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第96話 目覚まし

 東雲さんに呼ばれて行った先には、彼ともう一人見知らぬ男性が立っていた。

 最後に掃除されたのがいつか分からない汚れた灰皿の前に立つ二人は一見他人同士の喫煙者にしか見えない。けれど灰皿に灰は積もっていなかった。

 頭の禿げかけた初老の男だった。寒そうに赤らんだ鼻をダウンジャケットに埋めていた男は、やってきた私にニヤけた笑顔を浮かべポケットに手を突っ込み、チケットを取り出して渡してきた。


「これがチケットです」


 へぇ、と薄い頭を掻きながらハゲタカと名乗った男は笑った。

 渡されたチケットをしげしげと眺める。白地に黒文字で日時だけが書かれているシンプルなチケットだ。何のチケットなのかタイトルさえも書かれていない。ただ隅にバーコードが記されている。


「そこを読み取って、正規のチケットかどうか調べるんですわ」

「本物だろうな」

「ええ、ええ、間違いありません。入手元はバッチリ信頼できるところです」


 鼻を啜りながらハゲタカさんは首にかけていたカメラを叩いて、自慢げに胸を張った。そのカメラに何が映っているのかは分からない。だが東雲さんは既に確認を取ったのだろう、顎を引くように頷いた。


「なくしちゃなりませんよ。入場券ですからね。二枚手に入れるのも苦労した」


 分かってる、と東雲さんがお金を取り出してハゲタカの手に握らせる。札が数枚。毎度、とニヤけた笑いを浮かべたままハゲタカはそそくさとお金を懐にしまう。

 彼女は、と私が続けると彼は頷いて身を屈ませる。道を歩く人どころか、私達にも聞こえにくいほどの潜めた声で彼は情報を出してきた。


「タレントモデルとホテルに行ったり、ファンに対しての暴言を吐いたり、泥酔して路上で服を脱ぎだそうとしたりってのは簡単に撮れたんですけど。あんたらが求めてるのはそういうものじゃないでしょうね」

「当然だ。そんな些事、他の奴だって撮れる」

「でしょう。――実はですね、彼女のボディーガードが明星動物園の動物を盗んだ、って情報がありまして」


 それ知ってます、と私はハゲタカさんの言葉に重ねるように言った。太陽くんと話したことを二人に伝えると、東雲さんが訝し気に眉を潜める。


「あの女が動物を盗難した? 何の為に。ペットにでもしたいのか」

「ライオンとかクマとか、猛獣ばっかりなのに?」

「猛獣だからだ。あの女の性格なら、小動物より猛獣を好みそうだろう」


 確かに。ティパちゃんは兎やリスを愛でて喜ぶよりも、猛獣を従えて遊んでいそうなイメージがある。

 それだけじゃないですよ、とハゲタカさんが続けた。


「お騒がせアイドルだからといえど、流石に警察の介入は避けたいんでしょう。彼女が放火や窃盗など犯罪沙汰をする瞬間は一切見られませんでした。ええ、彼女自身は。だから私は調べる対象を変えたんです。アイドル本人ではなく、そのボディーガードに。……第九区。あそこの港は船がよく出てるでしょう。やり取りがされるのは漁業だけじゃない。薬ですよ、薬」

「薬?」

「大量の粉袋を詰めた船がありまして。その船とやり取りをしていたのが、つけていたボディーガードだったんです。大量の袋をトラックに積めて別の場所に向かっていたんですが、その先と言うのが」


 ハゲタカさんはちょいちょいと私の握ったチケットを指す。会場か、と東雲さんが頷いた。


「ライブ会場となる場所に大量の薬を運んだと? ますますきな臭くなってきたな」

「しかもですね」

「まだあるのか?」

「はい。トラックに積めていたのは薬だけじゃない。――人ですよ、人間」


 人、と私は目を丸くする。薬物と共に人をトラックに積めて運ぶ。仲間とか、そういう仲ではなさそうだ。人身売買という言葉が脳に浮かぶ。


「積められた人間の姿を辛うじて写すことはできたんですが、あまり鮮明じゃない」


 ハゲタカさんがカメラに撮られた写真を見せてきた。言葉通り不鮮明なものばかりだ。ピンぼけしたものに激しくぶれたものに地面だけを写したものに……。落ち着きながらゆっくりカメラを構えられるような状況ではなかっただろう。

