を取ろうとした防人の口元に人差し指を添え、彼女はぐっすりと眠っているリリスの方を指差す。
「……どうしてここにいるんです?」
「そ・れ・は、もちろん……貴方に会いたかったから。に決まってますわ」
めだかからの指摘に落ち着き、改めて問いかける防人の耳元で彼女は囁くようにして答える。
近過ぎる顔と顔。
碧色の瞳に写る防人の驚きの表情。
ほんのりと香る甘い匂いに若干の戸惑いを覚え、防人は一歩後ろへ下がるも負けじと彼女は一歩前に足を進める。
「そ、そうじゃなくて、どうやってこの部屋にって事です」
「あら、それは見せたことあったと思うけど?」
「あー……そうでしたね」
鍵穴から鍵を作り出せることを思い出しつつ、防人は再び距離を取ろうとするも後ろに畳まれた布団のせいもあって身動きが取れないことに気付く。
そして何故こんなに近いのか。
おかしい、明らかにおかしい。確かに今まで飛び付かれたり触ってきたりとスキンシップが激しい部分はあったが……今回は今までと違う。こんなに近くに来ておいて触れようともしないし、顔もこんなに近づけてきて、まるで何かを隠そうとしているような……?
「めだかさん?」
「何かしら?」
「退いてくださ──」「いやですわ!」
あ、これ絶対何かしてるな?
テレビの音に混ざって聞こえてきたゴソゴソ音。何かを漁っているような音とめだかの態度からロクな事にならないと直感した防人は彼女の脇をすり抜け、現場を確認しようとする。
が、めだかの見事なディフェンスによりなかなか抜け出すことが出来ない。
防人自身、日々の訓練もあってそれなりに身体能力が上がってきたと自負しているが、彼女もまた歌って踊れるアイドルというだけあってなかなかの身体能力を見せつけられる。
「オリジアさん。三春さん。いますよね? 何してるんです?」
『オリジア ラーティス』
『逢坂三春』
それは愛洲めだかと同じ部活動を行っている女性達。
その中でも特に信頼を寄せている二人の女性。
彼女達は一目見るだけでは愛洲めだかと同じ顔をした同一人物のように見えるけれど、実際は化粧などで顔付きを似せているだけであり、よく見ると首筋にホクロがあったり、目の大きさに差異があったりと細かな違いは見受けられる。
そんな二人の名前を防人が呼ぶも返事はなく、しかし急ぎはしているようで布擦れの音が早くなっているように思う。
「ちょっ、本当に、何を、してるん、ですか?」
めだかの体の隙間から二人の様子を覗き見ようとするもすぐに視界が塞がれてしまい、別の位置から覗き見ようとして再び塞がれる。
「めだか様……」「めだかちゃん」
何度か繰り返しているうちに準備が整ってしまったようだ。
めだかは嬉しそうに微笑むと一歩後退し、ようやくその全貌が明らかとなる。
襖の縁に掛けられていたのは一着のワンピース。旅館の雰囲気に合わせてか和風に仕立てられたそれは、涼やかな浴衣の趣を纏っていた。
淡い色合いの花柄が繊細に描かれており、袖は広めでありながら、風通しを良くするために袖口に小さな透かし模様が施されている。
ウエストラインは程よく絞られ、曲線を美しく引き立てつつも、自由な動きを妨げないよう工夫されているようだ。
裾には、柳の枝や蝶の模様が織り込まれ、まるで絵巻物の一場面のような趣が漂っていた。
腰周りには帯のような細い布が巻かれ、後ろで可憐な蝶結びになっており、その帯にも同じ花柄が施され、全体を統一感あるデザインに仕上げていた。
そしてそのワンピースに合わせ、折り畳み式の小さな化粧台の上に用意されているのは清楚さを醸し出す黒のロングヘアーのウイッグ。
装飾品として風鈴をイメージしたイヤリングが添えられている。
準備万端なその光景を目の当たりにした防人はこれからのことを察し、呆れた様子でため息をついた。
「さぁ防ちゃん。どうぞ」
「え? ヤダ」
座るように、と促されるも防人はそれをアッサリと否定する。
「さぁ、防ちゃん。どうぞ!」
「だから嫌ですって」
せっかくの夏休み。しかもこれからご飯を食べに行くというのにどうしてわざわざ女装をする必要があるというのか。
それに、今日も海に向かうから汗をかくのは確実。そんな状態で化粧なんてしたら崩れるのは目に見えている。
そしてなにより、面倒臭い。
「まぁまぁそう言わずに、ちゃんと可愛くしてあげるから〜」
桜色の髪をした少女。少しおっとりとした優しい口調で話す少女。
『逢坂三春』の両手には化粧道具が握られており、彼女もやる気十分のようだ。
「いやいやそういう問題じゃないですよ」
「心配はいりません。ちゃぁんと化粧は汗に強いものを用意してますわ」
「いやだからそういう問題じゃないですって」
「めだか様、もしかしたらワンピースが気に入らないんじゃない?」
桜桃色の髪。活発そうな雰囲気のある少女。
『オリジア ラーティス』は防人にとって余計な助言を述べると、めだかはなるほど。と納得がいった様子で防人の側を離れるとわざわざ持ってきたのであろうキャリーバッグから丁寧に畳まれた衣装を取り出すと防人にその衣装を広げて見せる。
「これなんてどう?」
「いや、ですから──」
「カワイイ!」
防人達の間に割って入り、キラキラとした好奇心旺盛な顔をのぞかせるリリス。
「ほらぁリリスちゃんもこう言ってますわよ?」
ムフー、と既に勝ち誇った顔で着てみてと促すめだか。
「安心しなさい。最高の出来に仕立ててあげるわ」
「ほぉら、座って座って」
三者三様に、少女達に迫られる防人。
まぁ、こうして好意をもって近づいて来てくれるのは防人も嬉しいよ。嬉しいけどね、その内容が女装のための準備ってのが残念でならない。本当に。
結局、ここでウダウダしていたところで彼女達が諦めることはまずない。
めだかが諦めたら他二人も諦めるだろうけれど、そもそも彼女が諦めるというのが想像できないので実質全員諦めることはない。
「わ、分かりましたよ……」
結局、今回もこちらが折れるしかなかった。
「おはよう」
「お、おはようございます」
奥の院にある食事処へ向かう途中、既に起きていた風紀委員長の日高竜華がとすれ違う。
いつもの赤いジャージにエプロン姿ではなく、浴衣に割烹着姿であることに新鮮さを感じながら防人達は挨拶を交わす。
「似合ってますね」
「そう? ありがとう。そっちもカワイイね」
「ありがとうございます」
人前で女装姿を晒している事に慣れたのか、恥じらいが薄れていることに防人自身も改めて驚きつつも先程のお辞儀で垂れてきた髪を後ろへ流す。
褒められるのはなんともむず痒いが……隣りにいるリリスが自慢げなのはなぜだろうね?
「リリス、座って大人しく待ってるんだよ」
「お兄──お姉ちゃんどこ行くの?」
食事処の大広間へと到着した防人たち。
防人が座る場所を決めるとリリス、めだかの2人はその両隣に決めたのを見て、後はリリスをめだか達に任せるつもりで厨房へ向かうべく踵を返すと驚いた様子のリリスに裾を掴まれてしまう。
女装時に姉呼ばわりされるのはまだ少し慣れないが、それはそれで悪くないと思っている自分がいるのが恐ろしい。
と、それよりも早く答えないと。
「竜華さんの手伝いに行くんだよ」
「私も行く!」
「え? えっと……」
「いいじゃない? リリスちゃんだって手伝いたいんですのよ。ね?」
無理をしないことを条件に、リリスを連れて防人は少し離れた位置にある厨房へと顔を出すと手伝いに来た事を竜華へ伝えると難なく了承を得ることができた。
大きな厨房。流石にこの場所に旅館らしさはなく、テレビなどで見たことのあるような銀と白で統一された清潔感のある空間が広がっていた。
厨房の一角では慌ただしく風紀委員である彩芽紅葉が慌ただしく調理を行っており、竜華はズラリと並べられた膳の上へ食器等を並べている。
自分たちも何か手伝えることはないか問いかけるとそれなら、とテーブルに置かれている献立表を差され、リリスは竜華の代わりに食器を並べることを言い渡される。
献立作成は調理部の生徒たちによるものであり、当日はこの献立に従って部員の人たちが皆の料理を作るという流れとなった事を思い出しつつ竜華の指示に従って『ふわとろ卵焼き』の料理を始める。
先ずは卵をボウルに落とし、菜箸で泡立てないように気を付けてよくかき混ぜる。
そこに麺つゆに砂糖、みりんなどの調味料を加え、改めてよくかき混ぜると卵焼き用フライパンにサラダ油を薄く引き、卵液を垂らす。
焼き過ぎないよう気を付け、プクプクと膨れてきた気泡を箸で潰しながらタイミングを見計らって手際よく丸めていく。
焼ける卵の香りと音が食欲を誘い、お腹の虫も騒ぎ出すがグッと我慢。残った卵液を改めて垂らし、同じ要領で卵焼きを大きく、キレイに丸めていく。
出来上がった卵焼きに包丁を入れ、少し厚めに6等分。
献立には1人2切れとあるのでこれで3人分が出来上がった事になる。
研摩部の3人に植崎、先生2人に風紀委員が2人。風紀委員が自分を含めて5人。めだか達3人。そしてリリス。と17人分の卵焼きを作る必要がある。