 だが数枚からは辛うじてトラックに乗り込む人の姿が見て取れた。年齢も性別もバラバラな人々だが、その顔のほとんどは恐怖と緊張に強張っている。しかし数人の顔はどこか恍惚とした喜の色を浮かべていた。

 東雲さんがとある一枚を目にして反応を示した。乗り込もうとする人が数人写っているものだ。彼はそのうちの一人を見て、ハゲタカさんに目配せをした。


「こいつは……」

「ええ」


 彼らが見ているのはくたびれたシャツを着た巨大な男だった。ボタンが今にも弾け飛んでしまいそうなほど、その体躯は肥えている。大きなカエルに似た顔。段になった肉に埋もれた小さな目が、ぼんやりと空を見つめていた。


「第九区の刑務所を脱走した死刑囚。通称、共食いモルフ」

「共食いモルフ……何ですかそれ。外国人?」

「そいつの名前じゃありません。両生類にたまに見られる変異個体のことですよ。仲間を共食いする個体で、他の個体よりずっと大きい。もっともそういう個体として生まれたわけではなく、たんに大きく成長したやつがそう呼ばれたりするってだけですが」

「へぇ…………って待ってください。じゃあ共食いモルフって、この人のあだ名なんですか」

「刑務所に入ってた頃、他の囚人からそう呼ばれていたらしいですよ」

「じゃ、じゃあこの人」

「人を食ったんですわ」


 ぞっと指先から血の気が引いていく。人を食べる。その言葉が真っ直ぐ私の心臓を貫いた。

 死刑囚の脱獄ならば前例がないわけではない。以前学校に侵入したマーゲイだってそうだった。しかし、人食いという人種は今までお目にかかったことなどない、関わったこともない。そんな人間が脱獄して、私達が向かう先にいるという事実。思わず顔を顰めた。

 繋がった、と東雲さんが呟いた。


「如月の言っていた近頃の事件。全てがあの女と繋がっている」


 そうだ。薬の大量売買、第九区の死刑囚刑務所脱走事件、動物園の一時閉鎖。全てがティパちゃんに繋がった。

 東雲さんと神妙な顔を合わせる。どうやら想像以上に厄介なことになるかもしれないと、不安が膨らむ。

 明日はクリスマスイブ。

 ティパちゃんのライブが行われる日。




 温かい紅茶から少し渋みを感じた。カップから上る湯気の向こうに、あざみちゃんのお母さんのやつれた顔がある。前に見たときより、何歳か老けたようにも見える。

 あざみちゃんの家。リビングのテーブルに向かい合って私とあざみちゃんのお母さんは座っていた。クリスマスイブの夜。しかしこの家に、クリスマスらしい料理や飾りは一切ない。賑やかさとはほど遠い、どこか鬱屈とした空気だけが漂っていた。すっぴんに緩い服というラフな格好のお母さん、猫耳パーカーとショートパンツという仕事に向かうときの格好の私。


「何度も来てくれてありがとう。あの子もきっと喜んでる」

「いえ……そんな。こちらこそ、夜分に訪ねてしまって」

「あざみのことがあるから最近は夫も早く帰って来てくれるんだけど。生憎、今日はどうしても仕事で泊まり込みになるみたいで。一人でいるのは心細かったから嬉しいわ」


 白い壁にかかった時計は夜八時を指している。訪問には遅い時間だったが、あざみちゃんのお母さんは快く私を迎え入れてくれた。

 以前ならばこんな対応などしてくれなかっただろう。躾がなっていないのね、と呆れられて突き返されていたに違いない。優しくなったわけじゃない。気力がないのだ。疲れ果て、もはや誰でもいいから縋りたい気持ちなのだろう。

 今夜。これから私はティパちゃんのライブ会場へと潜入する。しかし東雲さんには先に現地へ向かってもらうことにし、私は一度あざみちゃんの家に寄っていた。何となく彼女の顔が見たかった。ティパちゃんのことを考えると、いつもあざみちゃんの姿を思い浮かばせていたから。


 淹れてくれた紅茶を啜りながら私達はしばし無言を続けていた。私が来たときから付けっぱなしだったテレビの音だけが部屋に聞こえている。最初はバラエティを映していた画面はいつの間にかお笑いを映している。楽し気な笑い声が、今この空間にはあまりに不似合いだった。


「――あの子はきっと起きたくないのね」


 どれだけの時間がたったときだろう。囁くようにあざみちゃんのお母さんが言った。湯気の消えたカップで両手を温めながら、その目は虚ろに空を見る。


「夢の中にいる方がずっと幸せなのよ。素敵な夢を見ているに違いないわ。お友達とたくさん遊んで、好きな所に行って。優しい両親も傍にいるのよ。……私や夫のような人じゃない」

「……どうして、そんな」

「私達があの子の幸せを奪っていたから」


 寂しい微笑みを浮かべて彼女は言う。ピクリと私の指が動き、紅茶の水面が揺れた。


「ずっと。今まで思っていたのよ。あの子には勉強を頑張ってほしいって。知識を蓄えて、難関大学に入って、名の知れた企業に就職することがあの子にとっての一番の幸せだって。正直なところ、今でもそう思っているわ」

「……………………」

「それだけじゃなかったのね」

「どういうことですか?」

「あざみの小学校時代の友達だって子達に会ったの」


 帆乃夏ちゃん達のことだとすぐに分かった。前に私と太陽くんと彼女達であざみちゃんのお見舞いに来たとき、先に帰った三人はあざみちゃんのお母さんと話す機会があったのだろう。彼女達が話したこと。それはきっと、自分達とあざみちゃんのことについて。


「あざみも昔は勉強なんて面倒って感じの子だったわ。まだ柔軟な子供のうちから学ばせなくちゃって、私も夫も必死だった。あの子の色んな選択肢を増やしたくてたくさん塾やスクールに通わせた。あるときから急に勉強に精を出し始めて、嬉しかった。この子もようやく自分の将来を見通してくれたんだって」


 でも違った、とあざみちゃんのお母さんは大きく頭を振った。


「その子達から聞いて初めて知ったの。あざみが学校でどんな風に過ごしていたか、明るかったあざみが酷く冷たい子になったこと。あの子は自分の未来を見つめていたんじゃない、諦めてしまっていたのね。選択肢を増やすどころか狭めてしまっていた。全部私達の責任よ」

「……そんな、そんな風に思うんだったら、どうしてあざみちゃんに勉強を押し付けたんですか」

「……私も夫も苦労したの。進学に失敗して望む大学に行けなかった、そのせいで幼い頃からの夢だった仕事に就くことができなかった。涙を呑んで諦めたものがたくさんあった。そんな私達にとってはね、自分の望んだ大学に進学することこそ、志望の企業に就職して働くことこそ人生の価値だった」

「価値ですか」

「そう、価値。人生で一番の」

「あざみちゃんの人生の価値も同じものだと思っていたんですか」


 無意識に声が張り詰めた。責めるような口調に、目の前の彼女は静かに目を閉じて頷いた。

 人生の価値。あざみちゃんのご両親が学歴のせいでどんな苦労をしたのかは知らない。きっと私が想像だにできない苦しい思いをしたのかもしれない。

 でもだからって娘にまで同じ価値観を強制するのは。将来の幸せを求めさせ、今の幸せを排除するのは。きっと違う。


「あざみは何がしたいのかしら」


 絞り出すようにあざみちゃんのお母さんは言った。何が、ともう一度静かに繰り返す。


「何がしたいのか、何を目指しているのか、何が夢なのか、何が好きなのか。……全部分からない。全部、知らなかった。知らなかったことさえ、今になって、初めて気が付いた」