つまり、この工程を後6回。うん、面倒くさいね。
業務用だからか少しフライパンも大きくて扱いにくいし。
まぁ、2切れ余るから調理者特権としてリリスとつまみ食い出来るし、このくらいならまだ全然問題ないけど、当日の調理部の人たちの苦労を思うと頭が下がる思いだ。
2つ目、3つ目と手際よく卵焼きを作り上げると大皿を手に御膳の並べられた場所ヘ移動。
テーブルの献立表に印刷されている写真をもとに卵焼きを置いていく。
炊きたてのご飯に具沢山な味噌汁、焼き魚に納豆。そしてふわとろ卵焼き。
後は夏野菜のサラダを目分量で盛り、ミニトマトを2つ添えて完成。
出来上がった朝食の乗った御膳を配膳用の台車に乗せると大広間へと移動する。
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奥の院、食事処の大広間。
防人達が調理を始めてからしばらくして先生たちも含めてそれなりに集まってきた。
そんな中、植崎祐悟は大口を開けて欠伸をする。
「あ〜〜……」
(眠い。退屈だ。メシだと聞いて来てみれば、まだメシの用意は出来ていないみてぇで待たされてる。
アニキ達は座って待っているのが焦れったいってギリギリまで筋トレしてるみたいだが、今はそんな気分になれねぇな。
あれから結局、アニキ達と家造りを夜中まで手伝わされる羽目になっちまったし、そのせいで体中が筋肉痛で痛くて仕方がねぇ。
寝るときは部屋は慧と一緒かと思ったが、妹と一緒だとか言って昨日もこの前も別だったしよ。
しかし、アイツラってそんな仲良かったか? いっつも喧嘩してる、つーかケーのやつが一方的にやられてるって事しか思い出せねぇけどなぁ……)
植崎祐悟は湊と一緒にいる防人慧の姿を想像するが、残念ながらここでいう妹とはリリスの事である。
現在、湊はATの下で楽しんでいることだろう。
(それにしてもケーのやつまだ来てねぇな? 寝坊か? 珍しい事もあるもんだ。いつもならもうとっくに来てるはずなんだが……)
キョロキョロと、周囲を見渡すも防人の姿は見当たらず、頬杖をついて待っていた。
他の皆は旅館にある浴衣を着ている中、現状植崎だけがいつもながらのジャージ姿である。
本当なら植崎も浴衣は着てみたい。だが、スマホで調べても結局帯が緩んできてしまって上手く着ることが出来なかった。
もし風呂場で防人と一緒に着替えてたら、教えてくれてただろうが、初日は浴衣の存在を知らなくてジャージだったし、その次は残念ながら一緒の時間に温泉に入ることはなかった。
(ん? あれは、一緒の部屋の……白石だったか?)
同じ風紀委員である千夏千冬と話しているのを見つけ、フンッと鼻を鳴らした。
(一緒にいるのは、彼女か? 表情はそんなだが、なんだかんだ楽しそうにしてんなぁ……何の話してんだ? 良く聞こえねぇな)
本間白石。彼らの話は植崎の席からは距離があるのと千冬の声が小さい事もあって聞き取れない。
(……退屈だな)
もし、防人が来てるならすぐにこっちを見つけて挨拶くらいはしてくれるはずだが……やはりまだここにいないということなのだろう。
せっかく新しいゲームソフトを買ったのにな。と植崎は再び欠伸をし、ジャージのポケットから携帯ゲーム機『HPW』を取り出すとスリープを解き、ゲームを再開した。
(……ようやく出来たか)
少しして、ガラガラとタイヤの音が近づいて来る音、そしてカチャカチャと食器の鳴る音を聞き、植崎はゲームを一時停止。その音の方へ視線を向ける。
「…………っ!?」
そして、入ってきた少女に目を奪われた。
それは黒い長い髪をした女の子。旅館の浴衣とはまるで違う豪華な浴衣を着た女の子。
(あの子は一体何者なんだ?)と植崎は狼狽する。
目が離せず、ジッと眺めている間にも料理が並べられていく。
「おはよ」
「お、おう。おはよう」
植崎の前にも料理が置かれる。
ほんのりと香る花らしき匂いに鼻腔を広げていると不意に浴衣の女の子から挨拶され、植崎は緊張した樣子で受け答える。
「ん、どうした? 寝不足か?」
「あぁ、海の家を造ってたから」
「あぁそういや、あの後先生たちは残ってたっけ。お疲れさん」
「おう、サンキュウ……」
「ん、それじゃあね」
「お、おう」
明るく、気楽に話しかけてくれる女の子。
彼女との会話は短いものであったが、植崎にとってはとても満足感のあるやり取りであった。
(あ、名前を聞いときゃよかった!)