 その声に震えが混じる。熱っぽい息を吐き、その肩が震える。


「ごめんなさいって言われたの」

「……………………」

「ごめんなさいって、あざみの友達だった子達に。あざみと喧嘩してごめんなさいって。ずっと謝りたかったって」

「……………………」

「ごめんなさいは、私が言うべき言葉よ」


 テーブルの上にポタリと雫が落ちた。華奢な肩が震え、細い指がぶるぶると顔を覆う。思わず立ち上がって手を伸ばしかけた、だが戸惑って、結局手を引っ込めた。

 一人にしてちょうだい、と涙声で彼女が言った。感情を必死に押し殺した声だった。


「……あざみちゃんのお見舞いに行ってきます」


 素直にその言葉に従い、私は立ち上がって部屋を出ようとする。私がいると大声で泣けないのならば、下手な慰めよりも、部屋を出ることの方がありがたいだろう。

 ふと、扉を開ける前に一度振り返る。顔を覆ってこちらを見ようとしていない彼女に向け、私は口を開いた。


「あざみちゃん言ってましたよ。パパとママのこと、好きだって」


 あざみちゃんと遊ぶとき、彼女はよく言っていた。パパとママは色々とうるさいと、勉強ばかり押し付けてくるところが嫌いだと。

 でも、大好きな両親だともよく言っていた。自分を生み育ててくれた、厳しくも大好きな両親なのだと。


 一瞬、息を呑む音が聞こえた。私は黙って部屋を出て扉を閉める。

 廊下を歩き始めてすぐ、決壊したような泣き声が背中に聞こえてきた。私は一度も振り返らず三階のあざみちゃんの部屋へと向かった。




 目覚めるのには解毒剤が必要とか、そんな単純な答えがあるならまだ安心できたかもしれない。

 ベッドの傍に座り、横になっているあざみちゃんを見下ろす。閉じた目の上、まつ毛が肌に影を落としている。最後にこの子の瞳を見たのはいつだろうかと不意に考えた。


「……突いたら起きないかな」


 そーっとあざみちゃんのほっぺを突っついてみる。ふにふにと柔らかい肌の感触にふへ、と笑みが零れる。軽く引っ張ってみたり両側から挟んだりして遊んでみる。ちょっと楽しい。けれど、普段こんなことをしたら絶対に怒られることだろうと思うと何だかむ虚しくなってやめた。

 あざみちゃんのように眠っている被害者は他にも数人いる。そのうちの何人かは、数日たって自然に目が覚めている。薄命先生はそう説明していた。

 栄養ドリンクを飲んだ量などが関係しているのかもしれない。そりゃ、一本飲んだだけで昏睡状態に陥ってしまったら、今頃世間は大騒ぎだろう。特に報道がないということは、まだドリンクによる被害者が少ないからか。

 他の子だって起きているんだから、彼女もきっと今にだって目覚めてくれる。私の顔を見て、どうしてここにいるのよ? なんて怪訝そうな顔で聞いてくれる。きっと、そうだよね。


 携帯が鳴った。太陽くんだ。あざみちゃんから視線を外し携帯を耳に当てる。街にでもいるのだろうか。背後から騒がしい喧騒が聞こえてくる。

 電話に出ると、彼は喧騒にも負けないほどの元気に弾んだ声で言ってきた。


『これからライブに行くんだろ?』


 うん、と肯定を返す。彼には既にティパちゃんが他の事件とも関わっていることについて説明していた。私と東雲さんが今夜調査に乗り込むことも。そうかぁ、とやけに嬉しそうに太陽くんが笑う。


『もう着いてるのか?』

「ううん、今はあざみちゃんの所。行く前に少し顔が見たくて」

『まだ起きない?』

「……うん」


 近くにいるのか、という問いに、いるよとあざみちゃんを見ながら告げる。

 電話の向こうで太陽くんが悩むように唸った。それから大きく息を吸う音。どうしたのかと思えば、直後、鼓膜が張り裂けんばかりの大声が吐き出された。


『おーい! 寝坊助、起きろ――!』

「うぅわっ!?」


 思わず電話を耳から離すも、太陽くんの声はなおも猛烈に聞こえてくる。耳を手で塞ぎながら目を丸くして言った。


「なっ、何やってるの!? びっくりした!」

『いや、こうすれば起きないかなと思って』

「こんなので起きたら単純すぎるよ!」

『まあまあ。刺激がないから目覚めないだけで、案外起きたりするかもしれないぜ?』

「だからって……」

『おーきろー!』

「うるさいっ!」


 思わず枕元に携帯を放ってしまう。少し離れた位置からでも太陽くんの声は聞こえてくる。はしゃいでいるのか、太陽くんはしばらく落ち着く様子はない。

 ああもう、と溜息を吐いて一度部屋を出ることにする。そろそろ行かなくては。あざみちゃんのお母さんに告げに行く間に、太陽くんも落ち着いてくれるだろう。

 階段を下りてリビングに向かう。念の為にとノックをしてから部屋に入った。しかし、椅子に座ったまま、あざみちゃんのお母さんはテーブルに突っ伏すように眠っていた。丸くなった背中がゆっくりと上下している。疲れが溜まっているのだろう。声はかけずに近くの壁にかけてあった上着をそっと背にかける。すぐに起こすことにはなりそうだが、何となく起こすのは偲ばれた。

 部屋に携帯を取りに戻る。太陽くんはそろそろ落ち着いただろうかと思いながら扉を開けた。真っ先に耳に飛び込んできた太陽くんの声に、まだやっているのかと苦笑を漏らす。そうして顔を上げて。


「……………………」


 心臓が凍り付いた。

 息が止まるかと……いや、実際に何秒かは止まっていたかもしれない。ようやく吐き出した息は震え、吸おうとした空気も上手く吸えなかった。

 起きろー、という太陽くんの声がまだ続いている。何度も何度も連続した起きろという声は、まるでいつまでも止まらない目覚ましだ。

 そんな目覚ましの声を聞きながら。ベッドの上で。あざみちゃんが、上体を起こして項垂れていた。


「あざみちゃん」


 力のない声で彼女の名を呼んだ。身を起こし、ぼうっとしていたあざみちゃんが。私の声に反応してこちらへ顔を向けた。

 赤らんだ目を眩しそうに何度か瞬かせて。不思議そうな顔で、彼女は言った。


「…………どうして和子がいるの?」

「あざみちゃんっ!」


 我慢できずに私は彼女の元へと飛び込んだ。いきなりの行動にあざみちゃんは目を白黒させながら私を引き剥がす。


「ちょ、ちょっと何……っていうか、え、声掠れてるし、何これ」

「あざみちゃん、あざみちゃんっ!」

「なに、なに! ちょっと苦しいってば落ち着いて!」

『……あざみ? なんだ、あざみ目が覚めたのか!? 目覚ましの効果か!?』

「ちょっと、もぉー……なんなの!?」


 説明して、とあざみちゃんが険しい表情で私を見つめる。込み上げる涙をぐっと飲み込んで、私はその小さな手を取った。

 太陽くんとの通話を一時切り、長い説明を始める。私が話している間あざみちゃんはずっと無言だったが、表情は雄弁に彼女の内心を語っていた。最終的に苦虫を噛み潰したような顔で肩を落としたあざみちゃんは、長い溜息を一つ吐いて項垂れた。