ふと、失念していたことを後悔しつつも植崎は目の前に置かれた料理の蓋を開けていく。
湯気が上がり、美味しそうな香りが鼻をつく。
「「いただきます!」」
手を合わせ、食前の挨拶。
植崎は防人がいないことなど全く気にする様子もなく、先程の女の子の方へ視線を向ける。
学園のアイドルである愛洲めだかと青髪の少女に挟まれながら食事をする黒髪ロングの女の子。
(女子に人気がある子なのか……それにあの青髪の……昨日とか慧と一緒にいた女子だよな? ってことは慧の奴もあの黒髪の事知ってんのか?)
3人はかなり仲が良いみたいで彼女達は食べさせてもらったり、食べさせたり、とイチャイチャとしたシーンを見せつけていた。
あれがカップルなどであればなんとも言えない気持ちにさせられるが、女の子同士であれば何も問題はない。
むしろ眼福と言えるだろう。が、今は腹が減った。
(ん? スプーンは、ねぇのか。クソッ箸なんてもんでチマチマ食ってたら日が暮れちまう……クッこのっ、何でこんな棒2本で飯が食えるんだ?)
植崎はあまり箸の扱いが上手くない。それどころかまともに扱うのが困難であるレベルである。
幼い頃、箸を扱うような環境ではなく、また箸の扱い方を教えてくれるような相手もいなかったからである。
もちろん未だ箸が扱えないのはスプーンやフォークなどを使って箸を使ってこなかったのは植崎自身の怠慢であり、自業自得ではあるが。
(クソォ……けど、あの人の前でスプーンを貰うなんてそんな情けねぇことを言うわけにもいかねぇ)
初対面で、それくらいで嫌われる事はないだろうが、箸が使えないのが恥ずかしいことであるのは植崎自身も分かっている。
彼は目の前にいる先生たちの箸の持ち方を見様見真似で持ちながら、先ずは卵焼きを掴もうとするが箸が思ってもいない方向に動き、卵が崩れて落ちてしまう。
(ああもう、面倒クセェ!)
グサリと卵を突き刺すとご飯の入ったお椀に乗せるようにして持っていこうとするも卵焼きの重みでスルリと箸から抜け落ちてしまう。
「はい」
「……お?」
卵と格闘をしていると目の前に差し出されたのはフォークとナイフ。
顔を上げるとあの黒髪の女の子が立っていた。
「これ、まだ使ってないやつだから。良かったら使いなよ」
「お、おう。サンキュー」
「ん、それじゃ」
植崎は手渡されたそれを有り難く受け取るとその女の子は元いた席に戻ってしまう。
(天使!)
その優しさに感無量!
植崎はジーンと響くその気持ちとともに目の前の料理を噛み締めながら深く深く感謝する。
「はて、あんな子いたかな?」
「あぁ彼女──いえ、彼は……」
その感動は目の前で話す先生たちの声すらも植崎には届かせることはなかった。
そして黒髪の女の子──女装した防人もまた植崎がそこまでの感情をこちらへと向けていることなどつゆ知らず、食事を再開する。
「優しいんですのね」
「いや、別に……」
ただ単に植崎が箸で食事をしている様子を今まで見た覚えがなかったことと苦戦している様子が目についただけであり、また箸の練習をするはずであったリリスがこっそりとフォークなどを持ってきていたのを見つけ、偶然にも没収したものがあったというだけである。
本当に。
せっかく作った卵焼きをボロボロにしているのが我慢ならなかったとか、箸の使い方以前の問題だったのが見るに耐えなかったとか、そういう苛立ち的な気持ちがあっただけなのである。
「偶々だよ」
「ふぅん、そう」
照れ隠し。
めだかは防人の横顔を温かい目で眺めていた。
後日、黒髪ロングの彼女を紹介するよう頼まれたが、彼の感情のみが優先した力説では一体誰のことを言っているのか防人にはまるで分からなかった。