「そう……。まさか、あのティパちゃんが…………」

「えっと…………サインもらってきたけど、いる?」

「薪代わりにでもするといいわ」


 だよね、と苦笑する私の手を取って、あざみちゃんは続けた。じろりと鋭い視線が私の全身を舐める。


「その格好。これから行くんでしょう、あの子のライブ」

「色んな事件を解決するにはティパちゃんを捕まえた方が早いからね。それにもしもそこで何かが行われるなら、止めなきゃいけないから」

「あたしも行く」


 ギョッとして彼女の顔を見つめる。真剣そのものといった目付きを見て、駄目だよと首を振った。


「ずっと寝てて起きたばかりだよ? 無茶しないで寝てなきゃ」

「大きな仕事なんだから人手はあった方がいいでしょ」

「今のあざみちゃんは弱ってるんだから、休むべきだって!」

「……行っても足手まといになるって?」

「そういうことじゃなくて……! うぅ、これ以上我儘言うと怒るよ!」


 ふんっと彼女から顔を背けて目を閉じる。押しには弱いんだ。これ以上何か言われたら屈してしまう。でも今の彼女は休ませなきゃ……。

 あざみちゃんが私から体を離した気配を感じ、目を開ける。ふてくされた様子で枕を顔に押し付けるあざみちゃんは、なおもじっとりとした目で私を見上げていた。

 悪いことをしているわけじゃないのに罪悪感に心が痛む。必死でそれを押し殺し、とにかく寝なさいと彼女の肩を抱こうとした。

 私の腕に糸が絡みついたのはそのときだ。


「お?」


 理解が追いつかず不思議な声を出してしまう。いつの間にか両手首を細い糸が縛り上げている、という事実に気が付いたのは、あざみちゃんが手を引くのと、私の体が勢い良く仰向けに倒れていくのと同じ瞬間。

 柔らかなシーツの上に仰向けに倒れた私はすぐに起き上がろうとする。だが足も手も指先でさえもピクリとも動かなかった。唯一動く瞳で体を見下ろしてみれば、体のあちこちに食い込む糸が照明に光っているのが見える。

 あっという間だった。どこから糸が飛んできたのかも分からない。気が付いたら、ベッドに拘束されていた。

 枕の下から取り出した糸を指に巻き付けたあざみちゃんが、ニヤニヤ笑いながら私の上に座る。彼女が顔を近付けると、垂れた髪が頬をくすぐって笑いそうになった。


「これでも足手まといだって言える?」

「……言えないですね」

「あたしだって練習してるのよ。もう一度和子達と戦ったら今度は勝てるでしょうね」


 楽しそうに笑ったあざみちゃんは、一転して寂しそうな子供っぽい表情を浮かべた。懇願するような甘えた声が私に振ってくる。


「ねえ、お願い。あたしだってティパちゃんのファンなのよ。だから一番、彼女の罪を認めさせてあげたいのよ」


 お願い。もう一度そう言ってあざみちゃんは糸を動かす。私の指が、私の意思とは無関係にピクリと動いた。

 …………まったく、この子は。


「ついていってもいいでしょう?」

「……あざみちゃん」

「なぁに」

「どうせ何言っても付いてくる気でしょう」


 私の指は丸のマークを形作っていた。自分の意思では、これっぽちも指に力を入れてはいないのだが。

 私の反応にあざみちゃんはニヤリとまた不敵な笑みを浮かべた。


「それにしても太陽の声って本当喧しい。せっかくぐっすり寝てたのに」

「悪夢は見なかった?」

「悪夢? いいえ。起きたら随分日がたってて、びっくりしたけど」


 なら良かった、と私はドリームキャッチャーに視線を落とす。あざみちゃんは怪訝そうに首をかしげていた。




「ママが寝てるなら都合がいいわね」


 起きたことをお母さんに伝えに行かなきゃ、と言った私にあざみちゃんは首を振った。どうあってもティパちゃんのライブへ行きたいらしい。

 急がなきゃとあざみちゃんは十数秒で身支度を終える。身支度といってもパジャマの上からカーディガンを羽織って糸だけを持った、準備とも言えない仕度だ。窓の外から靴を取って履くと、あざみちゃんは行くわよと私に告げて窓から身を乗り出した。


「えっ、ここから!?」

「勿論」

「でもお母さん寝てるんだし下から行っても」

「何かの拍子に起きちゃったら面倒でしょ。こっちの方が、気付かれにくいわよ」

「私、二階はともかく三階からは降りられないなぁ」

「バッカ。誰が飛び降りろって言ってんのよ」


 あざみちゃんが手を差し出してくる。キョトンとしながらも手を取ると、彼女はふっと柔らかく微笑んだ。


「しっかり捕まって」


 腰に糸が巻き付いた。ぐっとあざみちゃんに引き寄せられ、思わず首に手を回す。窓から半分ほど身を乗り出すような格好になった。

 あざみちゃんを見れば、彼女は真っ直ぐに窓の外を見つめて笑っていた。


「三階から降りるくらいわけないわよ」


 そう言った次の瞬間。私とあざみちゃんの体は、ふわりと窓の外に落ちた。

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